
美しい秋の好天に恵まれたスタジアムで、気持ちが暗く沈んでいくのを抑えることができなかった。
試合のことではない。あまりに殺伐としたサポーターのことだ。自クラブを応援する声はすばらしい。だが相手クラブの選手をことごとく口笛とブーイングの対象とし、果ては声をそろえて「レフェリー、ヘッタクソ」などと連呼するのには、怒りさえ覚えた。
サポーターは、Jリーグの1年目から「社会現象」にまでなり、Jリーグの試合に欠くことのできない存在となった。だが4シーズン目のことし、クラブによって大きく「温度差」が見られるようになった。以前の盛況など見る影もないクラブがある。その一方で、相変わらず熱く盛り上がっているクラブもある。
実は、私自身もサポーターだった。学生時代には、国立競技場のバックスタンドに陣取り、紙吹雪を盛大にまき、日の丸を振って日本代表を応援していた。
相手チームのバックパスにはすかさずブーイングを送り、日本サッカー狂会が発明した(バレーボールからきたものではない)「ニッポン、チャチャチャ!」を連呼して試合のたびに喉を枯らしていた。
もちろん何人かの仲間といっしょだったのだが、巨大なスタンドではいくつかの「点」のひとつにすぎなかった。けっして「面」になることなどなかった。
そんな経験をもつ一サッカーファンからすれば、Jリーグの誕生とともにどのクラブにもサポーター集団が出現したときには、「ついにこんな時代がきたか」と感激だった。こうして誕生したサポーターが、成長し、成熟していく姿が楽しみでならなかった。
だが、4年を経たいま、スタジアムで見たのは、相手チームを「敵」としか見ず、自分のチームに不利な働きをする者を何の価値判断もなく攻撃する、幼稚で貧困な精神だった。
サッカースタジアムに集結するサポーターは、日本的な「応援団」を否定するとこころから始まったのではないか。応援団長の声に合わせて、「三三七拍子」などを「やらされる」応援などはほしくないと、自ら「サポーター」と名乗ったはずだ。だが現在の多くのクラブのサポーターの精神は、「日本的応援団」以上に貧困で、幼児的だ。
サポーターが未成熟な国では、サッカーも成熟を迎えることはできない。
「成熟したサポーター」とは、自分のチームを心から愛し、声援する一方、サッカーについては厳しい目をもった集団のはずだ。すばらしいプレーには、敵味方関係なく盛大な拍手を送る。怠慢プレーにはすかさずブーイングだ。
そうしたサポーターがいるスタジアムでは、選手たちはいい意味で緊張し、最高のプレーを見せようと努力する。それがサッカーの成熟をもたらす。
相手チームや審判に対する憎しみを露にした現在のサポーターは、「大人になることを拒否した子供」にほかならない。
実は、彼らの大半は、どんなプレーがすばらしく、どんなプレーが口笛に値するかを、すでによく知っている。それを表出しないのは、自分の思いを明確にすることで、仲間を失うことを恐れているからではないか。単純で子供っぽい「敵味方」の基準で結びついた集団から、仲間はずれにされたくない一心なのだ。
ひとりひとりのサポーターに問いたい。
「あなたは、成熟する勇気があるか」
その「勇気」をもったサポーターが増えていかない限り、日本のサッカーにとっては有害なだけの存在になってしまう。
(1996年10月28日)
試合のことではない。あまりに殺伐としたサポーターのことだ。自クラブを応援する声はすばらしい。だが相手クラブの選手をことごとく口笛とブーイングの対象とし、果ては声をそろえて「レフェリー、ヘッタクソ」などと連呼するのには、怒りさえ覚えた。
サポーターは、Jリーグの1年目から「社会現象」にまでなり、Jリーグの試合に欠くことのできない存在となった。だが4シーズン目のことし、クラブによって大きく「温度差」が見られるようになった。以前の盛況など見る影もないクラブがある。その一方で、相変わらず熱く盛り上がっているクラブもある。
実は、私自身もサポーターだった。学生時代には、国立競技場のバックスタンドに陣取り、紙吹雪を盛大にまき、日の丸を振って日本代表を応援していた。
