
好天無風。11月も下旬というのに、ぽかぽかと暖かかった。試合はJ1の「生き残り」をかけたジェフ市原対ヴィッセル神戸。ゴール裏のサポーターは全身全霊をかけた応援を続けている。しかしメーンスタンドには、まばらな観客しかいなかった。
11月20日、ジェフにとって今季最後のホームゲームだったにもかかわらず、市原臨海競技場にやってきたファンはわずか5060人だった。ジェフは今季のホームゲーム15試合のうち14試合をこの臨海競技場で開催し、1試合平均4817人。「天王山」といえる試合に、いつもと変わらぬファンしか集まらなかったことになる。
原因は、市原に行くJR内房線のなかで見ることができた。昼すぎの電車は、制服姿の高校生でいっぱいだった。そう、この日は、「学校のある土曜日」だったのだ。にもかかわらず、キックオフは午後2時だった。これでは、高校生や中学生は応援にくることができない。サポーターや市民がスタジアムを満員にする「1万5000人作戦」を展開したというが、それも空しかった。
この日は、全国で7つのJリーグ試合が行われた。そしてそのうち4試合が午後2時キックオフ、残りの3試合が午後4時キックオフだった。2時キックオフの平均観客数は9231人。一方、午後4時は1万4960人だった。
これだけの要素から結論を出すつもりはない。しかしキックオフ時間を決める際に、その土曜日に学校があるかどうかがどれだけ意識されているのか、そこが疑問なのだ。
アメリカのプロサッカーリーグMLSは96年にスタートした。そして、アメリカ人の関心を引くために、日本と同じような延長戦や、その後のシュートアウト(日本のPK戦に相当)を実施した。しかし5シーズン目の来年、シュートアウトを廃止して引き分けを導入し、延長戦も10分間だけにするという。
日本でも、今季からPK戦が廃止されて引き分けが導入された。理由は、「120分間もがんばった末にPK戦負けで勝ち点0ではかわいそう」という、多分に心情的なものだった。
だがMLSでは、「どういうリーグにしていくか」からすべてが発想されている。当初は、サッカーを知らないアメリカ人を引きつけて「ビッグスポーツ」に仲間入りしようとしていた。しかし来年からは、主としてすでにサッカー好きの人びとの満足を考えてリーグを運営していく方針に転換したという。
アメリカには、ヨーロッパやラテンアメリカからの移民を中心に、アメリカ特有のスポーツ文化とは違うサッカーの文化を理解し、愛してやまない人びとがいる。そこにターゲットを絞り、10万人単位の観客ではなく、2万、3万というところを目指していこうという。だから引き分けを導入したのだ。
J2(2部)をつくり、J1(1部)との自動入れ替えという新しいシステムを取り入れた今季のJリーグ。しかし人気は「上向き」とはいえなかった。その原因のひとつが、「学校のある土曜日の午後2時キックオフ」に見る、「ファン不在」の運営にあるのではないか。
Jリーグはスタート前の91年に大がかりな調査を行い、サッカーをしている中高生が観戦にくることができるように「土曜日午後6時半キックオフ」の原則を決めた。しかしその後、人気沸騰とテレビ放送からの要請でそんな取り決めは忘れ去られ、現在に至っている。
Jリーグとはどういうリーグなのか、それぞれのクラブは地域社会のなかでどのような存在なのか、どういう人びとにスタジアムにきてほしいのか。すべてのことを、原点に戻って考え直す必要があるように思う。
(1999年11月24日)
シドニー・オリンピックの予選が終了した。振り返ってみれば、若い世代の技術の高さ、精神的な強さ、そして試合ごとに伸びていくたくましさに、感心しっぱなしの予選だった。
最終予選初戦の取材のため、10月上旬、2年ぶりにカザフスタンのアルマトイを訪れた。ワールドカップ予選で韓国にショッキングな逆転負けを喫した直後に訪れた2年前と比べると、今回は、短時間ながら落ち着いた気持ちで滞在を楽しんだ。
アルマトイは街路樹の豊かな町だ。巨大なプラタナスが広い車道を覆うように両側に立ち並び、車道からは街路樹の背後の建物の形さえわからない。カザフスタン戦の翌日、その街路樹の下をゆっくりと歩いた。
秋のやわらかな風が街路樹を渡っていく。木漏れ日が歩道に踊る。タフな戦いの末カザフスタンを破った試合を振り返りながら、私は、それとはまったく無関係の、あることを発見し感動にとらわれた。「自然の知恵」の発見だった。
