
「私たちは、いつまでもサッカーの探求者でなければならない」
1月5日から7日まで大阪で開催された「フットボール・カンファレンス」(日本サッカー協会主催)で、ゲスト講師のひとりとなったホルガー・オジェックが、彼が中心になって行った昨年のワールドカップ技術研究に関する報告の最後に語った言葉だ。
「カンファレンス」は日本協会の公認指導者を対象とした会議。「私たち」とは、FIFAの技術委員長である自らと、参加者である日本全国のいろいろなレベルのコーチたちの両方を示す言葉だった。
日本語で「指導者」というと上に立って下の者たちに何かを教えるというイメージがある。たしかに通常、コーチたちは選手より豊富な競技経験をもち、その知識や経験を選手たちに伝えていくという役割がある。
しかしそのコーチが自ら成長していく姿勢をもたなければ、指導はマンネリになり、選手たちの刺激はどんどん減っていってしまう。
「学ぶことをやめたら、教えることをやめなければならない」
2001年の「カンファレンス」で、当時フランス代表監督を務めていたロジェ・ルメールが語った言葉だ。日本代表のイビチャ・オシムも、毎日のようにヨーロッパのトップクラスの試合を見て、いま、世界で何が起ころうとしているか、探る努力を続けている。コーチたちが常に学ぼうという姿勢をもち、コーチ自身が成長していくことが、選手と、チームと、そしてサッカーの成長につながる。
しかしコーチたちが学ぶべきものは、世界のトップクラスだけにあるのではない。よく見ていれば、自分自身が指導している選手たちのプレーや行動から学ぶべきものは非常に多い。それどころか、サッカーを始めたばかりの少年少女たちから学ぶものさえ少なくない。
20世紀の最後の四半世紀の世界のサッカーの潮流をつくり、多くのチームの目標となったのは、74年ワールドカップでオランダ代表が示した「トータル・フットボール」だった。アムステルダムのアヤックス・クラブとオランダ代表を率いたリヌス・ミケルスがその革新的な戦術を思いついたのは、まさに自分が鍛えた若い選手たちのプレーを見ていたときだった。
オジェックは英語で話した。「student of the Game」と彼は表現した。平坦に訳せば、「サッカーの生徒」「サッカーを学ぶ者」ということになる。しかし私には、「誰かから学ぶのではなく、サッカーそのものから学ぶのだよ」という意味に聞こえた。だから冒頭のように訳してみた。
どんなレベルの試合であっても、目の前で行われているプレーをしっかりと観察すれば、必ず学ぶものがある。「カンファレンス」やワールドカップだけではない。学ぶ心さえあれば、学ぶべきものはどこにでもある。
(2007年1月17日)
「リーグ戦化が必要なのはわかる。しかしとてもではないけれど運営しきれない」
日本サッカー協会が数年来続けているユース年代の「リーグ戦化」は、大幅に進んできたものの、まだまだ難問も多いようだ。
かつて、ユース年代の公式戦は、年に数回のノックアウト方式の大会しかなかった。負ければそこで大会が終了する。強いチームは全国大会まで勝ち進んで年に何十試合もできるが、弱いと悲惨だ。1年間で公式戦がわずか3つというところまであった。
たとえば10チームによるリーグ戦を考えてみよう。ホームアンドアウェー方式で考えれば、どんなチームにも18試合が保証される。試合によっては思い切って1年生にチャンスを与えることもできるし、ケガをしている選手に無理をさせる必要もない。何よりも、負けてもそこで終わりになるわけではないから、思い切った戦術や戦い方にチャレンジできる。
選手は試合と練習を交互に繰り返して成長していく。試合で出た課題を克服するためのトレーニングをし、違ったタイプの相手に合わせた戦い方を練習して試合に臨む...。そうしたサイクルを繰り返して伸びていくものなのだ。
その効用は誰もが知っている。しかし以前はそれができなかった。リーグ戦化するにはいくつもの課題があるが、現在、多くの地域で問題になっているのが、大会運営能力の不足だ。
