サッカーの話をしよう

No.157 Jリーグ過密日程で五輪準備に不安

 日本サッカーが28年間待ち続けたオリンピックが目前となった。すでに先週、日本の代表は酷暑のアメリカに乗り込み、最後の調整を行っている。だが正直なところ、男子代表がベスト8に残る可能性は極めて低いと私は見ている。
 ブラジル、ナイジェリア、ハンガリーと続く強豪ぞろいの対戦相手のことではない。許された「オーバーエージ」の選手枠(3人)を使わなかったことでもない。一部で言われる西野朗監督の能力に対する疑問でもない。何よりも「準備」が悪すぎるのだ。

 3月のアジア最終予選が終わった後、選手たちはすぐに所属のJリーグクラブに戻った。そしてある選手は「主力」として戦い、またある選手は「ベンチ」の生活を送ってきた。
 5月18日にJリーグの前期が終了。だが短期間のチュニジア遠征(その主目的は強化より2002年ワールドカップ招致のPRだった)の後、選手たちはまたクラブに戻り、週2試合の過酷なナビスコ杯を戦わなければならなかった。

 オリンピックに向けた準備のために集合したのは、なんと開幕の3週間前、6月30日のこと。しかも7月4日のガーナ戦の後、3選手がJリーグのオールスターに出ることになっていた(実際には前園と城の負傷で、出場は川口ひとりだった)のだ。
 こんな状況で、オリンピックの激戦を勝ち抜くことが期待できるだろうか。主力選手はもう半年も休みなく戦い続けているのだ。まず休息させ、徐々に体づくりをして猛暑のフロリダで5日間に3試合の試合日程に備えたコンディションを整えていかなければならなかったはずではないか。

 オリンピックのトップレベルのチームに比べると、日本が劣っているのは何よりも筋力であり、90分間をパワフルに戦い抜く持久力である。アジア最終予選でも、中東にはパワーで負けていた。そしてリズミカルなプレーも後半の半ばで大きく運動量が落ち、相手にペースを奪われた。
 わずか2カ月間で筋力や体力そのものを大きくアップすることはできない。だが少しでも底上げができれば、チーム力としては大きく変わったはずだ。そして何よりも、肉体面だけでなく、精神面でも最高のコンディションで大会に臨むことが必要だったはずだ。

 28年前のメキシコ大会の前には、7月中旬から3カ月間もの最終準備期間をとり、そのうち1カ月間はヨーロッパ遠征で過ごした。得点王釜本邦茂の存在だけではなかった。輝く銅メダルは、「周到な準備」の賜物だった。
 日本だけの話ではない。ブラジルやアルゼンチンはワールドカップ前には2カ月間もの合宿を行う。ヨーロッパのチームも1カ月間以上の準備でコンディションを整える。

 今回、わずか3週間の準備期間は、明らかに「Jリーグのエゴ」から出てきたものだ。リーグ戦はともかく、なぜナビスコ杯からオリンピック代表選手を外せなかったのか。なぜオールスターに出さなければならなかったのか。それに対し何も言えない日本サッカー協会の責任も問われる。

 このチームは、コンディションさえ整えば、世界を驚かせるプレーを見せる可能性を秘めている。自分たちの力を世界に示せるようぜひがんばってほしい。
 だが、元々フィジカル面で劣るうえに、疲れ切った体を休ませる間もなく入った大会で、過剰な期待をすることはできないのだ。
 せめて、今回の「経験」が、次のワールドカップ予選とフランスでの決勝大会に向けての準備に生かされることを望みたい。

(1996年7月18日)

No.156 「母国」の幸福 スリーライオンズ

 はじまりはガスコインの見事なゴールだった。
 オランダに対する歴史的な4−1の勝利がそれに続き、さらにPK戦でスペインを破って盛り上がりは最高潮に達した。

 1996年年6月、イングランドはとても幸せな2週間を過ごした。地元にヨーロッパ選手権を迎え、イングランド代表チームが見事なサッカーで快進撃を続けたからだ。
 大会前には、ベナブルス監督が率いるイングランド代表の実力を疑問視する人が多かった。専門家とよばれる人びとは「優勝候補」にドイツ、オランダ、イタリアらをあげ、「イングランド」とでも言おうものなら、物笑いにされそうな雰囲気だった。
 イングランドのサッカーの母国としての誇りは地にまみれていた。66年ワールドカップで優勝して以来メジャーなタイトルはひとつもなく、前回の94年ワールドカップでは予選で敗れてアメリカの土さえ踏むこともできなかった。

