
何事につけ、長年のパートナーと道を分かつのは寂しいことだ。15年間にわたって公式スポンサーとしてJリーグを支え続けてきたサントリーが、今年度、その立場を去ることになったのだ。
サントリーは、1993年にJリーグが「2ステージ制」で正式なスタートを切ったときの第1ステージの冠スポンサーだった。この形は3年間で終了したが、その後もオフィシャルスポンサーとしてJリーグを支えてきた。
ウイスキー製造では日本の最大手であり、1980年代からビール製造でも急成長、さらに清涼飲料の製造販売にも力を入れていたサントリー。誕生したばかりで先の見えないJリーグへの支援をなぜ決めたのかは知らない。しかしなぜそれが15年間も続いたかは明白だ。Jリーグの「百年構想」への共感だ。
日本のサッカーを強くしてプロとして成立させるだけではなく、日本にスポーツの文化を根付かせたいというJリーグの理念が、サントリーの企業理念に通じるものがあったのだろう。さまざまな活動をするなかで、2003年からは「サントリー×Jリーグスポーツクリニック」をスタートさせた。
日本のいろいろな地域を回って少年少女を対象にスポーツの指導をするクリニック。サッカーの指導だけではなく、サントリー自身が日本で有数の社会人チームをもつラグビーとバレーボールの指導も合体したのだ。
熱心にスポーツに取り組んでいる子どもたちもいるなかで、現代の日本には、日常まったく体を動かさない子どもたちもたくさんいる。「外遊び」が消え、家でゲームをしてばかりいるからだ。そうした子どもたちにスポーツの楽しさを教えることは、これからの日本の社会を考えると非常に重要なことだ。
足でボールを扱うサッカーは難しくても、手で楕円形のボールをもって体当たりするラグビー、ジャンプして手でボールをたたきつけるバレーボールからスポーツの楽しさを知る子どももいるかもしれない。ラグビーの「サントリー・サンゴリアス」の清宮克之監督、バレーボールの「サントリー・サンバーズ」の河野克巳監督が自ら指導にあたり、Jリーグ・クラブのコーチたちと1日楽しくスポーツ指導をした。昨年までに全国で26回開催したクリニックには、延べ6000人以上の子どもたちが参加した。
昨年、Jリーグは総計860万近い観客を集め、J1の1試合平均入場者は世界で第5位の1万9081人となった。今季はJ2にロアッソ熊本とFC岐阜が加わり、総クラブ数は33になった。課題は尽きないが、Jリーグは日本のスポーツ文化のなかに完全に定着したと言えるだろう。
しかしそのなかで支援し続けてくれた人びとや企業の存在を忘れることはできない。15年間リーグ運営を支え、ともに歩んでくれたサントリーに、Jリーグ・ファンのひとりとして「ありがとう」と言いたいと思う。
(2008年1月16日)
新年が明けたばかりなのに、来年、そして再来年のことを考えている。
寒風のなかで高校や大学の試合は続いているが、日本サッカーのシーズンは元日の天皇杯決勝で終わった。鹿島と広島の間で争われた決勝には4万6357人もの観客が集まったが、天皇杯は年々印象の薄い大会になりつつあるように感じられた。
天皇杯で上位を占めるJリーグのクラブでは11月末までに翌年に向けての契約条件の提示が終了し、選手たちのモチベーションを保つことが難しい。12月上旬に終了したJリーグで選手たちは力を使い果たし、天皇杯は、まるで「ポストシーズン大会」のような様相を呈しているのだ。
3月に開幕し、12月に閉幕する「単年制」で行われている現行のJリーグを、夏に開幕し、翌年の春まで続く「越年制」にしたらどうかという話が、10年以上も前から提案されている。ヨーロッパの大半の国で採用されている形だ。その形に日本のシーズンを合わせ、同時に選手の契約期間も動かせば、ヨーロッパとの選手の交流に非常に都合がよい。
世界中で単年制のシーズンにするべきだと、国際サッカー連盟のブラッター会長が主張したこともあったが、ヨーロッパからはまったく相手にされなかった。国際交流をスムーズにするためにも、「越年制」へのシーズン変更はいずれ不可避になると思われる。
「越年制」にすれば、天皇杯も、現行のように元日決勝の日程でも「シーズン中」の大会になる。シーズンの終盤、たとえばゴールデンウイークあたりに決勝を行うという形も考えられる。年末に日程を詰め込むより、準々決勝あたりからホームアンドアウェーの2回戦制にすれば、人気回復も図れるのではないか。
ことし2月6日から6月22日まで行われるワールドカップのアジア3次予選を突破すれば、秋には4次予選がスタートし、来年の前半にはその大詰めを迎える。もしかすると、来年の秋には、アジア内の、そしてオセアニアとのプレーオフを合計4試合も戦うことになるかもしれない。そして2010年にはワールドカップ南アフリカ大会(6月11日開幕)が待っている。