相手チームのバックパスにはすかさずブーイングを送り、日本サッカー狂会が発明した(バレーボールからきたものではない)「ニッポン、チャチャチャ!」を連呼して試合のたびに喉を枯らしていた。
もちろん何人かの仲間といっしょだったのだが、巨大なスタンドではいくつかの「点」のひとつにすぎなかった。けっして「面」になることなどなかった。
そんな経験をもつ一サッカーファンからすれば、Jリーグの誕生とともにどのクラブにもサポーター集団が出現したときには、「ついにこんな時代がきたか」と感激だった。こうして誕生したサポーターが、成長し、成熟していく姿が楽しみでならなかった。
だが、4年を経たいま、スタジアムで見たのは、相手チームを「敵」としか見ず、自分のチームに不利な働きをする者を何の価値判断もなく攻撃する、幼稚で貧困な精神だった。
サッカースタジアムに集結するサポーターは、日本的な「応援団」を否定するとこころから始まったのではないか。応援団長の声に合わせて、「三三七拍子」などを「やらされる」応援などはほしくないと、自ら「サポーター」と名乗ったはずだ。だが現在の多くのクラブのサポーターの精神は、「日本的応援団」以上に貧困で、幼児的だ。
サポーターが未成熟な国では、サッカーも成熟を迎えることはできない。
「成熟したサポーター」とは、自分のチームを心から愛し、声援する一方、サッカーについては厳しい目をもった集団のはずだ。すばらしいプレーには、敵味方関係なく盛大な拍手を送る。怠慢プレーにはすかさずブーイングだ。
そうしたサポーターがいるスタジアムでは、選手たちはいい意味で緊張し、最高のプレーを見せようと努力する。それがサッカーの成熟をもたらす。
相手チームや審判に対する憎しみを露にした現在のサポーターは、「大人になることを拒否した子供」にほかならない。
実は、彼らの大半は、どんなプレーがすばらしく、どんなプレーが口笛に値するかを、すでによく知っている。それを表出しないのは、自分の思いを明確にすることで、仲間を失うことを恐れているからではないか。単純で子供っぽい「敵味方」の基準で結びついた集団から、仲間はずれにされたくない一心なのだ。
ひとりひとりのサポーターに問いたい。
「あなたは、成熟する勇気があるか」
その「勇気」をもったサポーターが増えていかない限り、日本のサッカーにとっては有害なだけの存在になってしまう。
(1996年10月28日)
ショッキングな事件が起きた。Jリーグの試合終了直後に観客の投げたペットボトルが主審を直撃し、頭部を2センチも切る裂傷を負ったというのだ。
事件は10月2日に起こった。柏スタジアムで行われた柏レイソル×ヴェルディ川崎戦。ヴェルディがVゴールで勝った試合だ。
試合中も両チームの選手が再三判定に抗議し、観客席からも罵声が飛んでいたという。その挙げ句に地元レイソルが敗れたことが、事件の直接の引き金となったようだ。「犯人」はつかまらなかった。
10月10日、レイソルはJリーグに事件の正式な報告書を出した。そこでは、今後このようなことが再発しないための対策がいくつか明示されていた。
不思議でならないのは、柏レイソルに対してJリーグからの処分がまったくなさそうなことだ。それは、この事件の重大性をクラブやリーグが認識していないためではないか。
選手やファンからの審判への攻撃は、サッカーでは最も重大な「犯罪的行為」である。サッカーの歴史をひもとくまでもなく、審判というのは、両チームが試合をするために「お願いして」きてもらっているものだからだ。
Jリーグでも、審判員はリーグからは独立した存在で、日本サッカー協会の審判委員会に依頼して派遣してもらっている。しかも現時点では日本人審判は全員ボランティアであり、選手の出場給に比べればごくわずかな「手当て」で、ハードで責任の重い仕事をこなしているのだ。
そうした審判員に危害を及ぼすのは、サッカーの運営上最も大きな失態にほかならない。「Jリーグ始まって以来のスキャンダラスな事件」といっても過言ではないのだ。