 代表チームの実力だけではない。80年代のなかばから「フーリガン」と呼ばれるならず者の集団に踏みにじられ、存続の危機にさえ立たされていた。
 サッカークラブと協会はフーリガン撲滅の長い戦いを続け、最終的には「スタジアムの近代化」によって勝利を得た。フーリガンの温床となっていたサポーター用の「立ち見席」を全廃し、観客席を全部独立の椅子席にモデルチェンジしたのだ。
 今回のヨーロッパ選手権が実現した背後には、フーリガンとの戦いに勝ったイングランドに対するヨーロッパ・サッカー界の信頼があった。そうして、「サッカーが母国に戻ってきた」(大会のテーマコピー)のだった。

 その開幕戦で、スイスを相手にまずい試合で引き分け、第2戦のスコットランド戦も前半は0−0。だが後半、イングランドは突然息を吹き返した。シアラーの先制点の後、ガスコインが後方から送られたボールをワンタッチで浮かせてDFをかわし、そのままボレーでけり込むファンタスティックなゴールを決めたのだ。
 このゴールで、「母国」の空気は一挙に明るくなった。そして続くオランダ戦の4−1の大勝。過去30年間にわたって傷つけられてきた誇りが、完全によみがえった試合だった。ひとりの選手の天才的なテクニックではなく、チーム全体のすばらしいスピリットとチームプレーで勝ち取ったものであったことが、サッカー好きのファンを心から喜ばせた。
 スペインとの準々決勝は苦しかったが、PK戦でGKシーマンが活躍し、新しいヒーローとなった。そして準決勝のドイツ戦を迎えたのだ。

 試合前には、「もう怖いものはない」という空気と同時に、ドイツに対する恐れの気持ちも隠せなかった。ドイツは、イングランドとは対照的に、常にヨーロッパのトップの位置に君臨してきたからだ。
 だが、ファンはここでまたイングランド・サッカーのすばらしさを確認する。1−1から延長にはいっても、イングランドは恐れることなく攻め続けた。最終的にPK戦で敗れたが、その勇気と「優勝候補筆頭」を自陣に押し込めた力に、ファンは大きな満足を得たのだった。
 イングランドの試合ごとに、国内の空気が変わっていくのは、誰にでも感じることができた。だが、ひとつのゴールやひとつの勝利が、これほどまでにたくさんの人びとをうきうきとした幸せな気分にしてしまうとは、正直なところ驚きだった。

 決勝戦のハーフタイムに今大会のフェアプレー賞の発表があり、イングランドの受賞が発表され、イングランド代表の応援歌「スリー・ライオンズ」が場内に流れた。
 「ずっと傷つき、ジョークにされ、笑われてきた。でも僕らは夢を見続ける。30年前の栄光をまた成し遂げられることを。帰ってくる。サッカーが、故郷に帰ってくる」
 スタジアムには、ドイツから1万人、チェコから4000人のサポーターがきていた。しかし6万人はサッカーを心から愛するイングランドのファンだった。彼らは軽快な音楽に合わせて合唱し、狭い席でリズムをとりながら踊った。そして最後には、ドイツもチェコもイングランドもなかった。スタンド全面の大合唱となった。

 勝者も敗者も、みんなが幸せな気分だった。そんな力をもったサッカーを生み出したことを、イングランド中の人びとが大きな誇りに感じていたに違いない。


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(1996年7月8日)

No.155 16チームのワールドカップも悪くない

 「16チームのワールドカップも悪くない」
 あらためてそう感じたヨーロッパ選手権だった。

 4年に一度のこの決勝大会は、80年に8チームになるまで4チームで戦われていた。準決勝以降だけの質素な大会だった。
 80年から8チーム参加の大がかりな大会となり、今回は欧州サッカー連盟の加盟国拡大に伴って16チームとなった。数だけではない。ワールドカップ、オリンピックに次ぐ世界で第3のスポーツイベントに急成長したのだ。
 31試合で動員した観客総数は140万人。テレビ放映は94年ワールドカップを6カ国上回る194カ国に達し、視聴者総数は69億人。総収入は94年ワールドカップに近い237億円に上り、うち89億円が規定に従い参加チームに分配される。少ないチームでも3試合で3億5000万円。ワールドカップの1.5倍の金額だ。

 数字を見れば、この大会はある意味で「ワールドカップに肩を並べた」と言えるのではないか。そのうえで、「16チームのワールドカップも悪くない」と思うのだ。
 2002年ワールドカップが日韓の「共同開催」になって、いろいろと難しい問題が予想される。日本国内の問題は、会場に予定していた15もの都市の扱いだ。すでに各自治体からはチーム数を増やしてほしいなどの要望が出ている。

