サッカーの話をしよう

No.177 チームがなければサッカー選手は存在しない

 正月の高校選手権を見て我が目を疑った。
 笛の後、ボールが自分の足元にあっても、相手ボールだったら知らん顔をするなど当たり前。ファウルをすれば「ボールに行っている」と叫び、相手FKではボールからわずか3メートルのところに平気な顔をして壁をつくる。レフェリーに呼ばれて注意されれば「うるせーな」というようなゼスチャー。相手のタックルが当たってもいないのに大げさに吹っ飛んでPKを狙う選手もいる。
 少年時代から磨き抜いた見事なテクニック、見事に訓練されたチームプレー、そして何よりも若々しく意欲的でひたむきなプレー。高校サッカーの良さ自体が失われたわけではない。だがその一方で、フェアプレー精神のかけらもない行為がはびこっているのだ。
 「プロの真似だ。プロが悪いから、影響が高校サッカーにまで及んでいる」
 その通り、その通り。
 
 Jリーグにあこがれる少年たちは、そのすべてを真似しようとする。アンフェアな行為のすべてが、Jリーグの選手の真似と言っても過言ではない。だが、この正月に強く感じたのは、「それだけではない」ということだった。
 高校の指導者たちは、いったい何を教えているのだろうか。選手たちがアンフェアな行為をしたときにどんな注意を与えてきたのだろうか。「Jリーグにも、真似していいことと悪いことがある」と、教えることは不可能だというのか。
 指導者がしっかりとした理念をもち、こうした行為に断固たる態度をとっていれば、Jリーグの真似だろうとワールドカップだろうと、高校年代のサッカーからアンフェアな行為をなくすことは不可能ではない。プロに責任を押しつけるだけでいいはずがないのだ。
 
 高校を含めた現在の青少年への指導の最も大きな欠陥、それは、フェアプレーの徹底を含め、「サッカーの本質」を教えていないことではないか。サッカーは「チームゲーム」である。その意味がしっかりと教えられているのだろうか。
 「チーム」から切り離された「選手」は存在しえない。そしてまた、「相手チーム」のない「チーム」もありえない。「試合」が成り立たないからだ。サッカーの大事なことは、すべて「チームゲーム」であることからスタートする。
 「相手」がなければ「試合」ができないのだから、ルールを守り、危険がないように、そしてまた互いに「サッカー仲間」として敬意を払い、気持ち良く試合をするためにフェアにプレーしなければならない。
 同時に、「チーム」がなければ「選手」でもありえないのだから、個人記録や個人タイトルがいかに些細で意味のないものであるかを知るべきだ。
 
 サッカーの歴史上、チームのためにプレーしない者が「名選手」と称賛されたことはない。「いい選手」とは、徹頭徹尾チームのためにプレーできる選手だけを指す。理由は簡単。サッカーが「チームゲーム」だからだ。
 技術を教え、戦術トレーニングを施して判断力を高め、体力面を強化し、強い精神力を養うことは、サッカーの指導において欠くことのできない要素である。だが「サッカーとは何か」という「本質」を伝えられなければ、少年たちをサッカー選手として健全に発育させることはできない。
 
 「自分の好きなポジションで好きなプレーができないのなら、チームが勝ってもうれしくない」
 そんな発言をして恥じない若手選手が増えている。それが高校選手権のアンフェアな行為の横行と重なり合ってに見えるのは、私だけだろうか。
 
(1997年1月20日) 

No.176 43年目のクリスマスプレゼント

 少年たちは一プレーごとに歓声を上げ、無邪気に喜んだ。年配者たちはじっと押し黙り、かみしめるように、そして「あの時代」を思い出すように、画面に見入った。ふだんはサッカーなど見ようとしない女性たちも、この日ばかりはテレビの前に座っていた。
 昨年の12月25日、静かなクリスマスの午後。ハンガリー国民は国営放送MTVにクギ付けになっていた。53年にハンガリーがロンドンでイングランドを6−3で破った試合が、この日初めてフルタイム放映されたのだ。
 
