サッカーの話をしよう

No.7 Jリーグの運営にボランティアの活用を

 第1ステージの入場券はもう1枚も残っていないというJリーグ。今後の全試合が定員いっぱいの競技場で行われることになる。
 当然、周辺道路の誘導、場内警備、案内、入場券切りなど、試合の運営のためにたくさんの人が必要となる。運営の中心はもちろん各クラブの職員だが、1万人規模の小さなスタジアムでも警備会社社員、アルバイトなどで200人以上の人員が配置される。

 昨年6月、スウェーデンで欧州選手権が行われた。8チーム参加の小さな大会だったが、運営の見事さ、とくにボランティアの仕事ぶりは印象的だった。
 試合の日スタジアムに向かうと、IDカードを首から下げ、黄色いジャンパーを着た補助役員が、町のあちこちから三々五々出てくる。年配の男性が多い。決まった時間に決まった場所につくと、誰の指示を受けるでもなくそのまま競技場周辺での案内、ゲートでのチェックなどの仕事を始める。そして仕事が終わるとそのまま帰宅する。

 不思議だったのは、補助役員といいながら、大会運営や競技場運営の知識が非常に豊富だったことだ。持ち場でないことを質問しても、たいていは正しい回答を出してくれた。
 「大会中は4会場を合わせて約3000人のボランティアが働いてくれています。彼らの大半は普段の国内リーグでも地元クラブのために活動しているので、仕事としては慣れたものなのです。もちろん無給。補助役員の制服である大会マーク入りのジャンパーや感謝状をもらうだけで、喜んでやってくれています」
 大会組織委員会委員長でもあったスウェーデン・サッカー協会専務理事ラルス・オルソン氏はこのように説明してくれた。
 ボランティアの紳士たちは、日ごろから親しんだ競技場で日ごろから慣れた仕事をしていたのだ。ヨテボリのスタジアムで場内の案内をしてくれた人は、2週間に一度行われるIFKヨテボリ(スウェーデンの強豪クラブ)の試合でも、同じことをしているのだ。
 彼らの多くはすでに仕事を引退した人で、こうして地元のクラブやサッカーのために働けることを、このうえない喜びとしているということだった。

 さて、Jリーグではどうか。前述したように、補助役員の大半はアルバイトというのが実情だ。地域のサッカー協会の役員が働いている場合もあるが、無償というわけではない。高校のサッカー部員を動員するときにも同じだ。そして日本の競技運営の習慣として、必ず弁当がつく。
 ここに徐々に本当のボランティアを導入したらどうだろう。ゆくゆくは、アルバイトなど頼まなくてもいいようにするのだ。
 Jリーグは「地域に密着する」ことを標榜し、「ホームタウン制」をとった。地元自治体は競技場整備のために何億、何十億という巨額を投じた。だがそれは「あとは市民が楽しめる試合をやってくれればいい」ということではない。Jリーグクラブが、多方面から地域の生活を「豊か」なものにしてくれることを願っているに違いない。
 クラブ運営のために大金を投じているのはスポンサーの企業。しかしクラブは地域市民のもののはず。

 運営経費を落とすための提案ではない。地域の人々にボランティアの機会を提供することも、地域の生活を豊かにする重要な要素だと思うのだ。
 警備のような特殊な仕事を除き、クラブ職員とボランティアで試合運営ができるようになったとき、クラブはやっとホームタウンのものになったといえるのではないだろうか。

(1993年6月8日=火)

No.6 サポーターも社会貢献

 密かに心配していた。
 Jリーグのサポーター・コントロールだ。昨年のナビスコカップで誕生し、今季も試合ごとに増え続けているサポーター。しかし問題も生まれ始めていた。

 そのひとつが花火や発光筒、爆竹などの危険物。スタンドからの飛び下りにはいろいろと対策を実施されているサッカー界だが、花火や爆竹には抜本的な対策は練られていない。4月のワールドカップ予選でも花火、発光筒がスタンドで使用された。しかし優しい女性の声での「使用は禁止されております」の場内アナウンスがあったのみ。
 サポーターの活動が盛んになるにつれて、ライバルチーム同士のサポーターの衝突も懸念された。
 国際サッカー連盟が現在もっとも気にかけているのがスタジアムの安全と保安の問題。地震国日本だけに建築の基準が厳しく、外国に見るような危険な観客席はまずない。しかし保安問題は、ほとんど考えられていないのではないか。

