
サッカークラブとそのホームタウンは「ラブアフェアー」(恋愛関係)だ。
互いに求め合い、互いに与え合うなかで、新しい価値を築いていく。そのベースは相互の信頼。互いに欠点があっても、それを改める姿勢があればうまくやっていくことができる。
五月にJリーグが始まった時点では、リーグの理念の理解はそれほど広まってはいなかった。
しかし第一ステージで鹿島アントラーズが快進撃を見せて地元が大きくクローズアップされたとき、ファンばかりでなく、他のホームタウンやクラブも、Jリーグの理念を具体的な例として見ることができた。
スポーツはスポーツであり、それを何かのためにと位置づけることは本意ではない。しかし最高の「恋愛関係」がホームタウンやプロのチームの双方をいかに幸せにしてくれるか、鹿島の例によって、だれもが理解したはずだ。
だからこそ、日本の各地に「自分の町にもJリーグのチームがほしい」という動きが出てきたのだ。
その点で、今回のヴェルディの「調布移転」騒ぎは非常に残念といわざるをえない。片方が一方的に、他の相手に乗り換えようとしているのだから。
スタジアムの整備という点でホームタウン側の努力がこれまで不足していたとしても、別の人と新しく婚約しながらそれまでの恋愛関係を続けることはできない。そんな簡単なことの理解がヴェルディにも新しく「婚約者」になろうとしている調布市にもなかったことは信じがたいことだ。
横浜と九州の三都市をホームタウンとする横浜フリューゲルス、スタジアムのある吹田市をホームタウンとしながら「大阪」を名乗るガンバ大阪、あるいはスタジアム収容人員の不足など、Jリーグには規約の逸脱が放置されている例がある。しかし新しく加入するクラブには、「湘南ベルマーレ」を「ベルマーレ平塚」に改めさせるなど厳格な態度がとられている。現在逸脱しているクラブも、近いうちに改善が要求されることになるだろう。
「企業名をはずす」という原則も、現在は猶予期間ということになっている。九五年には正式なクラブ名から企業名をはずすよう要請が出されるはずだ。
「正常な恋愛関係」のクラブとホームタウンで運営していくことが、Jリーグにとっての「生命線」であるからだ。
こうしたクラブとホームタウンの「恋愛関係」が理解できていれば、ヴェルディの「移転騒ぎ」など起こるはずはなかった。
クラブ側が恋愛関係を壊すなら、ホームタウン側は期限つきでなく即座の関係解消を迫るはずだ。川崎市には、東芝、富士通、NKKというチームがある。いずれも企業のチームだが、すぐ下のJFL所属の強豪で、等々力競技場を使いたいと願っているはずだ。ヴェルディを失っても、川崎市はトップクラスのサッカーを失うことはない。
そうなったら、ヴェルディはどこに行くのか。「ヴェルディ調布」が実現する数年後までどうするのか。
こんな状況が日本のサッカーやファンにとってハッピーなはずはない。
ホームタウンとクラブが恋愛関係なら、ホームタウン側がクラブを見限ることもある。努力の不足と強化体制の遅れによって弱体化の一歩を歩むクラブは、ホームタウンから「これでは市民が幸せになれないから出ていってくれ」と言われることは十分ありうる。
双方の努力なくして「恋愛関係」を幸せに継続することはできない。
(1993年12月14日=火)
互いに求め合い、互いに与え合うなかで、新しい価値を築いていく。そのベースは相互の信頼。互いに欠点があっても、それを改める姿勢があればうまくやっていくことができる。
五月にJリーグが始まった時点では、リーグの理念の理解はそれほど広まってはいなかった。
しかし第一ステージで鹿島アントラーズが快進撃を見せて地元が大きくクローズアップされたとき、ファンばかりでなく、他のホームタウンやクラブも、Jリーグの理念を具体的な例として見ることができた。
スポーツはスポーツであり、それを何かのためにと位置づけることは本意ではない。しかし最高の「恋愛関係」がホームタウンやプロのチームの双方をいかに幸せにしてくれるか、鹿島の例によって、だれもが理解したはずだ。
