
先週末に行われた天皇杯の4回戦で、初登場のJ1クラブ16のうちなんと7チームが敗退した。5回戦、ベスト8をかけた戦いに、J1のクラブが9つしか残らなかったのは、J1が16クラブになって以来初めてのことだ。
毎年元日に決勝戦が行われる天皇杯全日本選手権。所属リーグを問わず日本全国の協会登録チームに門戸が開かれ、約6000のチームが争うノックアウト方式の大会だ。日本サッカー協会(当時の名称は「大日本蹴球協会」)が創設された1921年(大正10年)にスタートし、何回かの中止はあったものの、ことしで第84回を迎えた。
元日決勝は1968(昭和43)年度の第48回大会に始まった。この年、「生の新年風景を伝えたい」とNHKが「NHK杯元日サッカー」を開催し、好評を博したことから、それまで年が明けて1月中旬から開催されていた天皇杯を元日に決勝戦ができるよう前倒ししたのが始まりだった。「NHK杯」は現在も天皇杯とともに優勝チームに授与されている。
69年1月1日、初の「元日決勝」の舞台に立ったのは、ヤンマー(現在のC大阪)と三菱(同浦和)。前年のメキシコ・オリンピックのヒーロー釜本邦茂と杉山隆一の対決となり、東京の国立競技場には3万5000人という当時のサッカーでは驚くべき大観衆が集まった。試合は釜本が立ち上がり2分に豪快なシュートを決め、1−0で押し切ったヤンマーが初タイトルを獲得した。
当時は日本全国の登録チームに門戸が開かれていたわけではなく、出場はわずか8チーム。72年度の第52回大会から「オープン化」され、何回かの改革を経て、現在では決勝大会に80チームが出場する大規模な大会となった。
昨年までは11月末にスタートし、J1のクラブはJリーグのシーズンが終了した12月になって登場していた。しかしすでに翌年の契約交渉が始まる時期であったため、チームのモチベーションを保つのが難しいという弊害が指摘されていた。
そこで今季は9月に1回戦をスタートし、J1クラブが登場する4回戦も、まだJ1のシーズン中の11月に設定した。だがJ1クラブは残る3節のリーグ戦に備えて疲れの見える主力を休ませるチームも多く、7チームが下位リーグクラブに敗れた。勝った9チームも、6チームが1点差の勝利だった。
J1を倒した7チームのうち5つはJ2のチームだったが、今大会の驚きは、J2の下のJFLの2チームがはいっていることだ。
群馬ホリコシは柏を1−0で下した。後半はじめに退場で10人になりながら、チーム一体の守備でしのぎ、見事な速攻で決勝点をもぎ取った。ザスパ草津は、C大阪に先制された後に猛反撃し、あっという間に2点を取って逆転勝ちした。草津は来季J2昇格が有力だがが、群馬は希望していたJ2入りを今季は断念した。群馬県のライバル同士が手を取り合うように5回戦進出を果たしたのは興味深い。
この両試合はともにテレビ中継されたが、どちらも立派な試合で、チームワークと戦術の徹底、そして戦い抜く精神力でつかんだ勝利だった。技術的にも、J1の選手に見劣りしていなかったのは、日本サッカーの選手層が厚くなってきた証拠だろう。12月中旬に行われる5回戦で、草津はJリーグのディフェンディング・チャンピオン横浜と、そして群馬は山本昌邦監督率いる磐田と対戦する。
下位リーグクラブが上位リーグクラブを倒す「番狂わせ」は、天皇杯のようなノックアウト方式の大会を盛り上げる大きな要素でもある。J2クラブ、JFLクラブの快進撃は元日の国立競技場まで続くだろうか。
(2004年11月17日)
中田英寿が戻ってきた。
今季からイタリア・セリエAのフィオレンティナでプレーしている中田は、10月末のレッチェ戦、そして7日のインテル戦と、2試合連続でフル出場し、ともに見事なプレーを見せた。中田が躍動するのを、日曜深夜のテレビで本当に久しぶりに見た。
レッチェ戦では2アシスト。今季好調の相手に4−0の勝利を得るヒーローとなった。1−1で引き分けたインテル戦でも、労を惜しまない動きで攻撃をリードし、セリエB(2部)から復帰したばかりのフィオレンティナの上位進出に貢献した。
1点をリードし、後半、強豪インテルから猛反撃を受けるなか、中田はFWとして前線でボールを受け、相手DFの激しい当たりに耐え、しっかりと味方につないだ。本当に頼もしいプレーぶりだった。
中田は、3月31日、アウェーのシンガポール戦を最後に、日本代表のユニホームから遠ざかっている。長年酷使してきた足の付け根に痛みが出て、それがどんどんひどくなっていったからだ。