大木は豊かな枝を茂らせ、そこに無数の葉をつける。しかし葉の大半は日陰になっているはずではないか。なのになぜ、日なたの葉と同じようにきれいな緑をしているのか。その答は「踊る木漏れ日」にあった。
樹木は、幹はしっかりとしているが、枝と葉は柔軟性に富んでいて少しの風にもさわさわと揺れる。それによって、樹木の「内側」の葉にも日が当たるチャンスが生まれる。
人間が太陽のエネルギーを利用しようとするときには、「パネル」のような固い素材を太陽に向ける。太陽エネルギーを受け止めるのはそれ1枚だけだ。その裏にもう1枚置いても何の役にも立たない。しかし自然は、柔軟な枝と葉によって、何層にも枝を茂らせ、葉を広げ、太陽の恵みをより深く受け止める「知恵」をもっていたのだ。
私の想いはフィリップ・トルシエ監督率いるオリンピック代表に戻る。この最終予選に至るまで、トルシエは50人を超す選手を召集し、レギュラーを固定せずに夏の1次予選を戦い抜いた。それはまるで、枝と葉を柔軟にして、そよ風のなかで太陽の光を深く受け止める樹木のようだった。
なかには、自分の枝の場所が気に入らず、自ら枯れて落ちていった「葉」もあった。しかし全体としては、実に数多くの「葉」に光を当て、緑豊かに育ててきたものだと、あらためて感心した。豊かな葉があったからこそ、頼りない若木がたくましい樹木へと成長したのだ。
チームを預かる監督の仕事のうち、もっとも難しいのが、「サブのケア」だ。
サッカーは11人と決まっている。そしてどんなにたくさんの好選手がいても、必ず「ベストの11人」は存在する。それを見極めるのが監督の大きな仕事だが、同時に、残った選手たちに刺激を与え続けて意識を高く保つことも、無視できない重要性をもっている。それは、「全員がレギュラーだ」などという言葉だけで解決のつく問題ではない。
レベルはまったく違うが、ひとつのチームを預かる身として、私も、その苦しみを味わっている。重要な試合が続けばおのずとレギュラーは固定され、サブの選手たちの意欲を保つことは難しくなる。
しかし表に出た日なたの「葉」だけでは、樹木は成長していくことはできない。枝や葉を柔軟にして内側の「葉」にも十分光を当て、緑豊かな「葉」を数多くつけることで、初めて樹木として旺盛な生命活動をすることができるのだ。
「自然の知恵」から学ばなければならない。樹木を大きく育てるために、そして、それぞれの「葉」が、元気いっぱいに活動していけるために。
(1999年11月17日)
東京・国立競技場午後5時。キックオフまで2時間もある。しかし両ゴール裏の「サポーター席」はぎっしりと埋まり、早くも盛り上がりを見せている。
北側のスタンドに設置された大型映像装置に観客席の様子が映し出される。1画面に映っているファンは10人ほどだろうか。カメラが回ってくると、手を振ったり踊ったり、みんな必死に目立とうとアピールする。そしてある地点でカメラが止まり、ぐぐっとズームイン。画面の中央のファンの顔に、「ポン!」と丸印がつく。
画面の下に文字が出る。「あなたに決定」
「オレだ、オレだよ! やった、やったー!」
決まった人は、大型映像装置を見上げながら、まるで決勝ゴールを決めた選手のように狂喜して友人に抱きつく。スタンドには、落胆のため息とともに、決まった人への盛大な拍手が広がる。そうして4人が決定する。約10分間、楽しさいっぱいのアトラクションだ。
11月6日、試合は日本が2回連続でオリンピック出場を決めたカザフスタン戦。しかしいったい何が「決まった」のか。実は、選手入場のときに「フェアプレー旗」を運ぶ4人の旗手を、スタンドのファンから募集していたのだ。
国際サッカー連盟(FIFA)がフェアプレー旗をつくったのが92年。以来、国際試合ではこの旗を先頭に選手が入場する形が一般化した。
キックオフ直前、興奮のボルテージがピークに達するとき、突然鳴り響く力強い音楽。94年ワールドカップ・アメリカ大会で地元組織委員会からFIFAに寄贈された「FIFA讃歌」だ。いまでは「入場の曲」としてすっかりおなじみだ。そしてその音楽に合わせて先頭を切ってピッチにはいるのが、黄色いフェアプレー旗なのだ。