 外国では、スタジアムの保安対策としてまず入場者の持ち物チェックを行う。ここで花火や発光筒などの「危険物」の持ち込みはストップされる。そして場内では、ホームとアウェーのサポーターはきっちりと分かれた場所に入れられる。
 開幕以来、花火や爆竹はいろいろなところで見られた。そのたびに係員が飛んでいったが、危険物を投げ込んだ「犯人」を探すことは不可能だった。
 とくにヒヤっとしたのは4月19日、浦和駒場で行われた試合。ロケット花火、発光筒、爆竹と、危険物のオンパレード。このままでは入場者の全員に持ち物チェックを実施しなければいけないと感じた。

  しかし──。
 この後何が起こったか、読者の皆さんは想像がつくだろうか。
 レッズのサポーターたちは、この試合後にスタンドで「反省会」を開き、こうした危険物は一切やめようと話し合ったというのだ。そしてリーダー格の青年たちが、若いサポーターたち(中学生、高校生が多い)に、「絶対にケンカはするな、スタンドから飛び下りようとする子供がいたら止めろ」などと、サポーターとしての心がまえ、守らなければならないルールを教えているというのだ。
 「いつまでも僕らがリーダーとしているわけにはいかないから、いまのうちに後輩たちにたたきこんでいるんですよ」と、あるリーダーは語る。 日本のサポーターは実に賢い。外国でサポーターがフーリガン(ならず者)になっていった過程をよく理解し、見事に教訓とした。

 5月26日にジェフ市原とのアウェー戦でレッズが東京・国立競技場に初登場したとき、競技場側は花火などの行為があるのではと、相当警戒した。
 しかし試合がが始まってみると、職員たちの不安は感嘆に代わった。レッズのサポーターたちは悪評高いチアホーンを使用することもなく、声と手拍子だけでチームを励ました。そして試合終了後、彼らはスタンドのゴミをひとつ残らず拾い集めて帰ったのだ。
 Jリーグの理念のひとつが「地域社会への貢献」。受験戦争とTVゲームでつながりを寸断された若者たちが、まるで昔の「ガキ大将」のようなリーダーたちに導かれているのは、Jリーグが生んだ新しい社会現象。間接的だが、このような形で社会に貢献できるとは、川淵チェアマンも予想していなかっただろう。
 開幕以来4連敗だったレッズ。チームの士気を保ち、地元初勝利をもたらしたのは、無条件の愛情を示し続けた日本一のサポーターの存在だった。

(1993年6月1日=火)

No.5 Jリーグの人気沸騰

Jリーグ、日本代表を中心としたサッカーの人気沸騰ぶりに、とまどっている人も少なくないだろう。
 2、3年前まで、サッカーはたくさんの競技のひとつにすぎなかった。スポーツニュースでもプロ野球の後につけ加えられる程度。それがいまでは、プロ野球関係者に危機感をもたせるほどの人気と注目を浴びる存在になってしまった。
 これまで3誌だったサッカー専門誌が、Jリーグの開幕に合わせて次々と創刊され、書店には雨後の筍のように解説書が並ぶ。2年前にはひとつもなかったテレビの定期番組も、数えられないほどになった。「新しいもの好き」の大衆や若者がマスコミに踊らされているだけなのか──。

 たしかに、現在の人気は多分に「バブル」的な要素がある。日本代表がワールドカップに出場できるかどうかにバブルがいつまで続くかがかかっているが、いずれにしろ数年のうちにこの大騒ぎも収まるはずだ。
 だがそれは、Jリーグがアマチュア程度の人気になったり、日本のサッカーが以前のようなマイナーな地位に戻ってしまうということではない。

 かなり前、外国の雑誌に日本のサッカーの状況をレポートしてほしいと頼まれて、「特殊な第2位」と説明したことがあった。
 日本のナンバーワンスポーツはもちろん野球。だがサッカーは少年たちを中心に野球にまさる人気を得ており、そのジェネレーションはすでに30代はじめまで上がっている。今後10年ごとにサッカーファンの層は上がっていき、いずれは野球に並ぶ、あるいは野球をしのぐ競技になるはずだ----。