ヨーロッパでは、こうした事件への処罰は非常に厳しい。通常は「次のホームゲームを観客なしでやること」や数百万円相当の罰金が言い渡される。最近、スペインでは、同じような事件に対し、「1試合ホームスタジアムの使用禁止」が命じられている。
アメリカの大リーグ野球では、最近審判員のストライキ騒ぎが起きた。審判に対するツバ吐き事件でリーグが選手への処分を先送りする処置をとったことに抗議してのものだった。
今回の事件についてレイソルに対するはっきりとした処罰がなければ、日本協会の審判委員会がJリーグへの審判派遣を取り止めても不思議はない。あるいは審判員自身がJリーグの試合への参加を拒否するかもしれない。安全を保証できない試合の審判員など務められないからだ。そうした危機感が、クラブやリーグ側にはあるのだろうか。
Jリーグでは、昨年前半にサポーターをめぐるトラブルが続出し、初めて大きな問題として取り上げられた。ところが、大がかりな研究会も開かれたのだが、「観客コントロール」についての根本的な解決手段はとられなかった。事態が終息したのは、サポーター自身が反省し、自粛したからにほかならない。今回のような事件はいつ起こっても不思議はなかったのだ。
すなわち今回の事件は、柏レイソルとともにJリーグ自体にも大きな責任がある。それぞれの責任を明らかにしない限り、Jリーグは重大な危機を迎えることになる。
間違ってもいっしょに論じてならないのは、審判の技術や能力の問題である。「根本的問題」は、クラブの「観客コントロール」であり、「セキュリティー管理」にほかならない。問題のすり替えで責任の所在を隠匿するのは、二重の犯罪的行為だ。
(1996年10月14日)
事件は10月2日に起こった。柏スタジアムで行われた柏レイソル×ヴェルディ川崎戦。ヴェルディがVゴールで勝った試合だ。
試合中も両チームの選手が再三判定に抗議し、観客席からも罵声が飛んでいたという。その挙げ句に地元レイソルが敗れたことが、事件の直接の引き金となったようだ。「犯人」はつかまらなかった。
10月10日、レイソルはJリーグに事件の正式な報告書を出した。そこでは、今後このようなことが再発しないための対策がいくつか明示されていた。
不思議でならないのは、柏レイソルに対してJリーグからの処分がまったくなさそうなことだ。それは、この事件の重大性をクラブやリーグが認識していないためではないか。
選手やファンからの審判への攻撃は、サッカーでは最も重大な「犯罪的行為」である。サッカーの歴史をひもとくまでもなく、審判というのは、両チームが試合をするために「お願いして」きてもらっているものだからだ。
Jリーグでも、審判員はリーグからは独立した存在で、日本サッカー協会の審判委員会に依頼して派遣してもらっている。しかも現時点では日本人審判は全員ボランティアであり、選手の出場給に比べればごくわずかな「手当て」で、ハードで責任の重い仕事をこなしているのだ。
そうした審判員に危害を及ぼすのは、サッカーの運営上最も大きな失態にほかならない。「Jリーグ始まって以来のスキャンダラスな事件」といっても過言ではないのだ。
ヨーロッパでは、こうした事件への処罰は非常に厳しい。通常は「次のホームゲームを観客なしでやること」や数百万円相当の罰金が言い渡される。最近、スペインでは、同じような事件に対し、「1試合ホームスタジアムの使用禁止」が命じられている。
アメリカの大リーグ野球では、最近審判員のストライキ騒ぎが起きた。審判に対するツバ吐き事件でリーグが選手への処分を先送りする処置をとったことに抗議してのものだった。
今回の事件についてレイソルに対するはっきりとした処罰がなければ、日本協会の審判委員会がJリーグへの審判派遣を取り止めても不思議はない。あるいは審判員自身がJリーグの試合への参加を拒否するかもしれない。安全を保証できない試合の審判員など務められないからだ。そうした危機感が、クラブやリーグ側にはあるのだろうか。