ジーコ監督が率いる日本代表は、2−1で辛勝したこのシンガポール戦が「底」だった。中田が参加しながら足の痛みで途中離脱した4月の東欧遠征からチームがまとまりはじめ、8月には主力の半数を欠いて苦戦続きだったもののアジアカップで優勝、先月はアウェーでオマーンを退けてワールドカップのアジア第1次予選勝ち抜きを決めた。
しかし強豪と対戦する最終予選(来年2月〜8月)では、中田の力が不可欠だ。インテル戦で見せたプレッシャー下での抜群のキープ力は、2006年ワールドカップ・ドイツ大会を目指す戦いのなかで無限の価値をもつはずだ。
98年にベルマーレ平塚(現在の湘南)からセリエAのペルージャに移籍した中田。2000年にはビッグクラブのローマに移籍し、翌年にはセリエA優勝も味わった。しかし2001年夏から所属した3つ目のクラブ、パルマでは、なかなかうまくプレーが運ばなかった。
右サイドのMFとして、ときにはサイドバックのようなポジションまで下がって、与えられた仕事を懸命にこなした。しかしその役割は、中田の創造的な能力を生かせるものではなく、毎週テレビで見ながら、私は痛々しさを感じずにはいられなかった。
中田は、監督に何を求められてもそれをやり抜いた。驚異的なスタミナとケガを知らない超人ぶりは、厳しいセリエAで6シーズンも生き抜いてきた重要な要素だった。今回の故障は、その中田が、プロになって初めて直面した種類の困難だったに違いない。
コンディションが戻らないまま今夏フィオレンティナに移籍。しかし開幕からそのプレーは失望続きだった。ファンから厳しいブーイングを浴びせられることもあった。しかし2アシストを記録して4−0の勝利のヒーローとなったレッチェ戦、中田の表情に明るい笑顔が広がった。
1点目のアシスト直後には、いつものようにクールだった彼が、自分で独走しながらチームメートのオボド(ナイジェリア)にパスを回してアシストした3点目のときには、そのオボドに抱き上げられながら歓喜の表情を見せた。
中田英寿は、サッカーで生きている。
サッカーで収入を得ているという意味ではない。自己の創作的な欲求をサッカーによって満足させ、表現することが、彼の生きる証しなのだ。画家が絵筆をもつように、作曲家が楽譜に向かうように、中田はサッカーをプレーする。7カ月間、あるいはそれ以上の年月にわたる苦闘の末、中田はその喜びを取り戻した。それは、セリエA優勝にも匹敵する大きな「勝利」だ。
この勝利は中田に何をもたらしただろうか。これからの中田が楽しみになった。
(2004年11月10日)
エメルソンの右足から放たれたボールが不思議な弧を描いて舞い上がった。息を呑むスタンド。一瞬後、ボールを吸い込んだゴールネットが揺れた。「浦和の夢」が大きく近づいた瞬間だった。
「サッカーの広告のような試合だった。両チームとも攻撃的で、積極的に得点を狙いにいった」と、浦和のブッフバルト監督が語ったハイレベルな攻防の前半。しかし後半は一転して、「浦和の強さを見せつけられた」(鹿島・トニーニョ・セレーゾ監督)試合となった。
先週土曜日、鹿嶋で行われた鹿島アントラーズ対浦和レッズは、Jリーグ第2ステージのタイトルの行方を大きく浦和に傾かせる結果となった。後半39分のエメルソンの決勝点で3−2の勝利を収めた浦和は、2位に勝ち点5差をつけ、優勝に向かって大きく前進した。残り5節の対戦カードを見れば、この勝利で浦和優勝の可能性は非常に高くなったと言えるだろう。
浦和は8月からの第2ステージで急に強くなったわけではない。シーズンの序盤こそ負けが込んだが、5月以降は25の公式戦で実に18勝4分け3敗という抜群の成績を残しているのだ。6月から9月にかけては公式戦で9連勝。うち6試合は1点差勝ちという勝負強さも見せた。
5月からの急上昇は、今季前にサンフレッチェ広島から獲得したDF田中マルクス闘莉王の、オリンピック予選での負傷からの復帰と符合する。エメルソン、永井雄一郎、田中達也とそろったFW陣の得点力は昨年から定評があった。今季の好成績は、守備陣強化の成果なのだ。
ロシア代表のDFニキフォロフの負傷からの回復が思わしくないと見ると、7月はじめに韓国の仁川からトルコ代表DFアルパイを補強し、さらに日本代表DFの坪井慶介が代表の試合で故障すると、ためらうことなく8月にブラジル代表DFのネネを獲得した。万全の守備陣を築いたことがそのまま成績に反映されているのが今季の浦和だ。