海外では、少年少女を起用することが多い。昨年のワールドカップ・フランス大会では、試合ごとに世界の6大陸の少年少女を起用し、「全人類の大会」を世界に訴えた。
それを試合当日スタンドのファンから選び、しかもその選出過程まで楽しさいっぱいのアトラクションにしてしまうというアイデアには、素直に脱帽する。
カメラが回り始めるとき、アナウンスがはいる。
「さあ、我こそはと思う方は一生懸命アピールしてください。でも周囲の人に迷惑はかけないように。アピールも、フェアプレーでお願いします」
なんと気の利いたコメントではないか。
フェアプレー、フェアプレーとよく言われるが、これほどあいまいで、定義しにくい言葉はない。ひとつのプレーや行為が、ある人にとってはフェアプレーでも、他の人にとってはまったく逆であることさえある。
ひとつだけ言えるのは、フェアプレーは人々をハッピーな気分にしてくれるということだ。「ああ、サッカーっていいな」、「人間て、なんてすごいんだろう」と、感嘆させ、感動させ、うれしい気分や、思わずニヤリとさせてくれる。
プレーをする。試合を見る。サッカーとのいろいろなかかわりのなかで、みんながハッピーな気分になることがあれば、それは立派な「フェアプレー」ではないだろうか。そう考えれば、「フェアプレー旗旗手募集」のアトラクションは、フェアプレーをプロモートする行為であると同時に、それ自体がすばらしいフェアプレーの実践となっている。
選手入場を前に、大型映像には4人の「選ばれし者」のちょっぴり緊張ぎみの表情がとらえられていた。そしてFIFA讃歌。フェアプレー旗をピンと張り、4人は胸を張って5万5000の大観衆の前に出ていった。
(1999年11月6日)
「かんとう村」といっても、東京都民でも知らない人が多いだろう。
調布市の西の端から府中市、三鷹市にまたがる広大な地域がある。アメリカ軍調布基地の跡地だ。返還後、滑走路施設は「調布飛行場」となり、その周辺にスポーツ施設がつくられた。野球やサッカーのグラウンドがたくさん並んでいる。アメリカ軍の宿舎が「カントウ村」と呼ばれていたことから、運動施設は「かんとう村運動広場」と呼ばれるようになった。
国道20号線(甲州街道)を西に走っていくと、中央自動車道の調布インターを過ぎたあたりで右手に広大な空き地が開け、しばらくすると東京オリンピックのマラソンの「折り返し地点」の標識が見える。そこが「かんとう村」の入り口だった。いまそこは、大がかりな工事現場の出入り口になっている。「東京スタジアム」の建設だ。
実はこのスタジアム、私たちのチームがよく利用していたサッカーグラウンドのあった場所に建設が進んでいる。周囲の立派な木立が無惨に切り倒され、いよいよ工事が始まるとき、私たちは貴重なグラウンドがひとつなくなると失望していた。しかしまだまだ使われていない土地があったらしい。少し西寄りの場所に、以前と変わらぬ数のグラウンドがつくられた。
ある日練習に行くと、巨大なクレーンが目についた。やがて大きなスタンドの骨格が姿を現した。練習に通うたびにスタジアムが「成長」していくのがわかる。来年の暮れには、近代的なスタジアムが誕生するのだ。
当初の計画は「サッカー専用」だった。しかし諸事情で陸上競技との「兼用」となった。建設計画も、当初の97年完成から99年完成へ、そして最終的に2000年末完成へと延びた。しかしこうして形ができてくると、新スタジアムへの期待がふつふつと湧いてくる。
現在J2(Jリーグ2部)で2位につけ、J1昇格への好位置にいる「FC東京」は、再来年、2001年のシーズンからここをホームスタジアムにして戦うことになっている。
FC東京は、92年に始まった旧JFLに「東京ガス」という名称で参加し、年ごとに力をつけ、成績を伸ばしてきた。旧JFL最終シーズンの昨季には、見事初優勝を飾っている。そして今季、J2入りを前に「FC東京」に名称変更し、J1昇格へと目標を定めた。
Jリーグが誕生して以来、東京にホームタウンを置くクラブがなく、都民のサッカーファンは寂しい思いをしてきた。しかしFC東京の誕生で、ようやく思い切り応援できるクラブができた。FC東京がJ1クラブを次々となぎ倒して進出したナビスコ杯の準決勝では、国立競技場に4万人を超すファンがつめかけて声援を送った。J1に上がって東京スタジアムを使えるようになれば、この試合以上に盛り上がるのは必至だ。