Jリーグでは、昨年前半にサポーターをめぐるトラブルが続出し、初めて大きな問題として取り上げられた。ところが、大がかりな研究会も開かれたのだが、「観客コントロール」についての根本的な解決手段はとられなかった。事態が終息したのは、サポーター自身が反省し、自粛したからにほかならない。今回のような事件はいつ起こっても不思議はなかったのだ。
すなわち今回の事件は、柏レイソルとともにJリーグ自体にも大きな責任がある。それぞれの責任を明らかにしない限り、Jリーグは重大な危機を迎えることになる。
間違ってもいっしょに論じてならないのは、審判の技術や能力の問題である。「根本的問題」は、クラブの「観客コントロール」であり、「セキュリティー管理」にほかならない。問題のすり替えで責任の所在を隠匿するのは、二重の犯罪的行為だ。
(1996年10月14日)
学生時代に少年サッカーのコーチをしていたことがある。とはいっても、週にいちど、日曜日の午前中に学校の校庭を借りて2時間ほどの練習をするだけ。小学校1年生から中学生まで総勢40人あまりという小さなクラブだった。
そのクラブにAくんがはいってきたのは小学校1年生のときだった。小柄で、ひょうきんな少年だった。いや、はっきりいって、手におえない「マイペース・ボーイ」だったのだ。
毎週遅刻もせずにやってくるが、まず練習には参加しない。シュート練習でも1本けったら他の子を追いかけてふざけている。全員でゲームになると、いつの間にか校庭の端にある砂場で砂遊びをしている。
「何が楽しくて、休まずにくるのかな。学校ではどうしているんだろう」
コーチたちは不思議でならなかった。2時間の練習中、ボールをけるのは気が向いた数回程度なのだ。
小学生、とくに低学年というのは、ものすごく個人差が大きい。同じ1年生でも、初日からしっかりとコーチの話を聞き、練習に集中できる子もいた。その日は足の裏でボールを引くプレーを教えたのだが、生まれて初めてサッカーを習ったその少年は、ゲームになると、足の裏でボールを引くプレーだけで何人も抜き去って見せた。
かと思えば、Aくんのようにまるで幼稚園児のような子も何人かいた。
これが学校の先生だったら、「落ちこぼれをつくってはいけない」と気が気でなかったろう。だがサッカークラブは気楽なものだった。周囲でうるさいことを言う父母もいなかった。
「何もやらなくても、ああして毎週来てるんだから何か楽しいことがあるんだろう」。これがコーチたちの結論だった。ときどきは叱ったが、練習を強要することはせず、だいたいは、ほうっておいた。
そうして二年あまりが過ぎた。Aくんは、三年生になっても同じような調子だった。試合に出場しても、プレーにはほとんど参加せず、グラウンドのなかで虫を追ったりしていた。
ある夏の日、ひとつの試合があった。私たちのチームは人数がぎりぎりだったので、Aくんもメンバーにはいった。しかも、3年生のAくんはいちばんの年下で、味方も相手も4年生と5年生ばかりだった。
試合が始まる。相手は予想どおり強敵だ。たちまち守備ラインが突破され、ピンチになる。
そのとき、猛烈な勢いで戻ってきた小柄な選手がすばらしいスライディングタックルでボールを奪った。私たちは目を疑った。それはAくんだったのだ。
いまやAくんは完全に中心選手だった。味方に声をかけ、カバーし、クリアして守備を引き締め、チームを勝利に導いたのだ。
コーチたちは信じられない思いだった。いったいいつ、あんなプレーを覚えたのだろう。あのファイティングスピリットとリーダーシップはどこに隠されていたのか。とにかく、Aくんは、「砂場遊びの落ちこぼれ」から突然守備のリーダーとなったのだ。
考えてみれば、AくんにはAくんのサッカー練習のペースがあったのだ。そのペースで少しずつサッカーへの興味を増し、感覚を身につけていくことが、Aくんが「開花」するために必要なものだったのだ。
がみがみうるさく言って彼のペースを乱さなかったことは、コーチとしての知識も経験もない私たちにとって本当に幸運だった。私たちとAくんの2年半の練習を通じてより多くを学んだのは、小学3年生のAくんではなく、大学生の私たちのほうだった。
(1996年10月7日)