ノックアウト方式の大会では、協会役員がすべてを運営し、チームは試合に行くだけだ。最初のほうは何会場も使うから大変だが、大会が進めば運営はあっという間に楽になる。しかしリーグ戦では、最初から最後まで運営の手間は減らない。10チームの大会なら、ノックアウト方式では9試合しかないのに、ホームアンドアウェーのリーグ戦では90試合にもなるからだ。
こうした問題を解消するには、試合をそれぞれのホームチームが責任をもって運営する以外にない。ところが、日本の多くのユース年代のチームには、監督あるいはコーチと選手、すなわち「チーム」しかない。これではホームゲームの運営は難しい。
たとえユース年代、また学校の部活動であっても、サッカーをする組織を「チーム」から「クラブ」へと成長させる必要がある。「クラブ」とは、体幹である「チーム部門」だけでなく、手足に当たる「クラブ運営部門」と「試合運営部門」を備えたものだ。サッカーは選手と指導者だけではない。運営する人や審判がいて初めて成り立つものだ。そのすべてがそろって、サッカーは「文化」となる。
協会がすべてめんどうを見てくれる大会に出かけていくだけでは、サッカーの一部分にすぎない。「クラブ」が組織を整え、独自にホームゲームを運営できるようにすることは、リーグ戦化の促進だけでなく、サッカー文化を広めることにもつながる。
(2007年1月10日)
「おろしてもいいから、すぐに上げろ」
隣からそんな声が聞こえてきた。高校1年になったばかりのこと。サッカー部の練習で腹筋のトレーニングをしていたときだ。
体力がなく、練習についていくのがやっとだった。最後の「筋トレ」は地獄のように感じられた。仰向けに寝ころがり、伸ばした両足を低く上げて何十秒か保つ。繰り返しているうちに苦しくなり、私は思わずうめき声を上げた。それを聞いた2年生のSさんがかけてくれた言葉だった。
その言葉を聞いたとたん、気が楽になった。何百キロもの重さに感じていた足が、急に軽くなった気がした。
それまで、私は苦しさに負けてはいけないと必死だった。Sさんの言葉は、そのときの私にはこう聞こえた。
「負けてもいいんだよ。でも負け続けてはだめだ」
2006年は日本のサッカーにとって苦汁をなめた年だった。国民的と言っていいほどの期待を集め、注目を浴びたワールドカップで、1分け2敗、グループ最下位。「日本のサッカーが世界に追いつく日など永遠にこない」などと言う人もいた。
「日本代表という車を、全員で押さなければならない」
ワールドカップ後に日本代表監督になったイビチャ・オシムは、就任の記者会見でこう語った。
日本代表チームは過去十数年間、それこそ右肩上がりで成長してきた。アジアを制し、ワールドカップ初出場を果たし、2回目の出場となった2002年大会では初勝利を挙げただけでなくベスト16進出という快挙を成し遂げた。
しかし世界中が激しく競い合っているこの競技で、永遠に成功し続けることなどできない。ことしのワールドカップでは期待した成績を残せなかったこと、負けたことを、力が足りなかったためだと素直に受け入れ、次に勝てるチームをつくるために立ち上がらなければならない。オシムの言葉は、そのために、立場の違いを超えて力を合わせようという呼びかけだった。
まだ20代の「ベテラン」たちを外し、思い切って若手を起用し続けてきたのは、ワールドカップに出場した選手の多くが精神的な張りを失っていると感じたからではないだろうか。経験の乏しい選手たちを育てると同時に、ベテランたちにリフレッシュする時間を与えようという考えだったに違いない。
冷静な分析もせずに「勝てる」と思い込むこと(それがワールドカップ前の日本の雰囲気だった)も、逆に努力もせずに「勝てない」と悲観してしまうことも、同じようにばかげている。人間にできることは、勝つために何をすべきかを必死に考え、妥協せずに実行することだけだ。
