
U−20(20歳以下)日本代表が、UAEで行われているFIFAワールドユース選手権で見事な戦いを見せている。1次リーグで優勝候補のひとつと言われたエジプトを1−0で下し、決勝トーナメント1回戦では韓国との死闘を延長の末2−1で制してベスト8進出を果たした。その立役者のひとりがGKの川島永嗣(大宮)だ。
反射神経が非常に鋭い。エジプト戦では、至近距離からの強シュートをことごとくはね返した。しかしそれだけではなかった。韓国戦の後半終了間際に見せたFKに対する守備は、この選手が非常に良い指導を受け、20歳という若さで優れた技術を身につけていることを示していた。
延長戦突入直前の後半44分、日本は韓国にペナルティーエリアの左外でFKを与えてしまった。ゴールまで27メートル。日本は4人の選手が「壁」をつくり、GK川島はゴール内の中央に立った。
韓国FW鄭ジョングクは、その壁の上を越える強シュートを放った。壁を越えた後に強烈なドライブがかかり、ボールはゴールの左下隅に飛んでいく。完璧と言っていいFKだった。
川島は、ボールが壁を越えてコースが明確にわかるまで動かず、両足に均等に体重を乗せてリラックスした姿勢をとっていた。そしてボールが自分から見て右に来るのを見てとると、まず右足を内側(左側)に引いて重心を右に移し、次に左足を体の前にクロスさせるように右に大きくステップし、さらに右足を右に踏み出し、そこで初めて体を倒して、直前でワンバウンドしてゴール隅にはいろうとしているボールをはじき出した。
しっかりとした技術のないGKは、こうした状況では、シュートを止めようと、立ったポジションからジャンプしてしまう。よく訓練されたJリーグクラスのGKでも、このときのシュートのスピードであれば、右足を1歩外側に運んで、その右足の力で右へ跳ぶのが精いっぱいだっただろう。そして、そのどちらでも、このときのシュートは防げなかっただろう。
しかし川島は、この短時間に2歩のしっかりとしたステップを踏んだ。決定的なピンチから日本を救ったのは、この2歩だった。
「派手にセービングするのは二流のGK」と言われる。シュートに対して体をそりながら横に跳び、ボールをはじき出すプレーは、非常に派手でかっこいい。GKという地味なポジションの選手がいちばん目立つときでもある。
しかし一流のGKは、多くのボールを正面で処理する。キャッチする瞬間には非常に簡単なシュートが飛んできたように見える。まずシュートのコースを読み、そしてすばやくステップを踏んでそのコースで待ち構えているからだ。だから一流のGKの守りには、派手なセービングは少ない。
イングランドのGKバンクスがブラジルのペレのヘディングシュートを防いだ70年ワールドカップの伝説のプレーのときにも、バンクスはクロスに対処して立っていた右ポスト前からすばやく4歩のステップを踏んで左に移動し、リラックスした構えから左下隅に飛んできたシュートをきれいにはじき出した。
川島は身長185センチ。国際クラスのGKでは大きいほうではないが、まず申し分ない。しかし身長や反射神経の鋭さだけでなく、レベルの高い技術をしっかりと体得していることが、このGKの最大の魅力だ。
韓国との延長戦を見ながら、私は「もしPK戦になったら、日本が勝つだろう」と感じていた。それはもちろん、GK川島がいるからだ。
もしかすると、日本人で初めて、ヨーロッパの一流クラブで活躍できるGKが誕生するかもしれない。
(2003年12月10日)
まるで「キレる若者」を見る思いだった。
11月29日のJリーグ最終節、優勝をかけた横浜と磐田のビッグゲームの前半15分、横浜のGK榎本哲也が磐田FWグラウを突き倒し、退場処分になったのである。
その直前、榎本がボールをけろうとしたときにグラウが飛び込んできて、体に当たったボールがあわやゴールに転がり込みそうになった。吉田寿光主審はグラウのこのプレーを反則にしたが、榎本は収まりがつかず、自陣に戻ろうとしていたグラウのところに猛然と走り寄り、そのままの勢いで突き倒したのだ。
20歳の榎本にとって、この試合のプレッシャーがどれほどのものであったか、想像に難くない。早々と1点を失って、さらに追い詰められていたのかもしれない。しかしそれでも、あんな形の報復は、とてもサッカーの試合の中の行為とは思えない。