そのクラブにAくんがはいってきたのは小学校1年生のときだった。小柄で、ひょうきんな少年だった。いや、はっきりいって、手におえない「マイペース・ボーイ」だったのだ。
毎週遅刻もせずにやってくるが、まず練習には参加しない。シュート練習でも1本けったら他の子を追いかけてふざけている。全員でゲームになると、いつの間にか校庭の端にある砂場で砂遊びをしている。
「何が楽しくて、休まずにくるのかな。学校ではどうしているんだろう」
コーチたちは不思議でならなかった。2時間の練習中、ボールをけるのは気が向いた数回程度なのだ。
小学生、とくに低学年というのは、ものすごく個人差が大きい。同じ1年生でも、初日からしっかりとコーチの話を聞き、練習に集中できる子もいた。その日は足の裏でボールを引くプレーを教えたのだが、生まれて初めてサッカーを習ったその少年は、ゲームになると、足の裏でボールを引くプレーだけで何人も抜き去って見せた。
かと思えば、Aくんのようにまるで幼稚園児のような子も何人かいた。
これが学校の先生だったら、「落ちこぼれをつくってはいけない」と気が気でなかったろう。だがサッカークラブは気楽なものだった。周囲でうるさいことを言う父母もいなかった。
「何もやらなくても、ああして毎週来てるんだから何か楽しいことがあるんだろう」。これがコーチたちの結論だった。ときどきは叱ったが、練習を強要することはせず、だいたいは、ほうっておいた。
そうして二年あまりが過ぎた。Aくんは、三年生になっても同じような調子だった。試合に出場しても、プレーにはほとんど参加せず、グラウンドのなかで虫を追ったりしていた。
ある夏の日、ひとつの試合があった。私たちのチームは人数がぎりぎりだったので、Aくんもメンバーにはいった。しかも、3年生のAくんはいちばんの年下で、味方も相手も4年生と5年生ばかりだった。
試合が始まる。相手は予想どおり強敵だ。たちまち守備ラインが突破され、ピンチになる。
そのとき、猛烈な勢いで戻ってきた小柄な選手がすばらしいスライディングタックルでボールを奪った。私たちは目を疑った。それはAくんだったのだ。
いまやAくんは完全に中心選手だった。味方に声をかけ、カバーし、クリアして守備を引き締め、チームを勝利に導いたのだ。
コーチたちは信じられない思いだった。いったいいつ、あんなプレーを覚えたのだろう。あのファイティングスピリットとリーダーシップはどこに隠されていたのか。とにかく、Aくんは、「砂場遊びの落ちこぼれ」から突然守備のリーダーとなったのだ。
考えてみれば、AくんにはAくんのサッカー練習のペースがあったのだ。そのペースで少しずつサッカーへの興味を増し、感覚を身につけていくことが、Aくんが「開花」するために必要なものだったのだ。
がみがみうるさく言って彼のペースを乱さなかったことは、コーチとしての知識も経験もない私たちにとって本当に幸運だった。私たちとAくんの2年半の練習を通じてより多くを学んだのは、小学3年生のAくんではなく、大学生の私たちのほうだった。
(1996年10月7日)
「サッカーのあれが嫌いなんだよ」
以前、ラグビーファンからこう指摘された。
「あれ」とは、タッチラインを出たボールが相手チームのスローインだとわかったときに、すぐには渡さず、しばらく下がってからポーンと高く投げてしまう行為のことだ。
自分が守備のポジションにつく前に相手チームがスローインをしてしまったら不利になる。だから時間をかせぐためにこんなことをする。サッカーという競技ではなかば「常識」、見慣れたファンにとっては何でもない行為だ。
だが別の競技をしている人の目には、これが信じがたい行為と映った。スポーツの風上にも置けない卑劣な行為に見えたのだ。
「スポーツにはそれぞれお家柄がある」
長い間、日本サッカーの「ご意見番」役を務めてきたジャーナリスト牛木素吉郎氏(元読売新聞)は、いたずらにスポーツ同士を比べる危険性をこう説いた。
各競技には、それぞれの歴史的・文化的な背景があり、それぞれ習慣や哲学が違う。ある競技で反則とされることが、別の競技では高度な駆け引きと見られる場合もある。