ひとつの年が終わろうとしている。勝って喜びを分かち合ったチームがあれば、それと同じ数だけ負けて悔しさをかみしめたチームがあるはずだ。「優勝」ということを考えれば、多くのチームのうち歓喜に包まれるのはわずかひとつ。残りはすべてその喜びを見守るだけの存在となる。
負けた者がしなければならないことははっきりしている。負けを認め、気持ちを切り替えて、新たな目標に向かって努力を始めることだ。
天皇杯の準々決勝では、ワールドカップ以後、負傷だけでなく精神的にも張りを失っていたような小野伸二(浦和)の躍動するようなプレーを見た。足の痛みはあっても、いまの彼には、「思い切りプレーしたい」という飢餓感にも似た精神の高揚がある。
勝負なのだから勝つときだけでなく負けるときもある。負けること自体は、けっして「悪」ではない。しかし負け続けてはいけない。負け犬になってはいけない。顔を上げて、戦いを続けなければならない。
(2006年12月27日)
FIFAクラブワールドカップ(CWC)を取材して帰ってくるとアジア大会の女子サッカーが始まるという1週間だった。
カタールのドーハで行われていたアジア大会で、日本女子代表(なでしこジャパン)は銀メダルを獲得した。1次リーグでは強豪の中国を下し、準決勝では韓国を3−1で撃破、決勝戦は北朝鮮と120分間の激闘を演じ、0−0の末、PK戦で敗れた。
7月にオーストラリアで行われたAFC女子選手権で4位に終わり、来年の女子ワールドカップに出場するためにはメキシコとのプレーオフ(3月)を戦わなければならなくなったなでしこジャパン。アジア大会での戦いを通じて、この困難な戦いに立ち向かう自信ができたはずだ。
CWCでは、メキシコのクラブ・アメリカの戦いに期待していた。ヨーロッパや南米のクラブに対抗できるのは、成熟したプロサッカーの歴史をもつメキシコのクラブしかないと考えていたからだ。
失望だった。韓国の全北現代には競り勝ったが、スーパースターを並べたバルセロナ(スペイン)には0−4の完敗。スコアは問題ではない。戦い方だ。相手を恐れ、ただ自陣に引き下がっているだけで、なんとか勝とうという姿勢が見られなかったのだ。
サッカーは実力差が素直に勝敗に出にくい競技だ。どんなに派手にパスを回し、シュートを放っても、ゴールのなかにボールを入れなければ勝てない。ゴール前には手が使えるGKもいる。彼が奇跡的なセーブを繰り返すこともある。好シュートがバーやポストに当たって出てしまうこともある。不確実な要素が多いのが、サッカーという競技の特徴であり魅力でもある。
CWCの決勝戦でバルセロナを下したインテルナシオナル(ブラジル)の戦いこそ、サッカーのひとつの「真理」だった。個人技で圧倒的優位に立つ相手を恐れることなく、インテルの選手たちはチーム一丸となってボールを奪い、攻撃に出た。ボールを支配され、シュートを打たれたが、最後までバルセロナにゴールを割らせなかった。
そのインテルが準決勝でエジプトのアハリに苦戦した事実も興味深い。この試合では、「挑戦」したのはアハリだった。苦戦したインテルがバルセロナを倒すと予想した人は多くはなかっただろう。
現代のサッカーはあらゆる「情報」に包まれている。獲得したタイトルの数、どんな相手と戦い、どんな成績を残しているか、戦い方の特徴、個々の選手の能力と傾向、監督の考え方、さらには選手の年俸...。情報が有益な材料になることもある。しかしその一方で、実際にピッチ上で対決する前に選手たちに余計な恐れや油断をもたらす。
「相手をリスペクトする」
日本代表のオシム監督は、どんな試合前にもこう話す。それは相手の力を正確に把握すると同時に、相手のモチベーションの高さを過小評価せず、さらに、サッカーがもつ「不確実性」を忘れないということを意味している。
そうした観点からCWCを振り返ると、両チームが互いにリスペクトして競い合った好ゲームはほとんどなかった。テレビに映し出されたなでしこジャパンの試合ぶりが魅力的に映ったのは、そのために違いない。