昨年浦和に初めてのタイトル、ナビスコ杯優勝をもたらしたオフト監督との契約を更新せず、かつて浦和の守備のリーダーだったブッフバルトを監督として呼び戻した。何が何でも優勝するという姿勢は、シーズン前の補強に明確に表れていた。
代表クラスの日本人選手の補強は闘莉王ひとりにとどまらなかった。清水からMF三都主アレサンドロ、名古屋からMF酒井友之...。9月にMF山瀬功治と長谷部誠が相次いで負傷しても、厚い選手層を生かして乗り切った。
これほどの大型補強が可能になったのは、けっして大金持ちの「パトロン」がいるからではない。いや、「パトロン」はいる。地域のファン、サポーターだ。入場料収入、グッズ売り上げはJリーグでも群を抜く。関心が集まるから、スポンサーからの収入も増える。今季これまでの12のホームゲームで平均3万6044人という驚異的な観衆の多さ、地域からの熱烈なサポートこそ、浦和がもつ最大の「財源」なのだ。
地域との結びつきは一朝一夕で成されたものではない。十数年前から積み重ねてきた小さな努力の結晶である。常にファンの立場に立ち、試合を新鮮な思いで楽しんでもらおうという運営努力、思いが余って暴走を繰り返してきたサポーターたちとの密接な対話、地域に深くはいり込んだ営業努力...。チーム強化では失敗を繰り返してきた浦和だが、地域のファン、サポーターとの絆はどこよりも強く、そして広範にわたっている。
そのファンが待ち望んだものの実現へと、いま、一歩一歩進んでいる。「浦和の夢」が近づいている。地域の力を結集して、Jリーグに新しいチャンピオンが生まれる。
(2004年10月27日)
来月17日に埼玉スタジアムで行われるワールドカップのアジア第1次予選最終戦、シンガポール戦についてのジーコ日本代表監督の「計画」が波紋を広げている。
先週マスカットでオマーンに1−0で勝ち、日本はこの試合を待たずに最終予選進出を決めた。残る1試合で、ジーコは「日本のために長年戦い、歴史を築いてきてくれた人びとにプレーしてもらいたい」という意向を表明した。
試合後に彼から直接その考えを伝えられた日本サッカー協会の川淵三郎キャプテンは、その話のなかにカズ(三浦知良)や中山雅史の名前が挙がったことを明らかにした。
さまざまな意見が出ている。「現役である以上、常に代表を目指してプレーしている」と語る選手たちに対して失礼ではないかという意見。若い選手にチャンスを与えるべきだという意見...。もろ手を挙げて歓迎の空気ではない。
最初に彼がこの計画について漏らしたのは、試合直後の記者会見においてだった。
「シンガポール戦はどう戦うのか」という質問が出たのは、オマーンとの対戦を振り返った後だった。
「いまは最終予選に進出した喜びをかみしめたい」。そう切り出した後、ジーコの表情がゆるんだ。そして「実はひとつのアイデアがあるんだ。ただこれは川淵キャプテンと話し合ってからでないとお話しできない」と続けた。
どんなアイデアなのか、その場では、彼は具体的なことは話さなかった。試合日の深夜の便で現地を離れた私がジーコの計画を知ったのは、翌日、関西空港に到着して買った新聞を開いたときだった。
この計画に異論を唱える人びとの思いはわかる。私も、これまで出場機会に恵まれなかった選手や、最終予選に備えて若い選手を起用するのがいいのではと、漠然と考えていた。同時に、国際Aマッチは、その時点で可能な最強のチームで出場することを義務付けられた試合でもある。
だがあのときのジーコの表情を思い起こすと、簡単に「それは違う」とは言い切れない。
記者会見の場でのジーコは、常に感情を押し殺し、ほとんど「沈鬱」といった表情で淡々と話す。しかしあの夜、「ひとつのアイデアがある」と語ったときだけは、まるでいたずらを見つかった子供のような表情を浮かべたのだ。
就任以来、2006年のワールドカップに日本を連れていくことを最低限の目標として彼は戦ってきた。予選はもちろん、強化のための準備試合も、勝つことだけを第一にして指揮をとってきた。
そうしたなかで、彼には、ひとつの「負い目」があったのではないか。監督としていろいろなものを切り捨ててこなければならなかった。Jリーグ立ち上げの3年も前から日本のサッカーにかかわってきた彼にとっての最大の負い目は、日本サッカーの現在を築くために奮闘しながらも、現在ではメディアでもあまり取り上げられなくなってしまった数々の選手たちに対するものだったに違いない。