私にしても、ともすれば「サッカーの常識」を物差しにして他の競技を見てしまう。だがその競技のバックグラウンドをしっかりと知らないと、とんだ見当違いをしてしまう。
しかし冒頭のラグビーファンの言葉は、「お家柄」を超えた話だった。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な感覚の麻痺を、指摘された思いだった。
先日、あるスキー団体の人びとと話をする機会があった。Jリーグが進めている「ホームタウン構想」を説明してほしいと、地域や職場のスキークラブの代表者たちから求められ、理解している範囲で話した。
Jリーグの理想形はドイツなどに見られる地域に密着した総合スポーツクラブであること。プロとして成り立つサッカーを中心に、地域の人びとがいろいろなスポーツを手軽に楽める環境をつくろうとしていること。現状ではまだサッカーで手いっぱいだが、川淵チェアマンのリードで「総合スポーツクラブ化」への動きが始まっていること。
すると、大阪でスキークラブを運営している人からこんな話が出た。
「Jリーグをテレビで見ていると、必ず相手の体やシャツを引っ張るシーンに出くわす。とてもスポーツとは思えないアンフェアーな行為を平気でしている。そんなことをしているJリーグが、地域のスポーツ全般を振興するなどと言っても、まったく喜べない。逆に、余計なお世話だと言いたい」
これまで、日本ではサッカーはマイナーな存在だった。少年たちの間でいくら盛んになってもマスコミでの取り上げは小さく、一般の人びとの話題にはならなかった。そのせいか、「外部」の人びとがサッカーをどう見るかなど、あまり気にしていなかった。
「町のスキーヤー」や冒頭のラグビーファンの指摘に、「世界のどこでもやっていること。サッカーでは常識の範囲。別に反則ではない」と居直ることは簡単だ。だが素直に心を開いてみれば、彼らの感覚のほうが正しいことは明らかだ。
Jリーグは、「ホームタウン構想」を通じて地域社会への責任を果たそうとしている。それは大事なことだ。だが同時に、大きな注目を集める存在として、競技をよりフェアなものにすることによって、スポーツ全体への責任も果たさなければならないと私は思う。Jリーグは、クラブは、そして選手たちはどう考えるだろうか。
(1996年9月30日)
以前、ラグビーファンからこう指摘された。
「あれ」とは、タッチラインを出たボールが相手チームのスローインだとわかったときに、すぐには渡さず、しばらく下がってからポーンと高く投げてしまう行為のことだ。
自分が守備のポジションにつく前に相手チームがスローインをしてしまったら不利になる。だから時間をかせぐためにこんなことをする。サッカーという競技ではなかば「常識」、見慣れたファンにとっては何でもない行為だ。
だが別の競技をしている人の目には、これが信じがたい行為と映った。スポーツの風上にも置けない卑劣な行為に見えたのだ。
「スポーツにはそれぞれお家柄がある」
長い間、日本サッカーの「ご意見番」役を務めてきたジャーナリスト牛木素吉郎氏(元読売新聞)は、いたずらにスポーツ同士を比べる危険性をこう説いた。
各競技には、それぞれの歴史的・文化的な背景があり、それぞれ習慣や哲学が違う。ある競技で反則とされることが、別の競技では高度な駆け引きと見られる場合もある。
私にしても、ともすれば「サッカーの常識」を物差しにして他の競技を見てしまう。だがその競技のバックグラウンドをしっかりと知らないと、とんだ見当違いをしてしまう。
しかし冒頭のラグビーファンの言葉は、「お家柄」を超えた話だった。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な感覚の麻痺を、指摘された思いだった。
先日、あるスキー団体の人びとと話をする機会があった。Jリーグが進めている「ホームタウン構想」を説明してほしいと、地域や職場のスキークラブの代表者たちから求められ、理解している範囲で話した。