だからこそ、日本の各地に「自分の町にもJリーグのチームがほしい」という動きが出てきたのだ。
その点で、今回のヴェルディの「調布移転」騒ぎは非常に残念といわざるをえない。片方が一方的に、他の相手に乗り換えようとしているのだから。
スタジアムの整備という点でホームタウン側の努力がこれまで不足していたとしても、別の人と新しく婚約しながらそれまでの恋愛関係を続けることはできない。そんな簡単なことの理解がヴェルディにも新しく「婚約者」になろうとしている調布市にもなかったことは信じがたいことだ。
横浜と九州の三都市をホームタウンとする横浜フリューゲルス、スタジアムのある吹田市をホームタウンとしながら「大阪」を名乗るガンバ大阪、あるいはスタジアム収容人員の不足など、Jリーグには規約の逸脱が放置されている例がある。しかし新しく加入するクラブには、「湘南ベルマーレ」を「ベルマーレ平塚」に改めさせるなど厳格な態度がとられている。現在逸脱しているクラブも、近いうちに改善が要求されることになるだろう。
「企業名をはずす」という原則も、現在は猶予期間ということになっている。九五年には正式なクラブ名から企業名をはずすよう要請が出されるはずだ。
「正常な恋愛関係」のクラブとホームタウンで運営していくことが、Jリーグにとっての「生命線」であるからだ。
こうしたクラブとホームタウンの「恋愛関係」が理解できていれば、ヴェルディの「移転騒ぎ」など起こるはずはなかった。
クラブ側が恋愛関係を壊すなら、ホームタウン側は期限つきでなく即座の関係解消を迫るはずだ。川崎市には、東芝、富士通、NKKというチームがある。いずれも企業のチームだが、すぐ下のJFL所属の強豪で、等々力競技場を使いたいと願っているはずだ。ヴェルディを失っても、川崎市はトップクラスのサッカーを失うことはない。
そうなったら、ヴェルディはどこに行くのか。「ヴェルディ調布」が実現する数年後までどうするのか。
こんな状況が日本のサッカーやファンにとってハッピーなはずはない。
ホームタウンとクラブが恋愛関係なら、ホームタウン側がクラブを見限ることもある。努力の不足と強化体制の遅れによって弱体化の一歩を歩むクラブは、ホームタウンから「これでは市民が幸せになれないから出ていってくれ」と言われることは十分ありうる。
双方の努力なくして「恋愛関係」を幸せに継続することはできない。
(1993年12月14日=火)
少し古い話になるが、8月28日のJリーグ、清水エスパルス対ヴェルディ川崎戦で興味深いシーンがあった。0−0でPK戦となり、ヴェルディ5人目の石川のキックのときだ。
エスパルスのGKシジマールが左に跳んで見事シュートをストップ。だが菊池光悦主審はやり直しを命じる。こんどは逆サイドに飛んだボールをまたもシジマールが押さえた。ではなぜ最初のキックはやり直しになったのだろうか。
ルールでは、PKのときのGKの動きを次のように規定している。
「守備側のゴールキーパーは、ボールがけられるまで、両ゴールポスト間のゴールライン上に、(足を動かさずに)立っていなければならない」
この規定に違反があった場合には、「得点を認めずペナルティーキックをふたたび行う」となっている。
シジマールは石川のキックより早く左足を左前へ大きく踏みだし、見事ボールを止めた。菊池主審の判定はまったく正しいといわねばならない。
問題は、今日、トップクラスのGKの大半はキックの前に動き、ヤマを張ってダイブするということだ。それによって、80%、90%というPKの確率を、70%以下に下げようというのだ。
キッカーは原則としてどちらかの隅を狙う。だがGKがヤマをかけてダイブすることを見越して中央に力いっぱいける選手もいる。いずれにしても、右か、中央か、左か、三つにひとつの選択だ。しかも人間がものを見てからの体を動かすまでの「反応時間」を考えると、キックを見てから跳ぶのではけっして間に合わない。だからGKはヤマをかけてダイブする。