さらに、最近になって、ヴェルディ川崎が2001年にホームタウンを川崎から東京に移し、この東京スタジアムを使用する計画が報道された。
川淵三郎Jリーグチェアマンが、まだ正式に移転申請が出てもいない時点でそれを容認するような発言をするのは非常におかしい。しかしJリーグのクラブが「一私企業」として生き残りを理由に権利を強行するなら、移転を止めるのは難しい。
心配なのは、「移転前、2000年のヴェルディはどうなるのか」という点だ。川崎を「足げ」にして出ていくクラブを、市民はもう応援しないだろう。
いずれにせよ、完成と同時にJリーグの新しい拠点となる東京スタジアム。21世紀の幕開けとともに、東京にもようやく本格的なJリーグ時代が到来することになる。
(1999年10月27日)
10月17日、日曜日。午前5時40分起床。どんよりと曇り、寒い。数日前までの暑さがうそのようだ。
友人が迎えに来てくれて、6時半に出発。銚子岬の近くの茨城県波崎町に向かう。前日から40歳以上の大会が開催され、私のチームが参加しているのだ。途中渋滞もなく、安全運転で8時半に到着する。
利根川と鹿島灘にはさまれたこの広大な町には、数十面のサッカーグラウンドが点在している。そのすべてが芝生だというから驚く。道に迷わずたどり着けたのは幸運だった。
前日のグループリーグに続く決勝トーナメント。準々決勝の相手は強豪だ。前日2試合した仲間はみんな疲労の色が濃く、捻挫で動けない者もいる。
前半、私のチームが見事なシュートを決めるが不可解なオフサイドの判定。結局0−0で引き分け、PK戦で敗れる。いつでも出られるように準備していたが、監督はついに私の名前を呼ばなかった。
負けても順位決定戦がある。気を取り直して別のグラウンドに移動する。大会最後の試合。準々決勝に出場しなかったメンバー全員が出る。私はボランチ。11人のフルゲームは久しぶりだったが、私より15歳も年上の人もがんばっている。弱音ははけない。そして後半、私が交代した直後に決勝点がはいる。
結局、私たちのチームは5試合戦って失点は0。PK戦負けがひびいて2年連続優勝を逃したが、まずまずの成績だった。
みんなでグラウンドで弁当を食べ、時計を見るとまだ1時を回ったばかりだ。銚子発2時43分の特急「しおさい」で帰ろうと考えていたが、友人の車で東京に戻ることにする。
いまにも降りだしそうな天候のためだったのだろうか、高速道路は休日の午後とは思えない交通量の少なさで、3時には東京に到着する。おかげで、J2のFC東京×コンサドーレ札幌戦のテレビ中継を後半から見ることができた。
エースのアマラオを欠く東京は攻撃の最後の段階に力強さがない。オリンピック代表から外されて前日チームに戻った札幌の吉原が反応よくクロスバーからのリバウンドを叩き込み、これが決勝点となる。江戸川競技場は両チームのサポーターで埋まり、非常に雰囲気が良かった。
テレビ中継が終わってからシャワーを浴び、支度をして出発。オリンピック最終予選の最初のホームゲームを迎える国立競技場には期待感が渦巻いていた。
試合中に東京新聞の「早版」用原稿を書き、試合終了後、監督記者会見を聞いてからももう1本原稿を書く。東京近辺ではこの記事が読まれるはずだ。
急いで帰り、テレビをつける。イタリア・リーグ「セリエA」のベネチア×インテルの生中継は、もう前半の終盤だ。名波が元気に走り回っている。これまでの「左サイド」ではなく、中央で「ボランチ」のようだ。
後半立ち上がり、名波が鋭い出足でボールを奪い、サイドに振って、ベネチアが先制点を奪う。ベネチアの今季初勝利は名波のセリエA初勝利。それが首位インテルからの金星だった。
引き続き12時20分にベローナ×ペルージャの録画放送が始まる。中田はいつものように「ウルトラバランス」のドリブルを見せるが、ペルージャは相手GKの好守に得点できず、カウンターから1点を食らう。
この試合の前半終了後、どうしようもない眠気が襲ってくる。最後まで見たかったが、このままテレビの前に座り続けていても頭には何もはいってこないだろう。翌朝VTRを見ることにして、睡魔に白旗を上げる。
ベッドにはいって考える。思えば、朝から晩まで、サッカー漬けの1日だった。まあ、たまにはいいだろう。
(1999年10月20日)