Jリーグの理想形はドイツなどに見られる地域に密着した総合スポーツクラブであること。プロとして成り立つサッカーを中心に、地域の人びとがいろいろなスポーツを手軽に楽める環境をつくろうとしていること。現状ではまだサッカーで手いっぱいだが、川淵チェアマンのリードで「総合スポーツクラブ化」への動きが始まっていること。
すると、大阪でスキークラブを運営している人からこんな話が出た。
「Jリーグをテレビで見ていると、必ず相手の体やシャツを引っ張るシーンに出くわす。とてもスポーツとは思えないアンフェアーな行為を平気でしている。そんなことをしているJリーグが、地域のスポーツ全般を振興するなどと言っても、まったく喜べない。逆に、余計なお世話だと言いたい」
これまで、日本ではサッカーはマイナーな存在だった。少年たちの間でいくら盛んになってもマスコミでの取り上げは小さく、一般の人びとの話題にはならなかった。そのせいか、「外部」の人びとがサッカーをどう見るかなど、あまり気にしていなかった。
「町のスキーヤー」や冒頭のラグビーファンの指摘に、「世界のどこでもやっていること。サッカーでは常識の範囲。別に反則ではない」と居直ることは簡単だ。だが素直に心を開いてみれば、彼らの感覚のほうが正しいことは明らかだ。
Jリーグは、「ホームタウン構想」を通じて地域社会への責任を果たそうとしている。それは大事なことだ。だが同時に、大きな注目を集める存在として、競技をよりフェアなものにすることによって、スポーツ全体への責任も果たさなければならないと私は思う。Jリーグは、クラブは、そして選手たちはどう考えるだろうか。
(1996年9月30日)
Jリーグの後期がスタートし、優勝の行方など見当もつかない時期に、早くも来年のリーグ戦方式が話題に上り始めている。
先月末に報道された試案では、最多で2クラブが昇格し、18クラブ制になる予定の来季は、今季と同様に年間で2回総当たり(1クラブあたり34試合)とする。そして前・後期でそれぞれ優勝を決め、年間王者をかけて「チャンピオンシップ」を開催する。
この試案に対し、Jリーグの「業務運営委員会」では「試合が少なすぎる」などの反対意見が出ているという。理由は、主としてクラブ経営の立場、すなわち入場料収入確保だ。
だがより大きな問題は、18クラブ制がファンの興味を引きつけられるかということではないか。
今季昇格の京都サンガは18節終了時点で全敗、勝ち点は0のままだ。何よりも日本人選手が力不足だ。シーズン途中にラモス瑠偉(ヴェルディ川崎)、山口敏弘(ガンバ大阪)という実力派を獲得したが、監督交代もあり、まだ「結果」にはつながっていない。
当初から「急激にクラブ数を増やすと、リーグのレベル低下を招く」という意見があった。昨季までの昇格クラブはそれぞれがんばったが、「16クラブ目」のサンガが、この懸念を実証してしまった。今後昇格するクラブが二の舞にならないとは言い切れない。
「チームレベル格差の拡大」は、観客動員に直接影響する。戦う前から結果が明白な試合がいくつもあったら、リーグの興味は急激に失せてしまう。
では、やはり「18クラブ」は無理なのか。私はそうは思わない。だが、そのためには「リーグの構造改革」が必要だ。
ひとつのクラブの「トップチーム枠」が20人、そのうち平均4人が外国人選手とすると、日本人は16人、18クラブでも288人いれば足りることになる。ところが今季のはじめには、一クラブ平均30人、16クラブ総計では480人余りの日本人選手が登録されていた。
多くの選手をかかえているのは、各クラブの直接的指導の下、「サテライトリーグ」で次代の選手を育成しようという考えだ。日本サッカー協会が規定している「移籍規定」がネックとなり、クラブ自体にも移籍が積極的にとらえられていないこともあって、自前で選手をまかなわなければならない状況だからだ。
Jリーグはサテライトリーグのあり方を再考し、少なくともアマチュアだけのリーグにするべきだ。それは、日本協会の移籍規定改正に基づく移籍の活性化とセットにならなければならない。各クラブのプロ選手数を減らすことが、現在のJリーグが直面する問題の解決の決め手となる。