しかも、できるだけシュートの角度をカバーできるように、できるだけ前進してダイブしようとする。その結果、キックの前にゴールラインを離れるプレーが横行する。
審判がルールを厳格に適用すれば、このようなことはないはず。しかし、「PKははいって当たり前。少しぐらい先に動いても、ストップすればGKのファインプレー」という考えでもあるのだろうか、GKが先に動いたということでやり直しを命じる審判はほとんどいない。
これは日本だけの話ではない。世界中の審判が同じように「GKに甘い」判定をしているのだ。
サッカーのルールはたった17条しかなく、非常にシンプルなものだが、それだけに、大半はしっかりと適用されている。このPKのときのGKに動きに関する規定ほど無視されているものはない。
ルール違反を見逃すのが常識となっているといっても、ルールはルール。審判が適用しようとすれば、いつでもできる。そしてそれは、はっきりいって何の基準もなく突然適用される。このまま放置すれば、大きなスキャンダルにつながる危険性をはらんでいる。
今日では、PK戦という新しい状況が生まれ、PKルールの重要性は以前にも増して大きくなっている。90分間の勝利もPK戦の勝利も同じ比重のJリーグはもちろん、ワールドカップでも、ベスト16の試合から決勝戦まで、最終的に勝負を決める手段はPK戦となっているからだ。
国際サッカー連盟(FIFA)は、現行のルールのままでいくなら、審判に対して厳格に判定するように指導しなければならない。また、GKがキックの前に動くことを認めるのなら、ルールを改正しなければならない。いずれにしろ、ルールが無視されている状態をこれ以上続けることはできない。
(1993年12月7日=火)
エスパルスのGKシジマールが左に跳んで見事シュートをストップ。だが菊池光悦主審はやり直しを命じる。こんどは逆サイドに飛んだボールをまたもシジマールが押さえた。ではなぜ最初のキックはやり直しになったのだろうか。
ルールでは、PKのときのGKの動きを次のように規定している。
「守備側のゴールキーパーは、ボールがけられるまで、両ゴールポスト間のゴールライン上に、(足を動かさずに)立っていなければならない」
この規定に違反があった場合には、「得点を認めずペナルティーキックをふたたび行う」となっている。
シジマールは石川のキックより早く左足を左前へ大きく踏みだし、見事ボールを止めた。菊池主審の判定はまったく正しいといわねばならない。
問題は、今日、トップクラスのGKの大半はキックの前に動き、ヤマを張ってダイブするということだ。それによって、80%、90%というPKの確率を、70%以下に下げようというのだ。
キッカーは原則としてどちらかの隅を狙う。だがGKがヤマをかけてダイブすることを見越して中央に力いっぱいける選手もいる。いずれにしても、右か、中央か、左か、三つにひとつの選択だ。しかも人間がものを見てからの体を動かすまでの「反応時間」を考えると、キックを見てから跳ぶのではけっして間に合わない。だからGKはヤマをかけてダイブする。
しかも、できるだけシュートの角度をカバーできるように、できるだけ前進してダイブしようとする。その結果、キックの前にゴールラインを離れるプレーが横行する。
審判がルールを厳格に適用すれば、このようなことはないはず。しかし、「PKははいって当たり前。少しぐらい先に動いても、ストップすればGKのファインプレー」という考えでもあるのだろうか、GKが先に動いたということでやり直しを命じる審判はほとんどいない。
これは日本だけの話ではない。世界中の審判が同じように「GKに甘い」判定をしているのだ。
サッカーのルールはたった17条しかなく、非常にシンプルなものだが、それだけに、大半はしっかりと適用されている。このPKのときのGKに動きに関する規定ほど無視されているものはない。
ルール違反を見逃すのが常識となっているといっても、ルールはルール。審判が適用しようとすれば、いつでもできる。そしてそれは、はっきりいって何の基準もなく突然適用される。このまま放置すれば、大きなスキャンダルにつながる危険性をはらんでいる。
