
東アジア選手権が開催されている中国・重慶のスタジアムで、興味深い光景を見た。「光る広告看板」である。
ピッチの周囲に配置された広告看板のうちいちばん目立つ位置にあるハーフライン付近の2枚が「電光広告」方式だった。大会が開幕した2月17日の重慶は濃霧。大気汚染と相まって一日中黄色がかった霧のなかだった。当然、選手たちの動きも見にくい。そのなかで、広告看板だけが光り輝いていたのである。
1年半ほど前のこのコラムで、「電光広告看板の禁止を」という内容の記事を書いた。ヨーロッパで流行し始めた動画方式の広告看板が、快適な観戦の妨げになるという主張だった。重慶の電光広告はその「簡易版」ともいうもので、動画を映せるわけではなく、ロゴが光るだけだった。何分かごとのローテーションで大会スポンサー名が映されるというものだった。
それでも薄暗いグラウンドのなかでその看板は衝撃的なほど自己の存在を主張していた。そしてその前でプレーが行われると、選手が光を背景にシルエットになった。
私は、電光方式の広告看板はサッカーの試合にはふさわしくないと考えている。ピッチの周囲の広告看板自体を否定するわけではないが、それは平面に描かれたもの(その平面が動くものも含め)に限定されるべきだと思う。
現代のプロサッカーを支えているのはテレビ放映権や広告看板の販売などからはいってくる資金であることは間違いない。しかしこうした商業活動ができるのは、スタジアムが観客で埋まり、スペクタクルな雰囲気で試合が行われているという事実がベースにあることを忘れてはならない。制裁などで「無観客」を強いられた試合が、恐ろしく間の抜けたものになることを、私たちは何回も見ている。
何よりも優先されるべきは観客の快適性のはずだ。電光方式の広告看板は観客の試合への集中を妨げる。映画館で上映中にスクリーンの上部に絶えず広告が流されていたら、どう感じるだろうか。電光方式の広告看板とは、すなわちそういうものなのだ。
1年半前の時点で、ヨーロッパでもこの方式はまだ主流ではなかった。国内では、浦和レッズのホームで、クラブが管轄するゴール裏の、しかも通常の広告看板の背後に置かれたものだけだった。監督や選手たちが「プレーしづらくなるから」と、ゴールラインのすぐ背後に設置することを反対したためだった。
しかしヨーロッパでは完全に電光看板が主流になった。浦和では昨年からゴール裏の看板が電光方式になった。そしてJリーグでも、今季から毎節1試合、バックスタンド側のリーグ公式スポンサーの広告看板が電光式となる。
電光式にすると、広告の訴求力が高まり、広告価値が上がって収入が大幅にアップするのだという。収益増大は大事なことだ。しかし快適な観戦環境とのバランスを忘れたら、元も子もなくなる。
重慶のスタジアムの「光る看板、シルエットの選手たち」は、現代のサッカーに対するサッカーの神様からの警鐘のように感じられた。

(2008年2月20日)
「エイプリルフールかい?」思わずそう聞いてしまったのは、ミドルスブラのサウスゲート監督だった。
2月7日、イングランドのプレミアリーグに所属する全20クラブは、リーグの公式戦を海外で行う計画を決議した。誰が考えたのか、そのシステムはなかなか巧妙だ。
現在、20チームのホームアンドアウェー、1チームあたり38試合で優勝を争っているプレミアリーグ。それを各チーム1試合増やす。それは「1節分、計10試合」にあたるが、これを海外で行う。2試合ずつ組み、ひとつの週末に世界の5都市で開催する。この「39試合目」もリーグの成績に含める。そしてその5都市は、入札によって、すなわち、より高い「開催権料」を約束したところに売るというのである。
プレミアリーグは、現在、世界で最も高い関心を払われ、最も多くの収益を上げているリーグだ。観客数ではドイツのブンデスリーガに及ばないが、放映権では人気ナンバーワンで、世界中で放映されているからだ。
「プレミアリーグの過剰な放映拡大は、世界各国で地元のクラブやリーグの成長に悪影響を与えている」
昨年、そう警鐘を発したのは、国際サッカー連盟(FIFA)のブラッター会長だった。タイ、マレーシア、中国などで、地元のプロリーグの試合よりも、プレミアリーグの放送のほうがはるかに高い関心をもたれている。
FIFAは3月の理事会でこの計画について議論すると発表している。今回、いち早く反応したのはFIFA理事のひとりでもある日本サッカー協会の小倉純二副会長だ。
「原則的に日本チームがからまらない外国チーム同士の試合は許可していない。Jリーグとクラブを守るためにも、日本での開催には反対する」