 1953年11月25日水曜日。前年のヘルシンキ・オリンピック優勝のハンガリーがロンドンのウェンブリー競技場でイングランドと対戦した。迎えるイングランドは、初めて出場した50年のワールドカップでアメリカに屈辱的な敗戦を喫したものの、いまだに「世界の帝王」だった。ウェンブリーでの国際試合での不敗記録は、もう30年間も続いていた。
 だがハンガリーは立ち上がりから見事な攻撃を見せた。開始わずか1分でFWヒデクティが先制ゴール。イングランドも反撃し、15分に同点に追いつく。だがこの時点ですでにハンガリーとイングランドの力の差は歴然としていた。
 ハンガリーはボールの魔術師の集まりだった。スピードとテクニックと強烈なシュート力を備えた選手が並び、しかもその選手たちが見事なチームプレーで結びつけられていたのだ。
 前半のうちに4−2と差が開く。3点目は、天才FWプスカシュが右からのボールを右ポスト前で受け、目のくらむようなテクニックでイングランドのDFビリー・ライトを破り、左足でニアポスト側の天井にけり上げたものだった。
 後半、15分までにハンガリーはさらに2点を追加し、その後の30分間は無理をせずテクニックの披露に費やした。ホームチームはPKで1点を返すのがやっと。スタンドを埋めた10万人のイングランド・ファンまでが、ハンガリーのプレーに感嘆し、最後には拍手を送った。
 
 初めてウェンブリーでイングランドを倒したことだけではない。スコアだけでもない。流れるようなサッカーのすばらしさが、「マジック・マジャール(ハンガリー民族)」と絶賛されたのだ。
 だが翌年のワールドカップ(54年スイス大会)では決勝戦で不運な敗戦(4年ぶりの敗戦だった)を喫し、さらに、56年にはソ連軍の侵攻によって選手たちはばらばらとなった。ハンガリーがふたたび「マジック」と呼ばれるチームをもつことはなかった。
 「20世紀最高の試合」と呼ばれた53年のイングンド戦は、ハンガリー国民にとって大きな誇りにほかならなかった。だが、奇妙なことだが、国民の大多数は、この試合をフルで見たことはなかったのだ。
 
 当時、イングランドではテレビ放送が始まっていたが、ハンガリーはラジオだけの時代だった。試合の数日後に20分間ほどのダイジェストが全国の映画館で放映され熱狂を呼んだが、それだけだった。今回のフルタイム放送は、この試合のテープの権利をもつ英国のBBC放送と、イングランド・サッカー協会の好意で実現したものだった。
 43年も前のひとつの親善試合。その試合は国民の間で「伝説」のように語り継がれた。それがキックオフから終了までカットなしの映像としてテレビで国民に伝えられたとき、「伝説」は「国宝」となった。
 ハンガリー国民は、英国政府からのどんな経済援助よりも、この粋な「クリスマス・プレゼント」に感謝したに違いない。
 
(1997年1月13日)

No.175 ワールドカップ予選の年 頼むぞカズ

 キャプテンの腕章を巻いたカズ(三浦知良)が高々とカップを掲げ、大きく顔をほころばせた。すばらしい笑顔だった。
 毎年元日に行われる天皇杯決勝。しかしそれは「年始の試合」というより、1シーズンの「しめくくり」の試合である。そしてまさに、ふさわしい男の手にカップは握られていた。
 「カズの96年」は苦しいシーズンだった。
 Jリーグ開幕とともに襲ったヴェルディの不振。5月のキリンカップでは右ヒザを負傷し、その痛みがずっとカズを苦しめた。強いキックができず、シュートのタイミングを逃したことも何度もあった。
 7月、オリンピック代表がブラジルを破る歴史的な快挙。マスコミは若い世代の台頭に沸き、カズらベテランの影は薄くなった。

 だがJリーグの終盤、ヴェルディ優勝の可能性がゼロになったとき、逆にカズの闘志は燃え上がった。割り切って「ゴール」に集中し、四試合で7得点をマーク。大逆転で得点王の座を獲得したのだ。
 12月、カズはアラブ首長国連邦のオアシスの町、アルアインにいた。アジアカップを防衛するためだった。だが結局日本代表は準々決勝で敗退。カズもヘディングによる1得点に止まった。チーム全体の出来が悪く、サポートが遅かったため、カズは相手の乱暴なタックルにさらされた。
 「気持ちで負けてしまったのが悔しい」
 カズは厳しい口調でそう語って日本に戻った。
 そして天皇杯。ヴェルディは見事に復活し、レベルの高いチームプレーで優勝を飾った。驚いたのは、カズの献身的な動きだった。攻撃のときの労を惜しまぬ動きはこれまでどおりだった。しかしこの大会では、相手ボールになったときに一瞬も休むことなく守備のポジションにはいり、激しく相手を追い詰めるカズが見られた。その動きが若いヴェルディを一体化させ、優勝に導いたのだ。

