
「ボールは丸い」
本紙読者には、運動面での財徳健治記者の同名コラムでおなじみのフレーズだろう。サッカー独自の言い回しだ。
丸いから、どちらにはずみ、転がるかわからない。そこから、予想外の展開や結果になることを、こう表現する。
たとえば、先週土曜のオリンピック予選、対カザフスタン戦を前に。「実力は明らかに日本が上。しかし何が起こるかわからないよ。『ボールは丸い』からね」などと使う。
この言葉が、いつごろ、誰によって生み出されたのか、寡聞で知らない。ただ、私がサッカーを始めたころ、1960年代には、もう広く使われていた。
アジアサッカー連盟の機関誌「AFCニューズ」編集長マイケル・チャーチ氏の話では、おもしろいことに、アラブ諸国でもまったく同じ表現をするという。しかしサッカーの母国である英国には、この言葉はない。
予想外のことが起きたときには、「It's a funny old game.(昔からおかしなところのあるスポーツだったよ)」とか、「a game of two halves(前半と後半、ふたつのハーフがあるスポーツ)」などと言うらしい。
先週土曜のカザフスタン戦。前半、圧倒的に押し込んで中田英寿のゴールで1点をリードした日本は、後半、うって変わって積極的になった相手に雨あられのシュートを打たれた。まさに「ふたつのハーフ」のゲームだった。そして丸いボールがどちらに転がるかわからないように見えた時間帯もあった。終了間際に稲本潤一が2点目を決めたとき、幸運な勝利だったと感じた人も多いだろう。
しかし実際には、日本はほとんど相手に決定的な形をつくらせなかった。数多くのシュートの大半は、ペナルティーエリア外からの運だよりのものだった。本当に危なかったのは、ただ一瞬、左CKがウラズバフチンの頭にぴたりと合ったときだけだった。しかしヘディングシュートは右に大きく流れた。
アルマトイのグラウンドコンディションの悪さで日本が得意とするパス攻撃ができないことを、日本のトルシエ監督はよく理解していた。そして、その結果、試合が非常にフィジカルなものになるだろうということ、その身体的接触の戦いに勝たなければならないと、この1週間強く言ってきたという。
押し込まれても、日本の選手たちはボールのあるところで一歩も引かない戦いを見せた。何をしなければならないかをきちんと理解し、それをやり遂げる力をもった選手たちは、本当に落ち着いて、頼もしく見えた。
ボール扱い、パスワーク、スピードに長ける日本が、あえてそれを忘れ、カザフスタンが唯一得意とするフィジカルな戦いの場に出て行こうと監督と選手が一致したとき、この結果は見えていたように思う。
さらに言えば、この最終予選で最も重要なアウェーのカザフスタン戦ではペルージャの中田の力が必要であるとしたトルシエの判断もまた、的確なものだったことが証明された。
偶然や幸運で生まれた勝利ではない。相手の力を正確に把握し、試合の展開を入念にシミュレートしてたてた戦略の勝利だった。結果は、非常に「ロジカル」(論理的)だったのだ。
「丸いボール」は、傾いた場所に置かれれば、100パーセント上から下に向かって転がる。予測に反した方向に転がることがあるとすれば、それは傾斜を読み間違ったときのはずだ。ボールには意志はなく、常に「地球の真理」というロジックに従って転がるからだ。
カザフスタンに対する勝利は、「おかしなところのあるゲーム」ではなかった。まさに、ボールは「丸く」、ロジカルな方向に転がったのだ。
(1999年10月13日)
先週土曜日(10月2日)のカザフスタン×タイ戦で、シドニー・オリンピックのアジア最終予選C組がスタートを切った。
両国に日本を加えた3カ国で1つの代表権を争う。「ホームアンドアウェー」方式、すなわち、互いのホームで1試合ずつ戦うリーグ戦だ。
3チームの戦いで最後に登場する日本。ライバルたちのプレーぶりを先に見ることができたのは、大きなアドバンテージだ。しかも、最初のカザフスタン戦を乗り切れば、東京で試合が連続する。2日の試合が0−0の引き分けだったことで、バンコクでの最終戦を待たずに出場権獲得の可能性も出てきた。
2日の試合は、その日の深夜にテレビ放映された。私が注目したのは、両チームの戦いではなく、グラウンドコンディションだった。ちょうど2年前、ワールドカップ予選をここで戦ったときには、非常にでこぼこが多かったからだ。