その晩遅くにテレビ中継で見たワールドユース選手権では、日本のDF角田誠(京都)が、すでに一枚イエローカードを受けた直後というのに、相手FWの小さな反則に怒り、つかみかからんばかりの形相で怒鳴った。相手選手が取り合わなかったのが幸いだった。もし相手が少しでも挑発する素振りを見せたら、手が出ていた状況だった。そうなれば、榎本と同じように一発退場は免れなかっただろう。
最近、こうした行為が多いのが気になる。退場処分になったらチームは残りの時間を10人で戦わなければならなくなるのは誰でも知っている。しかし頭にカッと血が昇った瞬間、何もかも忘れてしまうのだろう。そしてその一瞬後には後悔だけが残る。自分の軽率な行為が大きな迷惑をかける結果になった榎本は、劇的な逆転勝利でチームがJリーグの年間チャンピオンに決まった後にも、心から喜ぶことはできなかったはずだ。
デビッド・ベッカム(イングランド代表、レアル・マドリード)には、苦い記憶がある。初めて出場したワールドカップ、98年フランス大会の決勝トーナメント1回戦。強豪アルゼンチンと2−2で迎えた後半はじめ、彼はシメオネの反則に怒り、うつ伏せに倒れたまま相手の足をけってしまったのだ。ひどいキックではなかったが、明らかに故意だった。言い訳はできない。主審は見逃さず、即座にレッドカードが出た。
それまで「この大会最高の内容」と呼ばれるプレーを見せていたイングランドだったが、ひとり減ったことで守備を固めざるを得ず、延長まで防戦一方の試合を戦ったあげく、PK戦で敗れた。メディアは、敗戦の全責任をベッカムに押し付けた。そしてその後も、ことあるごとにそのときの退場事件を取り上げた。
ベッカムは深く傷ついた。その傷は、2002年ワールドカップの予選最終戦で見事なFKをギリシャのゴールに突き刺して出場権をもたらしても完全に癒えることはなかった。昨年6月、2002年大会のアルゼンチン戦(札幌)で、決勝点となるPKを決めて雄叫びを上げる姿を見て、ようやく彼がその悪夢から解放されたことを知った。
ファウルをされて冷静さを失う選手は怖くない。本当に怖いのは、日本代表の中田英寿(パルマ)のように、どんなファウルを受けても何事もなかったかのように立ち上がり、すぐに次のプレーに移っていく選手だ。
感情をコントロールできなければ自分自身のプレーをコントロールすることはできない。どんな技術をもち、高度な戦術を身につけていても、コントロールが効かなければ勝者になることはできない。
榎本は今回の退場を忘れてはいけない。苦い思いを抱き続け、いつか心から喜べる日を迎えられるよう、努力を続けなければならない。
(2003年12月3日)
「今シーズンのJリーグMVPはいったい誰だろう」
友人のジャーナリストがしきりに聞く。Jリーグ・アウォーズ(12月15日)で発表されるMVP(最優秀選手賞)は、選手や監督の投票で選ばれるが、ことしは、絶対的な候補がいない。シーズンを通じて活躍できた選手が多くはないのだ。
横浜なら、DF中澤佑二かMF奥大介だろうか。MF遠藤彰弘もコンスタントなプレーでチームを支えた。
私は、現在のJリーグで最も力があるのは浦和のFWエメルソンだと思う。昨年来のオフト監督の指導で、精神的にもずいぶん成長した。しかしシーズンの最も大事な時期に累積警告で2試合の出場停止になった代償はあまりに大きかった。
最優秀選手を選ぶのは難しい。しかし「最優秀監督」は簡単に選べる。市原のイビチャ・オシムだ。
今季のJリーグには、見事な仕事をした監督がたくさんいた。横浜の岡田武史監督は、第1ステージを制覇しただけでなく、主力の半数が欠けた第2ステージの前半に思い切った采配で見事にチームを立て直した。質量ともにハイレベルな動きとパスワークで相手守備を崩すサッカーも、高く評価されるべきだ。
FW高原、MF藤田を移籍で失うなど痛手を受けながら現時点で年間最多勝ち点を上げている磐田の柳下正明監督の粘り強さも見事だ。ファンを喜ばせる攻撃的姿勢を貫いたFC東京の原博実監督、降格の危機から東京Vを救い上げたオスバルド・アルディレス監督も、手腕を見せた。そして浦和に初めてのタイトルをもたらしたハンス・オフト監督がいる。昨年から若い選手を徐々に伸ばし、ことしの後半に一挙に花開かせた指導力はさすがだった。
しかしこうした監督たちのなかでも、市原のオシムは別格だった。