 サッカーが世界で最も普及しているスポーツであることはよく知られている。しかし以前はよく、日本には根づかないと言われた。「日本は『間』の文化の国なんだ。スポーツも相撲や野球のように間のあるスポーツだけが好まれる」というのが、その論拠だった。 しかしこの論理は現在の若い世代には通用しない。TVゲームで育った世代には、逆にその「間」がまどろっこしくて仕方がない。サッカーのように一瞬のうちに攻守が入れ代わる変化に富んだゲームのほうが、彼らの感性にはあう。
 サッカーのもつ自由な雰囲気も若い世代に支持される。ファッションや髪形という外面の話ではない。その外面を生み出す競技の本質、試合が始まったら個々の選手がすべての判断を自ら下さなければならないことが共感を得ているのだ。

 キャラクターグッズの派手な商品展開、これまでのスポーツ界では考えられなかったクラブソング、テレビ局との強気な交渉など、Jリーグの「商売上手」が取り沙汰されている。しかしそれはすべて大きな支持がベースにあってこそのもの。そのベースこそ少年層でのサッカー人気であり、若い世代の共感なのだ。
 これまでサッカー少年や若いファンは日本のサッカーにあき足らず、世界に夢を求めていた。少年たちのアイドルは数年前までアルゼンチンのマラドーナ。だがいまでは人気ナンバーワンはカズであり、福田、ラモスら代表やJリーグをリードする選手たちだ。
 現在のサッカー人気は、たしかに「バブル」だ。しかし日本のサッカーはこの間に確実に大きなステップを踏んだ。このバブルがはじけても、その後にはしっかりと根づいた人気が残るはずだ。
 いやもしかしたら「泡」は、知らぬ間に実体となってしまうかもしれない。ルールもわからないまま人気と話題につられて観戦にきた人たちが、どんどんサッカーの魅力にとりつかれてしまっているからだ。

(1993年5月25日=火)

No.4 この感動、誰にでも

 ファンもマスコミも大騒ぎだった5月15日のJリーグ開幕戦。大きな記事にはならなかったが、心温まる出来事があった。第1ステージのシリーズスポンサーであるサントリーが、都内など11の養護施設から200人を招待したことだ。

 日本リーグ時代にも、三菱(現浦和レッズ)が東京や埼玉の施設に招待状を送り、車椅子を押すためにスタッフやOBを動員して対応したことがあった。そのときの話では、もっとたくさん招待したいのだが、駐車施設、競技場の構造、スタッフの手配、トイレの数などいくつもの障害があり、1試合にほんのわずかな人しか招待できないとのことだった。
 ヨーロッパのサッカー場では、車椅子の人びとがスタンドの最前列で観戦している姿をよく目にする。スタジアムによっては、自動車のボディだけをはずしてフィールドのすぐ外に置いて「特等席」にしている。  日本でも、障害をもった人びとを視界から遠ざけようとしていた時代は過去のものとなり、彼らはいま積極的に社会に出ていこうとしている。社会もまた、そうした傾向にようやく後押しを始めた。県立の競技場には定員の1%の障害者用の席を設けなければならないなどの条例をもつところも少なくないと聞く。

 たしかに、障害をもつ人びとのための施設をつくることはとても大事だ。しかしそれ以上に必要なのは、同じ社会の仲間として、彼らが不自由を感じないよう、いっしょに人生を楽しめるように、誰もが思いやりをもって行動することではないだろうか。
 サッカー場にくる少年や少女のファンの大半は、健康に恵まれ、それを当然のことと考えているはずだ。そうした場に車椅子に乗った同世代の少年少女が観戦にくることは、彼らのなかに自分の健康に対する感謝の念を起こさせ、他人に対する思いやりを育ててくれるに違いない。
 Jリーグは、これまでのプロスポーツと違い、地域社会との密接な結びつきを特徴としている。そしてサッカーがとくに青少年に人気の高いスポーツであるとすれば、地域の少年少女に対するJリーグ・クラブの責任は非常に大きなものといわなければならない。

 開幕戦はJリーグが直接主管する特別な試合だった。しかし今後はすべて各クラブが主管し運営にあたる。5月15日はスポンサーの招待だったが、これからは各クラブがそれぞれのやり方で同じような招待活動をしていくはずだ。
 レベルの高い試合をして観客を熱狂させることだけがプロサッカーの使命ではない。こうした地道な活動を、その意味を見失わずに続けることは、スペクタクルなゴールをあげ、勝利を重ね、チャンピオン・プレートに名を刻むことと同じように、あるいはそれ以上に意義のあることだ。