相手が国際舞台初登場のヨルダンでも、また現時点では世界のトップクラスに近い力をもつ北朝鮮でも、選手たちの態度はまったく同じだった。弱いチームをあなどらず、強いチームを恐れず、チーム全員で献身的に攻守を繰り返した。試合が魅力的だったのは、相手チームもみな同じ態度だったからだろう。
女子選手たちの精神的な強さ、試合に取り組む態度に、学ぶべき点は多い。おそらく、CWCに出場した世界のトップクラブの選手たちも...。
(2006年12月20日)
あれはもう、13年も前のことになるのか...。
カタールのドーハで、アジア大会が始まる。サッカーには、男子がU−21日本代表、女子はA代表の「なでしこジャパン」が出場する。
アジア大会のサッカーは、1951年の第1回ニューデリー(インド)大会から開催され、その成功を受けて54年の第2回マニラ(フィリピン)大会時にアジアサッカー連盟(AFC)が結成されたという歴史をもつ。長い間、AFCが主催するアジアカップと並ぶアジアの主要大会だった。しかし2002年の釜山(韓国)大会から、男子はオリンピックと同じ年齢制限付きの大会となった。原則として23歳以下で、3人まで「オーバーエージ」を使うことができる。
1990年の北京(中国)大会から正式種目となった女子には年齢制限はない。各国ともフル代表を出して「アジアの女王」の座を目指す。ただし、ことしからAFCに加入したオーストラリアはアジア大会を主催するアジアオリンピック委員会に加盟していないため、残念ながら、優勝しても「真のアジア女王」ということにはならない。
しかし開幕が近づくにつれて増えてきた報道を見ながら、私は、この大会とはまったく別の、強烈な思い出にとらわれて仕方がない。おそらく、ある年代以上のサッカーファンであれば、多かれ少なかれ、「ドーハ」と聞けば遠い痛みを感じるのではないか。13年という年月、そしてその間に起こったことは、十分にその傷を癒したはずなのだが...。そう、「ドーハの悲劇」の名で記憶される93年のワールドカップ・アジア最終予選である。
94年ワールドカップ・アメリカ大会出場権をめぐって、アジアの6カ国がドーハに集結したのは、93年10月のことだった。参加は、初出場を目指す日本のほか、サウジアラビア、イラン、北朝鮮、韓国、そしてイラク。1回戦総当たりのリーグ戦形式だった。アジアに与えられた出場枠はわずか2。「アメリカ」に行けるのは、上位2チームだけだ。
私にとっては、初めてのアラビア半島だった。これまで知らなかったイスラム圏での取材は、見ること聞くことすべて目新しいことだったが、残念なことに、カタールという国どころか、ドーハという町さえ十分に知ることはできなかった。猛烈に忙しい時期に2週間以上も日本を空けるのは周囲に大きな負担と迷惑をかけることだったし、私自身、試合がある時間以外はホテルにこもって大会とは無関係の原稿を書いていなければならなかった。
ハンス・オフト監督が率いる日本代表は、開幕当初の重圧から解放されると北朝鮮と韓国に連勝し、最終戦を前に首位に立った。しかし「勝てばワールドカップ出場」という状況で迎えたイラク戦で足が止まった。なんとか2−1とリードして終盤を迎えたものの、ロスタイムにCKから同点とされて2−2で引き分けた。「アメリカ」への切符を手にしたのは、サウジアラビアと韓国だった。
試合直後の混乱、大きな失望、喪失感...。仕事を終え、疲れ果てた日本のメディアを乗せたバスは、スタジアムからそう遠くないホテルへの道を間違え、この町で最も美しい地区である海岸まで出てしまった。
その海岸に沿った道路を、サウジアラビアのサポーターと思しき若者たちを乗せたたくさんの車が、クラクションを鳴らしながら走り回っていた。試合中にバックスタンドの背後に昇り始め、そのときには赤く大きかった満月は、もう海の上高く上り、青白く、そして小さくなっていた。
そのドーハの月が、アラビア半島では初めて迎えるアジア大会で、この13年の間に大きく成長した日本のサッカーチームの戦いを見守ることになる。
(2006年11月29日)