このタイミングで、思い切ってシーズン制を変えたらどうだろうか。2009年のJリーグを、余裕をもった日程にし、2010年の春に閉幕する日程にするのだ。そうすれば、今回はワールドカップの予選や決勝大会に向けての日本代表の強化日程もしっかりと取ることができる。
日本代表だけでなく、クラブチームの国際舞台での活動も重要な要素になってきた日本のサッカー。2007年に世界で5位の1試合平均観客数を記録したJリーグは、さらなる観客数増加をめざし、さまざまな取り組みをしている。近い将来にはその地位にふさわしい資金力も実力もついてくるだろう。クラブが世界に伍して戦うためにも、「越年制」へのシーズン変更は意味のあることだと思う。
(2008年1月9日)
「う〜ん」
何度うなり声を上げただろうか。ことし、私が監督をしている女子チームは大きな危機に見舞われた。大けがや病気などの理由で、何人もの選手が相次いで欠けていったからだ。とくに深刻だったのはDFラインで、昨年のレギュラーすべてが離脱し、試合ごとにメンバーをやりくりしなければならなかった。
昨年のはじめ、関東リーグから東京リーグに降格が決まったのを機に、前年の耐えることが中心だった試合を主体的な攻撃ができるように変えようと取り組みを始めた。ようやく8月に練習の効果が出始め、以後は全勝でシーズンを終えた。ライバルと当たった開幕戦の敗戦を取り戻すことはできず、1年での関東リーグ復帰はならなかったが、私はことしのシーズンに大きな期待を抱いていた。
しかし1月末の練習試合でDFの大黒柱とも言うべき選手がひざのじん帯を切断するという大けがを負った。そして4月以後は、試合ごとに中心選手が離脱するという事態に見舞われた。ことし、ひざのじん帯の手術を受けた選手だけで5人にもなった。甲状腺の病気、目の病気、さらには妊娠出産と、選手の離脱は止まらなかった。
一時は、きちんとシーズンを終えることができるだろうかということさえ心配した。試合が成立する最少人数である7人をピッチに立たせることができない事態がくるのではないかと考えたのだ。
しかしともかく11人に満たない試合もなく、私たちは1シーズンを乗り切った。目標としていた成績や結果にはほど遠かったが、ことしほど選手たちを頼もしく思ったシーズンはなかった。誰も弱音を吐かなかった。苦手なポジションにも必死に取り組んだ。そして若い選手たちがぐんぐん力をつけた。
何よりうれしかったのは、プレーできない選手たちが休まずに練習に参加し、準備や片付けの仕事をしながら自らのリハビリメニューをこなしたことだった。いっしょにボールをけることはできなくても、彼女たちもチームの一員であることを示すと同時に、少人数で練習しなければならない選手たちに元気を与えたのだ。退院した日にまっすぐ練習場にきた選手もいた。
チーム全員が、それぞれの立場でできる限りのことをした。試合に出ている者は最後の最後まで力を絞り尽くし、出られない者は力の限りに声援を送った。
先週の土曜日、私たちは1年間お疲れ様のパーティーを開いた。選手の家族やOGも集まり、楽しい会となった。
その日はたまたま、何年間も一生懸命に練習しながらポジションをつかめず、ことしめぐってきた出場の機会に驚くべきプレーを見せてチームを勝利に導いた選手の誕生日だった。笑顔いっぱいの「ハッピーバースデー」の歌声のなかで、この大変な1年を乗り切ることができたのは、チームが明るさを失わず、それぞれがサッカー選手として、そして人間として努力を続け、成長し、心を合わせてがんばり抜いた結果だと思った。
(2007年12月26日)
ACミラン(イタリア)の優勝で幕を閉じたFIFAクラブワールドカップ(FCWC)2007は、ミランのブラジル人MFカカ(25歳)の才能を世界に再認識させる大会だった。
先にフランスフットボール誌の「バロンドール」を受賞、今週月曜日には国際サッカー連盟(FIFA)の年間最優秀選手にも選出された。ミランの中心選手として5月にUEFAチャンピオンズリーグ優勝の立て役者となり、年末のFCWCでも優勝とともにMVP。2007年はまさに「カカの年」だった。
「カカ」という名を知ったのは2002年ワールドカップのとき。横浜で行われた決勝戦、ブラジルがドイツを2−0とリードして迎えた後半ロスタイムにブラジルは3人目の選手交代をしようとした。タッチラインに立ったのが、そのとき背番号23、カカだった。しかし実際に交代が行われる前にイタリアのコリーナ主審が試合終了の笛を吹き、彼は決勝戦のピッチに立つことはできなかった。