今日では、PK戦という新しい状況が生まれ、PKルールの重要性は以前にも増して大きくなっている。90分間の勝利もPK戦の勝利も同じ比重のJリーグはもちろん、ワールドカップでも、ベスト16の試合から決勝戦まで、最終的に勝負を決める手段はPK戦となっているからだ。
国際サッカー連盟(FIFA)は、現行のルールのままでいくなら、審判に対して厳格に判定するように指導しなければならない。また、GKがキックの前に動くことを認めるのなら、ルールを改正しなければならない。いずれにしろ、ルールが無視されている状態をこれ以上続けることはできない。
(1993年12月7日=火)
「国立競技場などつぶしてほしい」
語気を荒らげてまくしたてるエスパルスのレオン監督。ナビスコ杯決勝戦後の記者会見は見苦しいものだった。重要な決勝が相手のホーム同然の会場で開催される不利は否定しない。だがそれは負けた試合の後に話すべきことではない。
その点、イラクと引き分けて手中のワールドカップ出場を逃がした直後の記者会見でのハンス・オフトの態度は立派だった。選手たちを擁護し、辛辣な質問にも感情を抑えて答えた。
話はまた「あの日」に戻ってしまう。これが最後なので、ご容赦願いたい。
カタールでの予選終了後の「表彰式」に日本選手が出席しなかったことに、大会後批判が集中した。「プロらしくない」「フェアプレー賞が泣く」などと、新聞も雑誌も厳しかった。
この表彰式では、アジアオールスター、サンヨー・MVP賞、スニッカーズ・フェアプレーチーム賞、ディアドラ得点王賞の4つの表彰が行われた。日本からはオールスターに4人が選ばれ、得点王にカズ、そしてフェアプレー賞の受賞が決まっていた。
「勝者」サウジアラビアや韓国の選手だけでなく、敗退したイランの選手が出席していたことが、批判の声を大きくした。
実際には、日本の選手たちはこのような行事があることを知らされておらず、川淵三郎選手団団長と日本協会の小倉純二専務理事の判断で選手たちを連れて行かなかったのだった。
試合が終わったのが現地時間で午後6時。選手がホテルに帰ったのは7時近くだっただろう。8時からの表彰式に出席するには、7時半にはホテルを出なければならない。絶望状態にある選手たちに出席を命じることはできないと判断し、国際サッカー連盟に了解をとるだけで、時間はぎりぎりだったはずだ。
アジアサッカー連盟(AFC)のピーター・ベラパン事務総長の話によると、AFCは該当する選手の出席を事前に各国選手団に要請してあったという。その意味では、「欠席」に対する批判は当然といえる。川淵氏も後に、「あのときあのような判断しかできなかったことを悔やんでいる」と発言している。
しかし私は、選手たちに表彰式に出席するよう言わなかった2人の判断を批判する気にはなれない。
考えてほしい。イラクの同点ゴールで日本チームが受けた打撃は、世界のサッカーの長い歴史でもめったにないものだった。1年半をかけて準備してきたチーム。苦境を脱し、奇跡的な連勝で夢はほとんど手中にあった。それが、最後の一瞬に吹き飛んだのだ。
こんなときに「君たちはオールスターに選ばれた。さあ、背広に着がえて表彰式に行くんだ」などと命じることのできる人がいるだろうか。そんな人物を誰が信じられるだろうか。
勝つことよりも、敗戦を謙虚に受け入れることのほうが難しい。それができる者だけが、真のスポーツマンといえる。堂々とした敗者ほど美しいものはない。
だが、巨大な失望から立ち直るのに、時間を要することもある。そんなときに周囲ができるのは、そっとしておくことだけだ。
「そんな甘いことを言っているから、結局勝てないんだ」などという批判がまた聞かれそうだ。しかし忘れてはいけない。サッカーをするのは人間なのだ。人間の心を忘れたら、どんな勝利にも価値はない。
「プロ」に対する社会的要求が激しくなる一方の時代にあって、「人間」としての心を忘れなかった川淵氏と小倉氏に、私は正直なところほっとしている。
(1993年11月30日=火)