 その日、カズは気負うところなくこう話した。
 「アジアカップでは、自分自身も何か足りないと感じた。それをグラウンドで表現したいと思って天皇杯に臨んだんです」
 「FWでも、追いかけ、スライディングし、不格好でもヘディングでくらいつき、『ケツを汚して』サッカーしなければならない。アラブに気持ちで負けた。激しさで負けた。けど次にやるときには負けないようにしようでは絶対にダメ。日本でも、練習やJリーグなど日常からそういうプレーをしていかなければ、急にはできないんです」
 カズはことし2月に30歳の誕生日を迎える。だが不安はないと言う。
 「プレースタイルは変わっていくかもしれない。でも精神的にしっかりしていれば、これからも伸びていけると思います」

 実は、カズの右ヒザは、普通だったら何カ月も試合を休まなければならないほどの負傷だった。だがカズは「プレーしながら治す」と出場し続け、ヴェルディでも日本代表でもチームの先頭に立って体を張ったプレーを見せてきた。
 96年は「苦しいシーズン」だった。それだけに、私はカズの本当の価値を見た気がした。
 カズはがんばった。努力を続け、戦い抜いた。えらいぞ、カズ!
 ヴェルディの天皇杯優勝は、サッカーの神様がそんなカズのがんばりをしっかりと見ていてくれたようでうれしかった。
 九七年、カズの最大の目標であり、日本の全サッカーファンの夢であるワールドカップ出場を目指す戦いの年。カズのがんばりが、きっと「フランス」に導いてくれるに違いない。

(1997年1月6日)

No.174 AFCのいい加減な大会運営

 準々決勝のゆくえに影響を与えたアジアカップ予選リーグ・グループBの順位決定は、いかにもアジア的ないい加減さだった。

 大会規約では、グループ内の順位決定は以下の優先順位で決まる。
 ①勝ち点
 ②当該チームの対戦結果
 ③得失点差
 ④総得点
 ⑤抽選
 グループBでは、イランとサウジアラビアとイラクが勝ち点6で並んだ。当該チーム同士の対戦は、いずれも1勝1敗。得失点差を見ると、イランとサウジが+4、イラクは+3。まずイラクの3位が決まる。しかしイランとサウジは総得点も同じだった。

 いちど適用されたルールには戻らないのが、こうした場合の鉄則である。イランがサウジに勝ったという事実は3チームを得失点差で比べる前に使ってしまったのだから、当然、抽選が行われなければならない。
 だが、「大会委員会」は平然とこの鉄則を破った。そして②を「再適用」(アジアサッカー連盟P・ベラパン事務総長の言葉)してイランを1位にした。
 なぜそんなことをしたのか、それで誰が得をしたのかは知らない。だが大会規約をそのときの都合で勝手に解釈しているようでは、アジアサッカーの世界への距離はまだまだ遠い。

 ところでこの「当該チームの対戦結果」の条項は新ルールである。これまではこういう要素は一切なく、勝ち点の次に得失点差というのが普通だった。発明者は欧州サッカー連盟。6月に行われた欧州選手権で初めて使われた。今大会は、それをそのまま拝借してきたというわけだ。
 新規約導入の背後にあるのは「無気力試合の排除」だ。ワールドカップなどの国際大会では、4チームで1グループを組んで予選リーグを行う方法が一般的。弱いチームでも3試合は保証されるからだ。

 だが、勝ち点や得失点差を見て、3試合目はともすれば「引き分けか、小差の負けでもいい」などという試合になりがちだった。82年ワールドカップでは、両者で1、2位を分け合おうと、西ドイツとオーストラリアがまったく攻める気配のない試合をして0-0で引き分けた。
 これでは観客の興味を削ぐし、大会の人気にかかわる。どの試合も全力で90分間戦わせるにはどうしたらいいか、大会主催者たちは知恵を絞ったのだ。

 その結果、94年ワールドカップで国際サッカー連盟が打ち出したのが「勝ち点3-1」システム。それまで勝ちに2、引き分けに1だった勝ち点を、勝ちに3点与える方法だ。
 そして「第2弾」が、今回話題になった「当該チームの対戦成績」だ。得失点差でどれだけ離されていようと、勝ち点で並べば、直接対決が1-0の勝利でも順位をひっくり返すことができる。リーグ戦でも、最後まで迫力ある戦いが期待できるというわけだ。