 だが、チーム数をこれ以上増やすことも、大会方式を変えることによって試合数を増やすことも、非常に難しいと私は考えている。
 いまや世界のサッカーは飽和状態にある。できるだけいい試合をさせるためにクラブと代表チームの日程は厳しく決められ、新たな日程を入れる隙間はほとんどない。ヨーロッパ選手権もワールドカップも、そうした日程のなかに組み入れられている。だから大会期間は1カ月を大きく超過することはできないのだ。

 同時に、大会方式を変えて試合数を増やすことも難しい。フランス大会では決勝は大会7試合目。これがいかに過酷な日程であるかは、過去2回の決勝の試合内容が証明している。両チームとも極度の疲労でとても「世界一を決める試合」とはいえないレベル。「1カ月間で7試合」はすでに限界を超えているのだ。
 結局、2002年大会は98年フランス大会と同様の大会形式、試合日程にせざるをえない。すなわち、32チームが参加し、4チームずつ8グループで1回戦総当たりを行い、各グループ上位2チームが出て「ベスト16」からの決勝トーナメントを行うのだ。
 そしてその「半分」を日本で開催するということになれば、すなわち「16チームのワールドカップ」ということになる。今回のヨーロッパ選手権とまったく同じ形式と規模である。

 今回、イングランドでは8都市が会場となった。4都市が3試合、2都市が4試合、1都市が5試合、そしてロンドンだけが6試合を開催した。それを十五都市でやるのは無駄が多くなるが、これまでの各自治体の取り組みを考えれば簡単に「あきらめなさい」と言えるようなことではない。
 だが、ワールドカップの開催は、日本が勝手に大会形式を決めるようなものではないということは忘れてはならない。まず参加チーム数も大会形式も期間も決まったワールドカップというものがあって、それをどう運営していくかだけが日本に委託されるのだ。
 16チームのワールドカップはけっして悪いものではない。それを前提に、予定自治体との誠実な話し合いをすることを、「準備委員会」に期待したい。

(1996年7月1日)

No.154 オールドトラフォード 夢の劇場

 オールド・トラフォード----。
 このスタジアムを所有する「マンチェスター・ユナイテッド」クラブのファンだけでなく、世界中のたくさんのファンにとって特別な響きのある名前だ。

 何よりも、数多くのスターが活躍し、伝説的なプレーを生んできた。そして常に超満員の観客がスタンドを埋め、心を揺さぶる応援のなか、情熱的な試合が繰り返されてきた。
 66年ワールドカップで3試合の舞台となり、現在進行中の欧州選手権では準決勝を含む5試合が開催され、ウェンブリー(ロンドン)に次ぐ主会場である。

 マンチェスター・ユナイテッドは1878年に創設された。ふたつのグラウンドを転々とした後、「20世紀にふさわしいスタジアムをつくろう」と移転したのが、現在のオールド・トラフォードだった。
 1910年2月19日にグラウンド開きが行われ、その後50年間かけた「拡充計画」が実行された。第二次大戦中にドイツの爆撃で壊され、8年間も使えない時期があったが、屋根を付け、それを広げ、スタンドを大きくし、照明設備を設置し、スタジアムは年を経るごとに快適な設備に生まれ変わった。
 64年には新しい「30年計画」がスタートした。より近代的なスタジアムとするためだ。屋根が全面的に改修され、試合はより見やすくなった。

 だが「プロのスタジアムは96年までに立ち見席を一切なくす」という法律に従った結果、93年に「30年計画」が完成したときには、それまで5万8000あったキャパシティが4万5000にまで低下していた。シーズンチケットの順番待ちは数万人を超し、収入面でも大きな打撃だった。
 クラブの動きは迅速だった。95年には、北側のいわば「バックスタンド」を全面的に拡大改修する計画を発表し、すぐ工事にとりかかったのだ。
 そしてことし5月、すべての工事が終了した。オールド・トラフォードは5万5800人のキャパシティを取り戻した。