語気を荒らげてまくしたてるエスパルスのレオン監督。ナビスコ杯決勝戦後の記者会見は見苦しいものだった。重要な決勝が相手のホーム同然の会場で開催される不利は否定しない。だがそれは負けた試合の後に話すべきことではない。
その点、イラクと引き分けて手中のワールドカップ出場を逃がした直後の記者会見でのハンス・オフトの態度は立派だった。選手たちを擁護し、辛辣な質問にも感情を抑えて答えた。
話はまた「あの日」に戻ってしまう。これが最後なので、ご容赦願いたい。
カタールでの予選終了後の「表彰式」に日本選手が出席しなかったことに、大会後批判が集中した。「プロらしくない」「フェアプレー賞が泣く」などと、新聞も雑誌も厳しかった。
この表彰式では、アジアオールスター、サンヨー・MVP賞、スニッカーズ・フェアプレーチーム賞、ディアドラ得点王賞の4つの表彰が行われた。日本からはオールスターに4人が選ばれ、得点王にカズ、そしてフェアプレー賞の受賞が決まっていた。
「勝者」サウジアラビアや韓国の選手だけでなく、敗退したイランの選手が出席していたことが、批判の声を大きくした。
実際には、日本の選手たちはこのような行事があることを知らされておらず、川淵三郎選手団団長と日本協会の小倉純二専務理事の判断で選手たちを連れて行かなかったのだった。
試合が終わったのが現地時間で午後6時。選手がホテルに帰ったのは7時近くだっただろう。8時からの表彰式に出席するには、7時半にはホテルを出なければならない。絶望状態にある選手たちに出席を命じることはできないと判断し、国際サッカー連盟に了解をとるだけで、時間はぎりぎりだったはずだ。
アジアサッカー連盟(AFC)のピーター・ベラパン事務総長の話によると、AFCは該当する選手の出席を事前に各国選手団に要請してあったという。その意味では、「欠席」に対する批判は当然といえる。川淵氏も後に、「あのときあのような判断しかできなかったことを悔やんでいる」と発言している。
しかし私は、選手たちに表彰式に出席するよう言わなかった2人の判断を批判する気にはなれない。
考えてほしい。イラクの同点ゴールで日本チームが受けた打撃は、世界のサッカーの長い歴史でもめったにないものだった。1年半をかけて準備してきたチーム。苦境を脱し、奇跡的な連勝で夢はほとんど手中にあった。それが、最後の一瞬に吹き飛んだのだ。
こんなときに「君たちはオールスターに選ばれた。さあ、背広に着がえて表彰式に行くんだ」などと命じることのできる人がいるだろうか。そんな人物を誰が信じられるだろうか。
勝つことよりも、敗戦を謙虚に受け入れることのほうが難しい。それができる者だけが、真のスポーツマンといえる。堂々とした敗者ほど美しいものはない。
だが、巨大な失望から立ち直るのに、時間を要することもある。そんなときに周囲ができるのは、そっとしておくことだけだ。
「そんな甘いことを言っているから、結局勝てないんだ」などという批判がまた聞かれそうだ。しかし忘れてはいけない。サッカーをするのは人間なのだ。人間の心を忘れたら、どんな勝利にも価値はない。
「プロ」に対する社会的要求が激しくなる一方の時代にあって、「人間」としての心を忘れなかった川淵氏と小倉氏に、私は正直なところほっとしている。
(1993年11月30日=火)
日本代表のハンス・オフト監督が辞任した。日ごろの彼の言動から、予期されたことではあったが、残念といわざるをえない。
わずか1年半の間にオフトが成し遂げたことは、日本サッカーの歴史に大きく刻まれなければならない。92年のダイナスティカップ、アジアカップでの優勝は、日本サッカーが70数年を要して初めてつかんだ公式国際大会のタイトルだった。そして今回のワールドカップアジア最終予選での韓国に対する勝利。これが日本サッカーにとっていかに大きな歴史の転換点であったか、今後10年のうちに証明されるはずだ。