今季の市原は、第1ステージで優勝の可能性をつかんだが、最後の2試合でプレッシャーに押しつぶされる形で後退した。しかし第2ステージでも高いレベルのチームプレーを維持、最終節まで優勝争いに加わった戦いは、見事というほかない。
U−22代表のMF阿部勇樹がいるが、日本代表選手がいるわけではない。かといって韓国代表FW崔龍洙やスロベニア代表DFミリノビッチに頼りきりでもない。若く、代表とは無縁の選手たちが、それぞれの能力を最大限に発揮し、チームとして戦ったのが、今季の市原だった。
オシム監督は2月のキャンプで徹底した走り込みをさせ、「走る市原」をつくりだした。シーズンにはいると、ポジションにこだわらず積極的に前のスペースに走るプレーに目を見張った。こうしたプレーによって、選手たちが内面から変わり、喜びをもってプレーしているのを知った。そしていくつかの試合を見て、オシム監督の指導が日本人選手の長所をフルに発揮させるものであることに気がついた。
日本人選手は、体格面やパワーでは劣っても、持久力に優れ、チームプレーの意識をもち、与えられた役割に対する責任感が強い。市原は、ただ走るだけではない。シンプルにボールをつなぎながら選手が連動して動く。スタンドプレーは皆無。ひとりで「スーパープレー」を狙うのではなく、数人のシンプルなプレーで驚きをつくり出す。
勝負はままならないこともある。勝った経験に乏しい選手たちは、プレッシャーにどう対処したらいいか、まだ身につけていなかった。
しかし1年ですべてを変えるわけにはいかない。オシム監督は、来季も市原の指揮をとる方向だという。「オシムのサッカー」が2年目にどんな発展を見せるのか、期待をもって見守りたい。
(2003年11月27日)
画面の右端に、コーナーキックをけろうとするボビー・チャールトンがいる。数百人の目が彼に集中している。
1970年のイングランド・リーグ。場所はイプスウィッチ。見つめているのは、ホームクラブのファンたちなのだろう。複雑な表情のなかにも、この国が生んだ不世出の天才選手に対する敬意があふれている。そして最前列を占める少年たちの瞳は、英雄への強いあこがれを物語っている。この時代、サッカーのスターたちは、莫大な富や名声で語られるのではなく、愛され、尊敬される存在として社会のなかで生きていた...。
イギリス人の写真家ピーター・ロビンソンさんから、立派な写真集が送られてきた。「FOOTBALL days」(ミッチェル・ビーズリー社刊)。1965年から撮り続けてきた膨大な写真のなかから、彼自身が選び抜いて構成した写真集だという。350ページというボリューム、内容の豊かさはもちろん、装丁や造本など、あらゆる面で第一級の写真集といえる。
44年2月23日、イングランド中部のレスター市生まれ。父は警察官、母は36年ベルリン・オリンピックでイギリス代表になった水泳選手だった。しかしピーターは映画に魅せられ、レスターの王立美術デザイン学院に進学する。その課題でサッカーの撮影をしてみようと思い立ったのがすべての始まりだった。
1965年、当時のイギリスでは、ビートルズとともに、58年の悲劇的な航空機事故から立ち直ったマンチェスター・ユナイテッドが大きな話題になっていた。なかでも19歳になったばかりのジョージ・ベストは、ビートルズに劣らない人気をもっていた。
両親に買ってもらったロシア製の安いカメラ1台と薬屋(当時、カメラやフィルムは薬屋で扱っていた)で借りた望遠レンズを手に、ヒッチハイクでマンチェスターへ向かった。2本のフィルムを買うだけで手一杯だったからだ。そのときの初々しいベストも、この本に収められている。
不思議な運命に引っ張られて、やがてロビンソンさんはサッカー写真家として確固たる地位を築いていく。70年からは、四半世紀にわたって国際サッカー連盟(FIFA)の公式カメラマンという顔ももった。新聞や雑誌など特定の媒体に縛られなかったことで、創作意欲が保たれ、次つぎと新しいテーマに取り組むことができた。
「とにかく頑固なんです」。日本のサッカー写真の第一人者である今井恭司さんは、彼の人柄をこう語る。
「周囲に流されない。他のカメラマンがいっせいに右に行くときに、彼は敢えて左に行く。へそ曲がりなのではない。『こういう写真を撮りたい』という明確な狙いをもって左へ行く。そうして撮られた写真から、サッカーを通じてものすごくいろいろな人生が見えてくるんです」