1982年4月22日生まれ。20歳で最初のワールドカップに臨んだカカは、結局、1次リーグ、コスタリカ戦の後半、ブラジルが5−2とリードした後に18分間出場しただけだった。
本名リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ。ブラジルの連邦首都ブラジリア出身。FCWCの準決勝で対戦した浦和のFWワシントンは故郷の大先輩に当たる。カカというニックネームには特別な意味はなく、弟が「リカルド」を発音できずに呼び始めたものだったという。
FCWC決勝戦でカカを見ながら、「こんなスーパースターがかつていただろうか」と考えた。彼に先立つスーパースターといえばブラジル代表の先輩でもあるロナウジーニョ(バルセロナ所属)。ふたりを比較してみると、カカの「異才」が理解できる。
ロナウジーニョをはじめとしたこれまでのスーパースターは、ボールを受けてからのプレーで他を圧する力を見せる選手たちだった。ひとつのボールタッチで状況を変化させ、得点を演出し、チームに勝利をもたらすのだ。
しかしカカはボールがくる前に非常に幅広く動く。その動きで味方のためにスペースをつくり、攻撃とチーム全体を動かす。そしてこうした動きをしながら、彼は必要な場所に絶妙のタイミングで現れ、決定的な仕事をする。その瞬間に、彼の天才がある。
FCWC決勝戦の4点目のときの動きとワンタッチでのFWインザーギへのパス、そしてわずかにゴールを外れたものの後半38分にカフーのクロスに合わせてゴール前に飛び込んだときのスピード...。偉大なチームプレーヤーでもあるカカは、「新時代のスーパースター」と言える。
「今日のサッカーでは走れない選手は必要ない」と、イビチャ・オシムさんは口癖のように話した。カカの躍動的なプレーを見ながら、現代のサッカー選手に求められる資質をあらためて考えた。
(2007年12月19日)
19世紀なかばにサッカーが誕生したときには、「ヘディング」という技術はなかった。発明したのはイングランド中部、シェフィールドクラブの選手だったという。
ことし1年、いろいろなカテゴリーの日本代表あるいはクラブチームの国際試合を見てきた。そのすべてに共通する日本選手の弱点のひとつが、ミッドフィルダーたちのヘディング能力の低さだった。
背の高さやジャンプ力といったフィジカルな要素の問題ではない。日本のミッドフィルダーの多くは、足では非常に巧妙にボールを扱い、自信をもったプレーを見せるのに、ボールが空中に浮くと一気に無力になってしまうのだ。
ロングボールの競り合いに限らず、小さくボールが浮いたときも、近くに相手選手がいると日本の選手が頭で処理したボールの半数以上は、力なく相手チームの選手に渡る。足でボールを扱うときにはいくらでもパスをつなぐことができる日本選手が、ヘディングになると、とにかく前にはね返すだけで、「ボールの行方はボールに聞いてくれ」というようなプレーになってしまうのだ。
相手チームを見ると、ヘディングも足でのプレーと同じように正確で、しかもきちんんとした判断が伴ったものであることがわかる。不十分な態勢でヘディングをしようとしている相手選手に日本選手が詰め寄っても、相手選手の頭から放たれたボールは正確に味方に渡り、そこから攻撃が続けられていく。
オーストラリアやサウジアラビアと対戦した男子のアジアカップ、イングランド、アルゼンチン、ドイツと対戦した女子ワールドカップ、そして韓国やイランのチームと対戦した浦和のアジアチャンピオンズリーグ...。相手チームと比較した日本のミッドフィルダーたちのヘディング能力の低さは、いずれにも共通するものだった。
ヘディングの力がクローズアップされるのは、得点に直結するゴール前の攻防だ。日本の選手たちも、そのトレーニングは十分積んでいる。クロスからのヘディングシュートやクリアだ。CKやFKの競り合いもよく訓練され、長身選手の多いチームと対戦してもなんとか対抗できるようになってきた。
ところがミッドフィルダーたちは、そうしたボールの出し手であり、またクリアされたボールを拾う役割を負わされていることが多い。そして浮いたボールがきてもできるだけ胸などを使ってコントロールしようとする。練習でも試合でもヘディングをする機会が極端に少なく、結果としてヘディングの能力を伸ばすことができないのだ。
国内の試合はそれでも十分間に合う。しかし国際舞台に立つと、とたんに大きな弱点であることを露呈し、本来ならしなくてもいい苦労をすることになる。
ミッドフィルダーたちのヘディング能力を鍛えなければならない。そうでないと、せっかくの足でのプレーの優秀さが勝利につながらない。
(2007年12月12日)