 だが、「勝ち点3」といい、「当該チームの対戦結果」といい、何か物哀しいものを感じるのは、私だけだろうか。
 もちろん無気力試合は良くない。だが、「大会を勝ち抜く」という観点からすれば、選手たちには「手を抜く」権利もある。
 ここまでくると、選手たちはもはや「人間扱い」はされていない。法外な金額で試合をテレビに売りつけている連盟首脳部に尻を叩かれ、作り物のウサギを必死に追わされているドッグレースの犬のように思えてならないのだ。
 選手たちの心から湧き上がるプレーがなくなれば、サッカーの魅力も消えてしまうのに。

(1996年12月16日)

No.173 UAE砂漠の旅 2時間の白昼夢

 アラブ首長国連邦(UAE)のオアシスの町、アルアインにきている。アジアカップ取材のためだ。
 「アジア版ワールドカップ」。4年にいちど、ワールドカップの中間年に開催され、アジア中の強豪が集う。アジアの「チャンピオン」を決する大会であると同時に、翌年のワールドカップ予選をにらみ、世界から注目される大会だ。
 会場は首都アブダビのほか、ドバイ、アルアイン。3つの都市はほぼ正三角形のような位置関係で、それぞれ160キロほど離れている。日本のグループの会場のアルアインにホテルをとり、他のグループの試合には、そこから報道関係者用のバスに乗って他の都市のスタジアムに行くという毎日だ。

 道路は砂漠を突っ切って走る。
 道路の脇は農場や緑地帯になっているが、その向こうは果てしない砂丘の連なりだ。気がつくと、道路からほんの50メートルほどに砂の波が迫ってきている場所もある。改めて、このアラビア半島で生きていくことの厳しさを知らされる。
 単調なバスの旅。最初は大会の話題やとりとめのない話が続いても、しばらくするとみんな眠り込んでしまう。その感覚は、ちょうど10年前、メキシコで開催されたワールドカップを思い起こさせる。

 あのときは、メキシコシティに1カ月間ホテルをとり、シティで試合がないときにはバスをチャーターして他の会場都市に出かけていった。
 道路もバスも悪い。300キロ以上離れた会場もある。キックオフが正午の試合も多く、それに間に合わせるよう午前4時出発ということもたびたびだった。ホテルの部屋から枕や毛布をもちだし、バスのなかではひたすら眠った。それが、86年メキシコ・ワールドカップの「感覚」だった。

 4年後、90年のイタリア大会は夜行列車の旅だった。試合が夜遅く終わるので、次の試合会場に行くのにホテルで寝る時間もなかったのだ。あてにならないイタリア国鉄を頼りに過ごした1カ月間だった。
 94年は何10回も飛行機に乗った。広大なアメリカを舞台にした大会。空港往復のタクシー、チェックイン、離陸、睡眠、着陸。その合間に試合を見た。
 98年はどうだろう。フランスご自慢のTGV(超高速特急)で試合を追う毎日になるに違いない。しかしそれは、96年欧州選手権での、のんびりとイギリスの田園風景を楽しみながらの列車の旅とはずいぶん違うはずだ。

 そして2002年。
 私にとって、そしてまた世界からくるファンにとって、どんな「感覚」のワールドカップになるのだろうか。成田とソウルを何度も往復しなければならないのか。それとも、お世辞にも「変化に富んだ」とはいえない新幹線の車窓の景色とともに夢のような1カ月がすぎていくのだろうか。
 いや、日本は、まだどこを会場にするかも決まっていなかったのだっけ。
 日本サッカー協会が会場決定に責任をもつと決めたのは、すばらしい決断だった。できるだけ多くの人に納得してもらうために、現在大変な作業が続いているに違いない。
 だが、会場を決める要素として、どうか、試合を追って日本の各地を旅行する人びとのことを少し考えてもらいたい。そういう人びとが五年後、十年後に「日本のワールドカップは楽しい旅だったな」と思えるような会場計画を考えてほしいと思う。

 「2時間の白昼夢」は、突然終わりをつげる。車窓かなたに、ドバイの高層ビル群が広がっている。

(1996年12月9日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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