今予選の前のひとつの不安は、オフトの「経験」のなさだった。彼は非常に優秀なコーチではあるが、代表チームを率いて大舞台で戦うのは、日本が初めてのこと。監督というのは修羅場をくぐってきた経験がものをいう職業だけに、大事なところで命取りになる危険性は無視できなかった。
だが、大会が始まってみると、オフトは他国の百戦錬磨の監督たちに負けない手腕を見せた。プレッシャーから思い切ったプレーができず、2試合を終えて最下位になったときも、彼は冷静に状況を分析し、選手たちの能力を信じ、見事にチームを立て直した。
イラン戦のあとの記者会見で、彼は笑顔やユーモアさえまじえながらていねいに質問に答えた。こうしたオフトの態度は、日本チームも選手たちに少なからぬ影響を与えたはずだ。
最後のイラク戦では選手交代の失敗はあったが、これが今大会で唯一のミスらしいミスだった。
だが、私がオフトの辞任を残念に思うのは、彼が優れた「指揮官」だったからではない。「コーチ」としてすばらしかったからだ。
十年ほど前にオランダ人のウィール・クーバーというコーチが来日した。「クーバー・メソッド」と呼ばれる技術の練習法を指導するためだった。彼が強調したのは、「現在の世界にはいい監督は数多くいるが、いいコーチは少ない」ということだった。
「監督」「コーチ」などと呼び方はさまざまだが、戦略を立て、チームをまとめあげて勝利に導くことのできる監督はいても、若い選手に技術や戦術を教えることのできるコーチはほとんど見当たらない。その結果、優れた技術を基礎としたサッカーが死に絶えそうだというのだ。
ハンス・オフトはまさにすばらしいコーチだった。それは、都並の故障で穴のあいた左バックのポジションを埋める選手を探し出すのに苦労したことでも証明される。1年半かけて細かな戦術から教え込んだチームだったから、代わりの選手は簡単には見つからなかったのだ。
オフトが欲するレベルに達した選手が10数人しかいなかったとすれば、現在の日本代表に必要とされる監督は、「優れた戦略家」ではなく、「優れたコーチ」であることは明瞭だ。そのレベルに達した選手が数多く出てきたとき、初めて戦略家の監督が働く環境ができるからだ。
「負けたら責任をとる」のはプロでは当然のことだという。しかし日本はブラジルやイングランドではない。オフトのような優秀なコーチ、ある意味で最高の「教師」を失う余裕は、日本サッカーにはまだないのではないか。
後任の監督が、オフト以上の戦略家であるばかりでなく、彼に負けない教師であることを祈りたい。
そしてオフトが、なんらかの形で日本にとどまってくれることを期待したい。日本サッカーは、まだまだ「教師」オフトを必要としている。
(1993年11月16日)
わずか1年半の間にオフトが成し遂げたことは、日本サッカーの歴史に大きく刻まれなければならない。92年のダイナスティカップ、アジアカップでの優勝は、日本サッカーが70数年を要して初めてつかんだ公式国際大会のタイトルだった。そして今回のワールドカップアジア最終予選での韓国に対する勝利。これが日本サッカーにとっていかに大きな歴史の転換点であったか、今後10年のうちに証明されるはずだ。
今予選の前のひとつの不安は、オフトの「経験」のなさだった。彼は非常に優秀なコーチではあるが、代表チームを率いて大舞台で戦うのは、日本が初めてのこと。監督というのは修羅場をくぐってきた経験がものをいう職業だけに、大事なところで命取りになる危険性は無視できなかった。
だが、大会が始まってみると、オフトは他国の百戦錬磨の監督たちに負けない手腕を見せた。プレッシャーから思い切ったプレーができず、2試合を終えて最下位になったときも、彼は冷静に状況を分析し、選手たちの能力を信じ、見事にチームを立て直した。
イラン戦のあとの記者会見で、彼は笑顔やユーモアさえまじえながらていねいに質問に答えた。こうしたオフトの態度は、日本チームも選手たちに少なからぬ影響を与えたはずだ。
最後のイラク戦では選手交代の失敗はあったが、これが今大会で唯一のミスらしいミスだった。
だが、私がオフトの辞任を残念に思うのは、彼が優れた「指揮官」だったからではない。「コーチ」としてすばらしかったからだ。