テレビで見た限り、芝生の状態は2年前とほとんど同じだった。きれいな緑なのだが、グラウンダーのパスは10メートルも走ると細かなバウンドを始める。ドリブルも、足元に転がしているはずのボールがあちこちにはね、非常にやりづらそうだ。
Jリーグが始まって以来、日本のスタジアムのグラウンドコンディションは非常に良い状態が保たれている。
かつては、雨水を流すために、中央から外側に向かってゆるやかに傾斜していた。しかし現在は地下排水システムにより完全にフラットになった。しっかりとした手入れと管理ででこぼこもなく、短く刈り取られた芝は、現在の日本が得意とする速いパスを主体とするプレーをフルに生かしてくれる。
そうした「最高のグラウンド」に慣れきった現在の日本選手たち。アルマトイのスタジアムで急にでこぼこのグラウンドになったとき、大きくリズムを狂わせないか、それが心配なのだ。少なくとも、2年前の日本代表チームはその影響をひどく受け、引き分けに持ち込まれた。
少し気になるのは、今回の試合の直前合宿をドイツで行ったことだ。ドイツはグラウンドの芝生の状態では世界最高水準の国で、どこに行ってもJリーグ・スタジアム程度のグラウンドがある。
実は、その結果、現代のドイツは、世界で最もグラウンドコンディションに影響されるチームになってしまっている。以前、国立競技場のグラウンドが改善される前のトヨタカップでは、ドイツの選手たちはボールコントロールに苦しみ、試合運びがぎくしゃくして苦戦した。
スポーツニュースでは、トルシエ監督がヘディングの練習に力を注いでいることが紹介された。「長身ぞろいのカザフスタン対策」と解説されていたが、むしろ、グラウンドコンディションに関係のない空中戦で勝負をつけようというアイデアと、私には見えた。2年前のワールドカップ予選で、日本がアルマトイで記録した唯一の得点は、右CKに秋田が飛び込んで頭で叩き込んだものだった。
ただ、今回のチームは、ボールテクニックの面で2年前のチームをはるかに上回っている。それが、グラウンドコンディションに対する私の不安を杞憂に終わらせるかもしれない。
ことしの4月にワールドユース選手権が行われたナイジェリアのグラウンドは、アルマトイほどではないが、かなりの凹凸があった。しかし日本の選手たちの技術は、それをものともしなかった。多少イレギュラーバウンドしてもコントロールの精度が落ちないのは、このチームの技術的な特徴でもある。
さて、10月9日、アルマトイのグラウンドは、日本チームを相手にどんな「パフォーマンス」を見せるだろうか。
(1999年10月6日)
高校時代の友人が、中央アジアの辺境で大変な試練にあっている。最終的には彼らしく元気いっぱいに帰国してくれると信じているが、毎日のニュースが気がかりでならない。
彼のことを考えながら思い出したのが、高校時代の「クラス対抗」のサッカーだ。
私たちの学校では、期末試験が終わると、先生たちが懸命に採点作業をしている間、生徒たちは数日間をスポーツ大会で過ごすのが伝統だった。クラス対抗で各種のスポーツをするのだが、日ごろ、はたで見ているだけの競技に参加するのか楽しかった。しかしやはり、私の最大の関心はサッカーだった。
クラスによってサッカー部員数に偏りがある。高校2年のとき、私たちのクラスにはGK、DFと、FWだった私の3人しか部員がいなかった。相手は8人も部員がいるクラスだ。
3人だけで試合をすることはできない。幸い、クラスにはサッカー好きのバスケット部員、テニス部員、バドミントン部員などがいた。このメンバーでどうしたら勝てるか。私は試験中からそればかり考えていた。
最終的に、GKのサッカー部員をFWにし、DFの選手がスイーパーにはいり、私がDFラインの前でつぶし役となることにした。徹底的に守備を厚くする作戦は見事に功を奏し、私たちは1−0で勝った。
数年後、60年代のイタリアで一世を風靡した「カテナチオ」と呼ばれる守備偏重のシステムを日本に初めて紹介する記事を雑誌で読んだ。それは、私たちがクラス対抗で採用した考え方とまったく同じだった。