 今季26シーズンぶりにイングランドのチャンピオンとなったマンチェスター・ユナイテッドのスタジアムで15年前に見た光景は、いまも鮮烈に脳裏に焼きついている。
 耳も目も不自由な少年が、スタンドで「観戦」していたのだ。
 少年が、プレーを見ることができず、歓声や応援の様子を聞くこともできないとわかったのは、付き添いの家族が彼の手のひらに一生懸命字を書いて試合の状況を説明していたからだ。目は見えず、耳は聞こえなくても、少年はスタジアムを震わせる空気や人びとが足を踏みならすリズムを感じることができるに違いない。光も音もない彼の生活にとって、この日はどれほどの喜びに満ちていたことだろうか。

(1993年5月18日=火)

No.3 アウェーでの経験は大きな財産

 快勝続きだった日本での第1ラウンドとはまた違った、緊張感に満ちた十日間だった。現地に行くことができずテレビ観戦だったが、「アウェー」戦の厳しさは画面からもあふれるほど伝わってきた──。

 94年アメリカワールドカップ・アジア第1次予選の第2ラウンド、アラブ首長国連邦(UAE)でのシリーズを乗り切った日本は、7勝1分けで最終予選へコマを進めた。
 UAEでの4試合はけっして最高の内容とはいえなかった。しかし苦しみぬいた第2ラウンドは、4連勝、失点なしの16得点で終えた日本での4試合よりも重要なものとなるはずだ。「アウェー」という言葉の重さを、今回ほど感じさせられたことはなかったからだ。

 現地に到着した日本代表を出迎えたのは、使用競技場と試合時間をめぐるゴタゴタ、出場停止中のはずのタイ選手が突然出場してくる不可解、挙げ句は、日本、タイ両チーム中心選手のいきなりの退場と、「これでもか」といわんばかりのアクシデントの数々。
 そして何よりも、暑さとフィールドコンディションの悪さは、素早い動きと緻密なパスワークを武器とする日本にとって大きなマイナスとなった。テレビでもわかるボコボコの芝は、カズや福田のドリブルの威力を半減させた。

 対スリランカ戦では、主審の極端な判定が目を疑わせた。当然コーナーキックになるはずのボールがスリランカのゴールキックとなり、接触プレーがあれば必ず日本が反則をとられた。東京での試合では17本もあった日本のFKが、この試合ではわずか3本だった。
 とくにひどかったのは、FW高木のプレーに対する判定だった。体を使って相手をブロックしながら縦パスを受けるのが高木のプレーの特徴だが、それがことごとくファウルにとられた。
 私は20年以上サッカーを見続けているが、これほどひどいレフェリングにはお目にかかったことがない。この日の主審はサウジアラビアのアルメハンナ(34歳)氏。彼が今後国際審判員として活動できるとしたら、国際サッカー連盟の指導力も地に墜ちたといっていい。それほどひどいレフェリングだった。

 しかしこのレフェリーに対する日本選手たちの態度は、絶賛に価するものだった。キックオフ後すぐレフェリーが何をしようとしているのかを見てとると、一切文句をいわずに自分のプレーに集中した。そのセルフコントロール、プロフェッショナルな行動は、井原の守備、ラモスのパス、カズのシュート以上に日本のファンが誇りとしていいものだ。
 試合前のゴタゴタ、想像を絶する気候、フィールドコンディションの劣悪さ、そして悪意に満ちたレフェリー...。「アウェー」戦の厳しさのすべてが、この第2ラウンドにはあった。そして日本代表は苦しみながらそれを乗り越えた。
 5月7日に行われた対UAE戦は、日本がこのシリーズでまた一段階上のチームになったことを示すものだった。前半の45分間、日本は完全にゲームをコントロールし、自分たちのリズムで戦うことに成功した。後半、連戦の疲労が出て集中力を失う時間帯もあったが、終盤に1点を許しながらもすぐ同点に追いついた底力は、日本代表の実力を再認識させるものとなった。

 秋に予定されている最終予選。出場する6チームの実力は、日本を含めまったくのイーブンと見なければならない。けっして楽観はできない。しかし1次予選の第2ラウンドで得た経験は、この厳しい最終予選を戦い抜くうえで最大の財産となるはずだ。

(1993年5月11日=火)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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