 この間、チームは何度も浮沈を繰り返した。最も大きな打撃は、1958年2月の「ミュンヘンの惨劇」だった。遠征からの帰途の航空機事故で、8人もの主力選手をいちどに失ってしまったのだ。
 その10年後、事故を生き延びたバスビー監督のもと再生したユナイテッドは、欧州チャンピオンズ・カップ優勝という最高の瞬間を迎える。チャールトン、ベスト、ローと「欧州年間最優秀選手」を3人も擁する史上最強チームだった。
 だが、そのスターたちの老化とともに、わずか6年後に2部落ちの悲哀を味わう。そしてファーガソン監督の下、イングランド・チャンピオンの座を取り戻したのは93年。実に26年ぶりのことだった。

 「こんなすばらしいスタジアムで、ひどいプレーをするなんて不可能だ」
 オランダのヨハン・クライフはそう語った。
 プロスポーツの定めで、チームには栄光の瞬間も失望の時期もあった。だがクラブは一貫してスタジアムに投資し、その結果ファンの支持を獲得してきた。ユナイテッドの年間平均観客数は、4万3000人を切ったことがない。そうした環境があったからこそ、数多くのスターが登場し、伝説が生まれてきたのだ。

 60年代のというより、ユナイテッドの全時代を通じての最大のスターだったボビー・チャールトンは、20年間にわたる選手生活を過ごした「わが家」をこう表現している。
 「オールド・トラフォードは、夢の劇場だ」


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(1996年6月24日)

No.153 ヨーロッパサッカー家族

 「ヨーロッパのサッカーはひとつの家族」
 イングランドの8都市を舞台に行われているヨーロッパ選手権を取材しながらそんなことを思った。

 アジア、アフリカ、南米も加わるワールドカップと比べると、非常に整然とした感じがする。16の出場チーム、観客、そして取材するメディアにも、ひとつの「常識」のようなものが流れていて、そのなかですべてが運ばれている。
 ヨーロッパサッカー連盟(UEFA)は強力な財政基盤とリーダーシップをもった組織だが、それだけではこの「秩序」を説明することはできない。もっと深く、幅広い要因が、ヨーロッパ・サッカーの「常識」を支えている気がする。

 ヨーロッパでは毎年3種類のクラブカップが開催され、加盟49協会から約200クラブが参加する。大会は完全な「ホームアンドアウェー」形式。どのチームと当たっても、地元と相手のホームタウンで一試合ずつ行う。チームが動けばメディアが従い、ファンも動く。200クラブすなわち200都市が、サッカーを通じて毎年無差別に「交流」していることになる。
 また2年ごとにヨーロッパ選手権とワールドカップの予選が繰り返され、代表チームすなわち国同士の交流も「半強制的」に行われる。こうした日常的な交流がヨーロッパのサッカーにひとつの「文化的常識」を育て、今大会での「秩序」となって現れているのだ。

 たいていの国へは飛行機で1、2時間というヨーロッパの「狭さ」がうらやましい。アジアでは、乗り継ぎの都合によっては一昼夜を要するところさえあるからだ。
 アジア・サッカーの後進性は、経済的な問題もさることながら、あまりに広大で、日常的な国際交流が不足している点にある。
 そしてそのなかで、日本はヨーロッパや南米の「先進国」に目を向け、そこを目指して「追いつき、追い越せ」と努力してきた。

 高い目標をもつのはけっこうなことだ。だがこの日本サッカーの歩みは、日本経済とどこか共通した面がある。アジアに背を向け、世界ばかり見て励んできた結果、気がついたら「アジアの中の日本」という立場がどこにも見えない。
 地理的距離だけでなく、宗教、経済、政治などアジアには多くの問題があり、それがサッカーの自由な交流を阻んでいる。しかし日本のサッカーは、自らがもうひとつ成長するためにアジア全体のサッカーを発展させければならないことに気づくべきだ。

 アジアのクラブカップに「サテライトチーム」を送っていてはいけない。大会と相手チーム、相手国に敬意を払い、最強チームでホームもアウェーも戦えるよう国内の日程を調整しなければならない。アジアで最も重要な代表チームの大会である「アジアカップ」には、しっかりと準備して臨まなければならない。アジアサッカー連盟(AFC)の活動にも、積極的に取り組まなければならない。
 アジア・サッカーのリーダーシップをとって、ヨーロッパのような「サッカー家族」とすることで全体のレベルアップを図らなければ、日本サッカーが本当に世界に追いつくことはできないのだ。

 「フットボール・カムズ・ホーム(サッカーがお家に帰ってきた)」
 今大会のキャッチフレーズだ。もちろんイングランドがサッカーの「母国」であることを示しているのだが、私には、ヨーロッパというひとつの「サッカー家族」が久しぶりに実家に顔をそろえたんだと言っているようにも思えてならないのだ。

(1996年6月17日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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