私たちはまた、「素人」選手たちを「押せ」という言葉で動かした。手で押せということではない。自分の近くの相手にボールが来たら、待たずにできるだけ早く間合いを詰めろという指示であり、相手に楽にパスをさせないことが目的だった。個人技に長じたサッカー部員は、相手が突っ込んでくればドリブルで抜いて出る。抜かれたところを私が狙うのだ。
この考え方も、10年以上後になって、「プレッシャー」や「プレス」という「新しい」戦術的アイデアとして紹介された。
けっして自慢しているわけではない(自分自身では割に自慢に思ってはいるが)。「クラス対抗」という「遊び」の世界で、私たちは自由に発想し、ゲームプランを練った。そして、いろいろな角度からサッカーを考えることを学んだのだ。
日本サッカーの前進は、選手の環境を改善するための戦いだった。施設を改善し、コーチの能力を高め、選手たちが何にもわずらわされることなくサッカーに取り組めるようにする。
しかしその結果、少年や若い選手たちは、与えられるものを消化するだけの毎日になってはいないだろうか。最高の環境で、すべてが整えられているとき、人間は主体的な取り組みの姿勢を失い、自分自身で考えることをやめてしまう。
最高の環境を用意するだけでは不十分だ。若い選手たちが主体的に考えて取り組むための「刺激」も必要と思うのだ。
「クラス対抗」の試合で私が最も学んだのは、「力を合わせる」ことの大切さだった。11人がひとつの「チーム」になって戦うこと、互いに声をかけ合い、助け合い、味方を信じて戦うことは、あらゆる戦術に優る。
あの高2のクラス対抗で決勝点が決まったとき、私はサッカーの本物の喜びを知った気がした。そのゴールを決めたのが、サッカー好きのテニス部員だった。いま、中央アジアで苦難にあっている友人だった。
いよいよオリンピックのアジア最終予選開幕が近づいた。日本の若い選手たちが、心もプレーも一丸となって戦い抜くことを期待したい。
(1999年9月29日)
「試合の名前」についての話をしたい。「大会名」ではない。個々の試合にも独自の「名前」があるという話だ。
Jリーグのテレビ中継を見ていて、対戦チーム名を前後半で入れ替えてしまうことが、数年前から気になっていた。
たとえばカシマスタジアムで鹿島アントラーズとジュビロ磐田が対戦しているとしよう。試合進行中、スコアは画面の右上あたりに「ANT1−0JUB」などと表示される。ところが後半になるとこれがひっくり返り、「JUB0−1ANT」となってしまう。どちらのチームがどちらのエンドから攻めているかがわかるようにするための、放送局の工夫である。
前半は左からアントラーズが攻める。後半になればエンドを替えるから、左から攻めるのはジュビロとなる。それに対応して、チーム名とスコアを入れ替えているのだ。
実はこれ、Jリーグ時代になってからの日本のテレビ局の発明で、多くの人から「わかりやすい」と評判が良いらしい。いまでは、日本のサッカー中継のスタンダードになっている。
「実況中継」ではなく、もっぱら結果を伝える機能をもつ新聞は、少し状況が違う。
Jリーグ1部(J1)の結果は、ホームチームが上(あるいは左)に、ビジターチームが下(右)に置かれる。ホームチームを先に表記するという原則になっているのだ。
ところが、Jリーグ2部(J2)以下の試合になると、まったく基準の違う「原則」が徹底して貫かれている。「勝ったほうが上(先)」という原則だ。J2で「東京3−0仙台」とあっても、それが仙台での試合だったりする。
J1に限らず、「リーグ戦」という大会システムにおいては、それがどこで(どちらのホームで)行われた試合であるかも、試合の重要な要素であり、貴重な情報だ。「仙台0−3東京」と、「チーム順」を「ホーム、ビジター」とすることによって、初めて「東京FCがアウェーで快勝」という内容がわかるのだ。
「チーム順」が重要なのは、ホームアンドアウェーのリーグ戦においてだけではない。ワールドカップのグループリーグのような中立地でのリーグ戦でも、勝ち抜きのトーナメント戦においても、本当は重要な意味がある。「チーム順」とは、「試合の名前」でもあるからだ。
昨年のワールドカップを例にとれば、グループHの日本の初戦は、「アルゼンチン×日本」である。試合結果でそうなったのではない。抽選会前に決まっていた試合日程で、初戦は「H1×H2」ということになっていた。そして抽選の結果、H1にアルゼンチン、H2に日本がはいったのだ。この大会で「ARG−JNP」と表記すれば、6月14日にトゥールーズで行われた1−0の試合ということになる。