「外」からの反対を待つまでもなく、国内のメディアも批判的だ。「サッカーは魂を売った」(『エキスプレス』紙)などと厳しい。プレミアリーグ・クラブの監督たちもサウスゲートのような意見が一般的だ。ヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)のプラティニ会長は、「何かのジョークだろう? だいたいイングランド・サッカー協会自体が許さないだろう」と語っている。
プレミアリーグは、この計画を10〜11シーズンにスタートし、第1回は11年の1月になるとしているが、周囲の状況から見て、実現は非常に困難のように思える。
しかし今回の騒動は、ヨーロッパのプロクラブの「世界戦略」について考え直すいい機会ではないか。プレミアリーグのような極端な計画ではなくても、イングランド、スペイン、ドイツなどのクラブはその市場を世界に広げ、地元のサッカーを圧迫し始めている。日本でも同じだ。
ところが現状は、肝心のJリーグやそのクラブが「プレシーズンマッチ」と称し、嬉々として彼らと対戦し、自らの「マーケット」を脅かす行為に荷担してしまっている。Jリーグやそのクラブの健全な発展は、日本のサッカーの基礎だ。それに対する脅威が、いまや「外」からもきていることを意識する必要がある。
(2008年2月13日)
サッカーのルールの基本的な考え方のひとつに「公平性」がある。対戦する両チームが公平にプレーできることを保証するのがルールなのだ。その観点で、「ロングスロー」について考えてみた。
1993年に日本で開催された「FIFA U−17ワールドカップ」で「キックイン」のテストが行われた。タッチラインからボールが出たとき、サッカーでは手でボールを投げる「スローイン」で試合を再開する。それを足で行うというもの。ゲーム展開の迅速化を狙ったルール改正のためのテストだった。
多くの出場チームは、ボールを拾った選手がタッチライン上にボールを置いて味方にパスを送り、すばやく試合を展開した。しかし日本を含むいくつかのチームは、相手陣でキックインがあると専門のキッカーが出て行ってゴール前にロングパスを送り、長身選手にヘディングで狙わせるという戦法を取った。そのたびに試合が止まり、スピード感を失わせた。結局、ルール改正は見送りとなった。
両手を均等に使ってボールを頭の上を通して投げるスローインは、意外に難しい技術だ。思うように力がはいらないのだ。しかし相手陣深くに攻め込んでスローインを得たとき、もし30メートルを投げる選手がいれば大きな力になる。「キックイン」と同様、コーナーキックに等しいチャンスになるからだ。
多くのチームには「ロングスローのスペシャリスト」がいる。しかしよく観察するとその何割かは「片手投げ」だ。明らかに違反である。
両手でボールを持つのは間違いない。しかし右利きなら右手をボールの真後ろに当て、左手は少し添えるだけにして投げると、正しい投げ方と比較して驚くほど遠くに投げることができる。Jリーグでも、この投げ方で「ロングスローのスペシャリスト」を任じている選手が何人もいる。
ところが、こうした投げ方が違反と判定されることは滅多にない。主審はボールが投げられた先の競り合いに、そして副審は投げた選手の足がラインを越えていないか、両足がグラウンドについているかどうかに気を取られ、両手が均等に使われていないことに気がつかないからだ。
写真は1990年ワールドカップのときに撮ったもの。投げているのはベルギーの名DFゲレツ選手だ。長身選手をそろえたベルギーにとって、ゲレツのロングスローは大きな武器のひとつだった。しかし彼が「片手投げ」だったのは写真でも明らかだ。
多くの選手がルールどおりの投げ方をしているなかで、「片手投げ」がまかり通り、そこからいくつもチャンスが生まれるのは不公平と言わなければならない。ルールの精神にもとる現象である。
ロングスローが行われたとき、レフェリーたちはボールを投げた後の両手の形に気をつけて見てほしい。両手がそろっていなければ、それは「片手投げ」をしたということになる。そうしたスローインをなくし、公平なゲームにしなければならない。
(2008年2月6日)
ワールドカップの80年近い歴史のなかで、優勝はできなかったけれど長く世界の人びとの記憶に残っているチームがいくつかある。そのひとつが、82年スペイン大会のブラジル代表だ。
ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾという「黄金の4人」をMFに置いたブラジルは、夢のような変化に富んだ攻撃を次から次へと生み出し、世界中を夢中にさせた。準決勝にも進出できず、優勝トロフィーはイタリアの手に渡ったが、半世紀以上を経たいまも、世界の人びとの記憶にはブラジルの黄金のユニホームが躍っている。