十年ほど前にオランダ人のウィール・クーバーというコーチが来日した。「クーバー・メソッド」と呼ばれる技術の練習法を指導するためだった。彼が強調したのは、「現在の世界にはいい監督は数多くいるが、いいコーチは少ない」ということだった。
「監督」「コーチ」などと呼び方はさまざまだが、戦略を立て、チームをまとめあげて勝利に導くことのできる監督はいても、若い選手に技術や戦術を教えることのできるコーチはほとんど見当たらない。その結果、優れた技術を基礎としたサッカーが死に絶えそうだというのだ。
ハンス・オフトはまさにすばらしいコーチだった。それは、都並の故障で穴のあいた左バックのポジションを埋める選手を探し出すのに苦労したことでも証明される。1年半かけて細かな戦術から教え込んだチームだったから、代わりの選手は簡単には見つからなかったのだ。
オフトが欲するレベルに達した選手が10数人しかいなかったとすれば、現在の日本代表に必要とされる監督は、「優れた戦略家」ではなく、「優れたコーチ」であることは明瞭だ。そのレベルに達した選手が数多く出てきたとき、初めて戦略家の監督が働く環境ができるからだ。
「負けたら責任をとる」のはプロでは当然のことだという。しかし日本はブラジルやイングランドではない。オフトのような優秀なコーチ、ある意味で最高の「教師」を失う余裕は、日本サッカーにはまだないのではないか。
後任の監督が、オフト以上の戦略家であるばかりでなく、彼に負けない教師であることを祈りたい。
そしてオフトが、なんらかの形で日本にとどまってくれることを期待したい。日本サッカーは、まだまだ「教師」オフトを必要としている。
(1993年11月16日)
「あの日」から2週間近くたち、Jリーグの第2ステージも再開されたが、カタールの話題はまだ続く。今回は日本チームの「表彰式ボイコット事件」について書こうと思っていた。というのは、現在支配的になっている日本選手団非難の方向とは、違う意見を私はもっているからだ。
しかし必要な話を聞こうと考えていたアジア・サッカー連盟事務総長が国際サッカー連盟とともに旧ソ連のアジア地区の新独立国の視察に回っているため、このテーマは次週に回すことにした。そこで今回は、日本代表の背番号15、MFの吉田光範(ジュビロ磐田)をとりあげたい。
吉田は、人気者になった中山とともに今回の日本代表ではJリーグ以外のチームからの参加。愛知県の刈谷工業高校を出てヤマハにはいり、ことし13年目、31歳のベテランだ。若いころは特異な感覚をもったFWとして活躍、4年前のイタリア・ワールドカップ予選ではエースストライカーだった。その後代表をはずれたが、92年春にハンス・オフト監督の就任とともに呼び戻された。
選出の理由は、「左サイドの強化」だった。オフトの見るところ、日本は攻撃がどうしても右サイドにかたよる。左右のバランスをとるためには、左利き、あるいは左足で正確なキックのできる選手が必要だ。そこで選ばれたのが、左バックの都並と、ヤマハ(ジュビロ)で左利きのMFとしてプレーしていた吉田のふたりだった。
だが、日本代表に選ばれてみると、吉田の価値に対する認識は試合ごとに新たになった。とくにことし4月のワールドカップ1次予選では、負傷の北澤が欠けた右サイドのMFとしてすばらしいプレーを見せた。攻から守、守から攻への切り替えの早さは、オフトの求めるMFの条件に、誰よりもかなっていた。
最終予選前、うれしい情報を聞いた。長い間彼を苦しめていた左ヒザを負傷から完全に回復し、吉田は絶好調であるというのだ。
そのとおり、カタールでの吉田はすばらしかった。
第2戦を終わったところで最下位とピンチに立った日本は、第3戦に長谷川を入れてFWを3人にする思い切った戦法に出たが、バランスを保ったのは吉田の新しいポジションだった。それまで森保ひとりだった守備的MFを、左に森保、右に吉田と置いて2枚にしたのだ。これによって守備が安定し、ラモスが攻撃のサポートに専念することができた。