「決勝トーナメント」にはいっても、試合結果は、最初から決められていた「チーム順」で表記される。決勝戦は「BRA0−3FRA」だった。勝ったのは開催地元のフランスだった。しかし「試合の名前」は、あくまで「ブラジル×フランス」だったからだ。
カシマスタジアムでの試合は、どちらが左から攻めていようと「アントラーズ×ジュビロ」であり、「ANT−JUB」と表記されるべきものだ。「JUB−ANT」では、磐田での試合の名前になってしまう。
「名は体を表す」と言う。私たちは、古代から名前を大事にする民族だったはずだ。
どちらのチームがどちらから攻めているかを知らせるには、別の工夫をすればよい。名前を粗末に扱えば、試合は迷子になってしまう。
(1999年9月22日)
国内での久びさの日本代表の国際試合。しかもアジアの国とのホームでの対戦は昨年のダイナスティカップ以来。FW柳沢をオリンピックチームから引き上げるなどいろいろなテストをしながらも、トルシエ監督からは「必勝」の意図が感じられる。
しかし指名を受けた名波浩(イタリアのベネチア所属)は辞退を申し出、最終的に日本サッカー協会はこれを受理した。残念なことだ。日本代表チームやファンにとってだけではない。名波自身にとっても、残念なことと思うのだ。
名波からは、事前に日本サッカー協会に辞退の意向が伝えられていたらしい。しかしトルシエは、国際サッカー連盟(FIFA)のルールでベネチアには名波を供出する義務があるため、最終的には帰国するだろうと考えていたようだ。
名波は8月29日に行われたセリエAの開幕戦、対ウディネーゼ戦に後半途中から交代出場し、同点ゴールをアシストし、FKを受けて強烈なシュートをポストに直撃させて、イタリアのファンに強い印象を与えた。
イタリアに渡ってからの名波の評価は必ずしも高いものではなかった。技術的には申し分ないが、フィジカル面の弱さで、「セリエAでは無理」と評する者もいた。開幕戦でのプレーで、その評価は大きく変わったという。イタリアの新聞によるプレーの採点でも、高得点を得た。
「次は先発出場」と張り切っているときに、日本に帰国して試合する必要がどこにあるのだろうか。しかも試合は、ただの親善試合だ。名波はそう考えて辞退を決断したのだろう。
もしかすると、トルシエのチームでプレーすることに嫌気がさしているのかもしれない。7月のコパ・アメリカ(南米選手権)の試合後に、トルシエは「戦術を守らない」などと名波を酷評した。その言葉を、名波は侮辱されたように感じたのかもしれない。しかし正式な辞退理由は、「いまはベネチアに集中したい」ということだった。
オリンピックチームに呼ばれた中田英寿(ペルージャ)は、はやばやと帰国し、7日の韓国戦に出場した。
中田と比較する気はない。彼はすでにペルージャで確固たる地位を築いている。しかも試合は1日早かった。日本での試合の翌日に出発すると、中田がヨーロッパに戻るのは水曜日、名波が帰国していれば木曜日だっただろう。セリエAの次の試合日である日曜日までの時間を考えれば、1日の差は大きい。
しかしそれでも、私は名波の辞退の判断が残念でならない。そこに名波の「自信」のなさがうかがえるからだ。
名波は10代の少年ではない。大学を出てJリーグで4シーズン半、日本代表としても50試合を超す経験をもち、ワールドカップにも出場した。プロとして十分すぎるほどの実績をもった26歳なのだ。
イラン戦に出場したら、日曜日のトリノ戦には出場できないかもしれない。しかしシーズンはまだ始まったばかりなのだ。
名波の技術と創造性あふれるプレーは、イタリアでも十分ファンを魅了し、チームの勝利に貢献できるものだと、私は確信している。しかしいまの名波にはその自信がない。開幕戦を見ても、ふたつのプレー以外は舞い上がり、攻守ともに効果的な働きができていなかった。
自信がないことをさらけ出すのは、日本では美徳かもしれない。しかし一歩国外に出たら致命的な欠点になりうる。
「1試合ぐらい外されてもだいじょうぶ。オレは誰よりもうまいんだ」というプロとしての気構えが、セリエAで戦い抜くには不可欠だ。だからこそ、平気で日本に戻り、堂々とイラン戦に出場する強さが、名波にほしかったと思うのだ。
(1999年9月9日)