2年間、まじめ一筋で日本代表の強化に心を砕き、自らにも選手たちにも厳しい姿勢で臨んできたジーコ。そのジーコが初めて見せた「スキ」は、日本のサッカーに対する彼からの「敬意」のように、私には感じられる。もしそうであれば、この計画はあくまでもジーコの心をとらえ続けてきた「功労者」たちに対する、彼個人の敬意である。けっして人気投票で決するようなものではない。
2年間に渡る苦闘の末、ジーコは、アジアの強豪と比較してもけっして弱くはないオマーンを相手に、アウェーで堂々と勝てるチームをつくり上げた。彼自身の口でその計画の全貌を明らかにされるまで静かに待つのが、ジーコに対する私たちの「敬意」のように、私は思う。
(2004年10月20日)
2年ほど前、ロンドンから1冊の本を取り寄せた。アンディ・ドゥーガンというジャーナリストが書いた『DYNAMO』というタイトルの本だった。2001年に発行され、たちまちベストセラーのトップ10にはいって、翌年にはペーパーバック版が発売された。私が手に入れたのは、その1冊だった。
旧ソ連のウクライナのサッカーにはひとつの「伝説の試合」がある。1942年夏、この共和国の首都キエフを占領したナチス・ドイツの軍隊のチームが地元チームと試合を行い、負けることを命じられた地元チームが勝利を収めたため、チームはユニホーム姿のまま逮捕され、全員が射殺された----。
いろいろな本や雑誌記事でこの「伝説」を読み、私はその真実を知りたかった。ドゥーガンの丹念な取材で「伝説」が1冊にまとめられたことを知って入手したものの、読む時間が取れないまま本棚でほこりをかぶっていた。ところが先日東京の書店でその翻訳が出ていることを発見した。『ディナモ〜ナチスに消されたフットボーラー〜』(千葉茂樹訳、晶文社)と題された本を読み、ようやく念願の「真実」に触れることができた。
著者ドゥーガンは、ウクライナという国の歴史から説き起こし、そのサッカーの歴史、そしてナチスによるソ連侵攻、占領下の生活など背景をていねいに語り、占領下のパン工場につくられたチームがどう戦い、どんな運命をたどったか、詳細に調べた。そして「伝説」には、真実とともに、ナチの後にこの国を治めたソ連の国家的な意図で曲げられたまま言い伝えられた部分もあることを発見した。
その「真実」は、ぜひこの本を買って読んでほしい。ここでは、この本のなかに語られている「小さな真実」について触れたい。
ドイツ侵攻とともに四散した強豪クラブ、ディナモ・キエフの選手たちがパン工場に集められてつくられたチーム「FCスタート」は42年6月7日に最初の試合を行い、連戦連勝の強さを見せた。7月17日、彼らの前に初めてドイツ軍のチームが現れた。PGSというチームだった。24時間シフトの工場勤務で、しかも栄養不足という悪条件をものともせず、FCスタートはこの試合も6−0で勝った。
この後、ナチスはFCスタートを屈服させて占領政策に力を与えようと、8月の試合で負けるよう強要し、その試合で勝ったことでFCスタートはわずか2カ月間の活動にピリオドを打たれるのだが、7月の試合では、まだそうした兆候はなかった。
このチームから生き残ったFWのゴンチャレンコが40年後にラジオのインタビューに答えて語ったところによれば、「1試合を除いては、ドイツチームも(中略)スポーツマンシップにのっとったフェアなふるまいをした」(日本語訳より)という。「どちらの選手たちも政治的な背景は脇において、ただサッカーの試合そのものに意識を集中させた」(同)。
PGSとの試合後、両チームで撮影した写真が本の表紙となり、私が入手した原著のペーパーバック版では口絵にも掲載されている。
写真だけ見ると、まるで10年来、毎年定期戦をしているクラブ同士の写真のようだ。大敗したドイツ軍チーム(白ユニホーム)の選手たちも、笑顔さえ浮かべている。
「20世紀最大の戦争のさなかの写真であるにもかかわらず、あたかものどかな日曜の公園でのひとコマであるかのようだ」(日本語訳より)と、著者ドゥーガンは書いている。
政治や戦争は容赦なくスポーツを追い詰める、ときにはそれを利用する。しかしスポーツのもつ「力」の一端を、この1枚の写真ほど雄弁に物語るものはないように思う。
(2004年10月13日)