これによって、昇格するクラブはいい選手をそろえることができ、シーズン中に負傷などで選手が足りなくなっても移籍で補うことが可能になる。18クラブでも十分トッププロらしいレベルを保持できる。
カズや前園といったトップクラスの移籍が実現すれば、毎年各クラブはフレッシュで魅力的な布陣でシーズンインができる。それはシーズンチケットの売り上げを促進する一方、クラブ間の力のバランスを絶えず変えて、より興味深いリーグにするはずだ。
選手数が多いから、試合数を増やさなければならない。試合数が多いから、ケガも多く、選手数を増やさなければならない。悪循環に陥っているJリーグを救うのは、移籍の活発化を伴う「リーグ構造改革」以外にない。日程のやり繰りではもうどうしようもないところにきているのだ。
(1996年9月9日)
先月末に報道された試案では、最多で2クラブが昇格し、18クラブ制になる予定の来季は、今季と同様に年間で2回総当たり(1クラブあたり34試合)とする。そして前・後期でそれぞれ優勝を決め、年間王者をかけて「チャンピオンシップ」を開催する。
この試案に対し、Jリーグの「業務運営委員会」では「試合が少なすぎる」などの反対意見が出ているという。理由は、主としてクラブ経営の立場、すなわち入場料収入確保だ。
だがより大きな問題は、18クラブ制がファンの興味を引きつけられるかということではないか。
今季昇格の京都サンガは18節終了時点で全敗、勝ち点は0のままだ。何よりも日本人選手が力不足だ。シーズン途中にラモス瑠偉(ヴェルディ川崎)、山口敏弘(ガンバ大阪)という実力派を獲得したが、監督交代もあり、まだ「結果」にはつながっていない。
当初から「急激にクラブ数を増やすと、リーグのレベル低下を招く」という意見があった。昨季までの昇格クラブはそれぞれがんばったが、「16クラブ目」のサンガが、この懸念を実証してしまった。今後昇格するクラブが二の舞にならないとは言い切れない。
「チームレベル格差の拡大」は、観客動員に直接影響する。戦う前から結果が明白な試合がいくつもあったら、リーグの興味は急激に失せてしまう。
では、やはり「18クラブ」は無理なのか。私はそうは思わない。だが、そのためには「リーグの構造改革」が必要だ。
ひとつのクラブの「トップチーム枠」が20人、そのうち平均4人が外国人選手とすると、日本人は16人、18クラブでも288人いれば足りることになる。ところが今季のはじめには、一クラブ平均30人、16クラブ総計では480人余りの日本人選手が登録されていた。
多くの選手をかかえているのは、各クラブの直接的指導の下、「サテライトリーグ」で次代の選手を育成しようという考えだ。日本サッカー協会が規定している「移籍規定」がネックとなり、クラブ自体にも移籍が積極的にとらえられていないこともあって、自前で選手をまかなわなければならない状況だからだ。
Jリーグはサテライトリーグのあり方を再考し、少なくともアマチュアだけのリーグにするべきだ。それは、日本協会の移籍規定改正に基づく移籍の活性化とセットにならなければならない。各クラブのプロ選手数を減らすことが、現在のJリーグが直面する問題の解決の決め手となる。
これによって、昇格するクラブはいい選手をそろえることができ、シーズン中に負傷などで選手が足りなくなっても移籍で補うことが可能になる。18クラブでも十分トッププロらしいレベルを保持できる。
カズや前園といったトップクラスの移籍が実現すれば、毎年各クラブはフレッシュで魅力的な布陣でシーズンインができる。それはシーズンチケットの売り上げを促進する一方、クラブ間の力のバランスを絶えず変えて、より興味深いリーグにするはずだ。
選手数が多いから、試合数を増やさなければならない。試合数が多いから、ケガも多く、選手数を増やさなければならない。悪循環に陥っているJリーグを救うのは、移籍の活発化を伴う「リーグ構造改革」以外にない。日程のやり繰りではもうどうしようもないところにきているのだ。
(1996年9月9日)