しかしこの「黄金の4人」は、入念に構想され、準備されてつくられたものではなかった。むしろ「偶然の産物」と言うべきものだった。初戦で出場停止だったセレーゾに代わって出場したファルカンの出来があまりに良かったため、テレ・サンタナ監督は悩んだあげく、FWを1人減らして2人とも出場させることにしたのだ。
「MFに4人も並べるなんて、試したこともなかった。最後は直感だった」と、後にサンタナ監督は語っている。直感に頼った決断が、世界の人びとの記憶に残る「黄金の4人」を生んだのだ。
イビチャ・オシム前監督に代わって急きょ日本代表を率いることになった岡田武史監督は、ものごとを誰よりも論理的に考える人だ。いい加減なところでは妥協せず、しっかりと考え抜く。しかしそれでも「最後の決断は思い切り」だと言う。その思い切りの精度を上げるために日ごろずっと考えているのだと言う。
日本がワールドカップ初出場を決めた97年11月のイラン戦、岡田監督は2−2で迎えた延長戦の直前に大きな決断をした。FW岡野雅行の投入だった。
最終的に交代を告げる前に、岡田監督は延長戦への準備のために戦場状態になっている選手やスタッフたちから離れ、ゆっくりと、円を描くように歩いた。歩きながら、この時点でこの試合最後となる3枚目のカードを切ってしまうことのリスクと、相手の疲労、PK戦になったときのことなど、あらゆる状況を考えた。
そして最後の思いが、「いいや、岡野行け!」だった。思い切りだった。直感だった。
その岡野は、そのスピードを遺憾なく発揮して何回もチャンスをつくり、何回も失敗したが、延長戦終了間際についに決勝ゴールを決める。
「サッカーには正解がない」と、岡田監督はいつも話す。ひとつの決断をしたら他の道を試すことはできない。
「岡野を出していなかったらもっと早く決勝点がはいっていたかもしれない」
ワールドカップ初出場で日本中が沸き立つなかで、岡田監督はそんな話までした。
「正解がない」からこそ、自らの決断が大きな別れ目になることを意識しつつ、その決断を信じるしかない。そんな緊張を強いられるワールドカップ予選が、また始まる。
(2008年1月30日)
痛ましい事故が起きたのは年末の連休最終日(12月24日)のことだった。茨城県まで練習試合に行った帰りのマイクロバスから埼玉県の少年サッカーチームの小学5年生の少年が転落し、後ろから走ってきたトラックにはねられて死亡したというのだ。
事故が起こったとき、男の子はドアステップの近くでサッカーボールに腰掛け、不安定な状態だったという。マイクロバスを運転していた少年チームのコーチは逮捕され、1月11日にさいたま地裁に「自動車運転過失致死罪」で起訴された。ドアをロックしていなかったこと、車内の動きに注意を怠ったことなどが理由だった。
健康な少年が突然事故で亡くなるというようなことが起こっていいはずがない。ご家族の悲しみ、喪失感は察するに余りある。しかし同時に、この事故は、サッカーに限らず、日本中で少年や少女のスポーツ指導に当たっている人びとに小さくないショックを与えたのではないだろうか。小学生から高校生年代まで、マイクロバスで遠征に出かけているチームは数限りなくあり、そのドライバーの大半がボランティアだからだ。
かつて国見高校(長崎県)を率いて全国を制覇した小嶺忠敏監督は、自らハンドルを握って毎週のように九州や西日本の各地に遠征に出かけたという。選手を鍛え、強くするには、強い相手との試合が不可欠だからだ。
公共交通機関を使うと個々の負担が増える。それだけでなく、乗り換えなどで時間もかかる。学生時代に小学生の指導をしていたとき、ときどき引率があった。たった10数人の少年たちを連れて東京都内での試合に行くにも、混雑した新宿駅などでは乗り遅れがでないように気を配らなければならなかった。
マイクロバスがあれば、安上がりだし、こんな気遣いもいらない。道路もどんどん整備されているので、いまやチーム活動にマイクロバスが不可欠になっているチームも多いのではないだろうか。
今回の事故は、そうした「少年スポーツのあり方」の見直しを求めているようにも思える。マイクロバスを使うのなら、ドライバー以外の引率者同乗など明確な安全基準をつくる必要がある。さらに県外への遠征が小学生のスポーツにふさわしいものであるかも考え直さなければならない。
この事故について、もうひとつ考えたことがある。亡くなった少年に対し、日本サッカー協会から何らかのメッセージがほしいと感じたのだ。
試合中ではないが、サッカーのチームとしての活動中に起こった悲劇である。将来への夢にあふれた少年プレーヤーが命を落としたことに対し、日本サッカー協会は、「サッカーファミリー」として哀悼の意を表してもよかったのではないか。12月29日に行われた天皇杯の準決勝の試合前に黙祷を捧げるようなメッセージの示し方ができていたら、ご子息を亡くされたご両親の心をほんの少しでも慰められたのではないか。
(2008年1月23日)