イングランドが中心の本だが、世界中のサッカーシーンが収められ、日本で撮影したものも十数点ある。そのなかのひとつ、横浜FCのサポーターの写真は、弾むようなサッカーの喜びが息づき、ちょっぴりのユーモアとともに表現されている。
実は彼、10年ほど前に日本人女性と結婚した。頑固でけっして社交的とはいえなかった彼が、本来もっていた優しさや思いやりを素直に表現できるようになったのは、それからのように感じる。こんなすばらしい写真集が出来上がったのは、奥さんの支えが大きかったからに違いない。
「サッカーが人びとの人生の中でどんな役割を演じているのか、写真を通じて、それを表現したかった」とロビンソンさん本人が語る写真集は、日本でも、大手書店やインターネット書店「アマゾン」などで入手することが可能だ。
(2003年11月19日)
新しい試みがスタートする。東京西部の小金井市にある東京学芸大学が、JリーグのFC東京、そして地元小金井市との連携で「地域総合クラブ」を創設することになった。
教員養成の国立大学として知られる東京学芸大は、地域に開かれた大学を目指して、公開講座や図書館の公開など、各種の取り組みをしてきた。しかし来年4月から新しい「国立大学法人」へと移行するのに伴い、スポーツと文化の両面で地域社会の活動を支援する「学芸大クラブ」を創設することになったという。
JFL時代から江東区の深川にある施設を練習グラウンドとして使ってきたFC東京は、昨年から小金井市に隣接する小平市に移転した。味の素スタジアムの完成でホームスタジアムが東京西部の調布市となったためだ。
そして東京西部に根を張ろうと、少年サッカースクールなどさまざまな地域活動を展開してきた。FC東京の試合に行くと、おそろいの青いユニホーム姿の家族連れをたくさん見る。丹念に地域活動を展開してきた成果だろう。
しかしその一方で、中学生年代の「ジュニアユース」は、深川に置かれたままだった。小平の練習グラウンドには天然芝のグラウンドが2面しかなく、ここでジュニアユースまで活動をすることはできなかったからだ。
中学生年代だから、あまり遠くから通うことはできない。地域活動を深めれば深めるほど、「東京西部にもジュニアユースのチームをつくってほしい」という要望が強まった。
学芸大との連携は、この面だけを考えても大きなメリットのあるものに違いない。FC東京は人工芝のサッカーグラウンド2面を学芸大に寄付し、そこを舞台にさっそく新しいジュニアユース・チームを立ち上げる予定だという。
人工芝のグラウンドは、サッカーの練習だけでなく、いろいろな活動やイベントに使うことができる。毎日、朝から晩まで酷使しても問題はないので、新しくできる「学芸大クラブ」にとって非常に有用な財産になるだろう。
「将来的にはクラブハウスをつくりたい」と、東京学芸大の岡本靖正学長は語る。サッカーに限らず、広く小中学生のスポーツ育成活動から手をつけていきたいというが、予算づけができているわけではなく、具体的にはすべてこれから詰めていくという。
同大学サッカー部監督の瀧井敏郎さんは、「FC東京というサッカーの面でも運営の面でもプロ集団との交流は、学生たちに大きな刺激になり、幅広い人材育成に役立つ。大学にとっても非常にメリットのあること」と力説する。
注目したいのは、「学芸大スポーツクラブ」ではなく、「学芸大クラブ」という名称だ。スポーツだけでなく、音楽など、広く文化活動を展開していきたいという。
Jリーグの「百年構想」には、「スポーツで、もっと、幸せな国へ」という標語のとおり、もっぱらスポーツ環境の整備により、新しい文化を築こうという意図がある。現在、日本の各地で計画が進んでいる「地域総合スポーツクラブ」も、同じ考え方だろう。
しかし「学芸大クラブ」は一歩進んでいる。スポーツとその他の文化活動を区別する必要はない。目的は、地域の人びとの生活を豊かにすることだからだ。
地元小金井市も巻き込んだ新クラブづくり。国立大学とJリーグ・クラブの連携という新しい取り組みは、今後、いろいろな形で各地に波及していくのではと期待される。
具体像は明確ではないものの、「学芸大クラブ」は、大きな可能性を秘めた「プラットフォーム」のように思える。学芸大、FC東京だけでなく、市民が積極的に関与して、その上に豊かな「クラブライフ」を築いてほしいと思う。
(2003年11月12日)