森保が欠場した韓国戦、日本は特定の守備的MFなしで戦った。それを可能にしたのは、吉田の戦術的能力の高さだった。
吉田は主として左サイドをうけもち、体を張って韓国のドリブルを止め、的確なタイミングで味方のサポートにはいった。ラモスからパスを受けて左サイドを駆け抜け、カズの決勝ゴールにアシストしたのは吉田だった。
信じ難いことだが、カタールでの吉田は、試合を追うごとに、そして同じ試合でも時間がたつにつれ成長しているように見えた。アジアの強豪を相手にした死闘のなかで、彼は「何か」をつかんだようだった。
この韓国戦、日本チームは90間一体となり、日本サッカー史上最高レベルの試合を見せたが、それを可能にしたのは、攻と守をつないだ吉田のプレーだった。それゆえに、私はカタールでの日本の「MVP」は吉田だと思っている。
日本がボールをもったときにも韓国がボールをもったときにも、彼は常に正しいポジションにいた。吉田はいつも「いるべき時に、いるべき場所に」いた。
(1993年11月9日=火)
しかし必要な話を聞こうと考えていたアジア・サッカー連盟事務総長が国際サッカー連盟とともに旧ソ連のアジア地区の新独立国の視察に回っているため、このテーマは次週に回すことにした。そこで今回は、日本代表の背番号15、MFの吉田光範(ジュビロ磐田)をとりあげたい。
吉田は、人気者になった中山とともに今回の日本代表ではJリーグ以外のチームからの参加。愛知県の刈谷工業高校を出てヤマハにはいり、ことし13年目、31歳のベテランだ。若いころは特異な感覚をもったFWとして活躍、4年前のイタリア・ワールドカップ予選ではエースストライカーだった。その後代表をはずれたが、92年春にハンス・オフト監督の就任とともに呼び戻された。
選出の理由は、「左サイドの強化」だった。オフトの見るところ、日本は攻撃がどうしても右サイドにかたよる。左右のバランスをとるためには、左利き、あるいは左足で正確なキックのできる選手が必要だ。そこで選ばれたのが、左バックの都並と、ヤマハ(ジュビロ)で左利きのMFとしてプレーしていた吉田のふたりだった。
だが、日本代表に選ばれてみると、吉田の価値に対する認識は試合ごとに新たになった。とくにことし4月のワールドカップ1次予選では、負傷の北澤が欠けた右サイドのMFとしてすばらしいプレーを見せた。攻から守、守から攻への切り替えの早さは、オフトの求めるMFの条件に、誰よりもかなっていた。
最終予選前、うれしい情報を聞いた。長い間彼を苦しめていた左ヒザを負傷から完全に回復し、吉田は絶好調であるというのだ。
そのとおり、カタールでの吉田はすばらしかった。
第2戦を終わったところで最下位とピンチに立った日本は、第3戦に長谷川を入れてFWを3人にする思い切った戦法に出たが、バランスを保ったのは吉田の新しいポジションだった。それまで森保ひとりだった守備的MFを、左に森保、右に吉田と置いて2枚にしたのだ。これによって守備が安定し、ラモスが攻撃のサポートに専念することができた。
森保が欠場した韓国戦、日本は特定の守備的MFなしで戦った。それを可能にしたのは、吉田の戦術的能力の高さだった。
吉田は主として左サイドをうけもち、体を張って韓国のドリブルを止め、的確なタイミングで味方のサポートにはいった。ラモスからパスを受けて左サイドを駆け抜け、カズの決勝ゴールにアシストしたのは吉田だった。
信じ難いことだが、カタールでの吉田は、試合を追うごとに、そして同じ試合でも時間がたつにつれ成長しているように見えた。アジアの強豪を相手にした死闘のなかで、彼は「何か」をつかんだようだった。
この韓国戦、日本チームは90間一体となり、日本サッカー史上最高レベルの試合を見せたが、それを可能にしたのは、攻と守をつないだ吉田のプレーだった。それゆえに、私はカタールでの日本の「MVP」は吉田だと思っている。
日本がボールをもったときにも韓国がボールをもったときにも、彼は常に正しいポジションにいた。吉田はいつも「いるべき時に、いるべき場所に」いた。
(1993年11月9日=火)