
先週、FIFA(国際サッカー連盟)から98年のフェアプレー賞受賞者が発表された。イランとアメリカ、そして北アイルランド・サッカー協会だった。
地理的には「イギリス」の一部で、FIFAには独立の協会として加盟している北アイルランド。この地域の最大の社会問題であるカトリック対プロテスタントの宗教対決を緩和するために、サッカー協会がしてきた長年の努力が、FIFAに高く評価された。
一方、イランとアメリカは、ワールドカップ・フランス大会の出場チーム。ちょうど「FIFAフェアプレーデー」の日に対戦し、試合前に両チームそろって記念撮影に収まり、選手たちは花束とプレゼントを交換し合った。FIFAの推進するフェアプレー・キャンペーンへの大きな貢献が、受賞の理由だった。
FIFAのフェアプレー賞は、ポイント制ではなく、主観で選ばれている。イエローカードを受けたことのなかったリネカー、自分のハンドを認めて相手にPKを与えたオルデネビッツなどの選手のほかにも、スコットランドのクラブのファンや、トリニダードトバゴの国民に贈られたこともある。人々に感銘を与える行為一般を、広く対象にしてきたのだ。
しかしイランとアメリカの受賞には、割り切れないものを感じる。国交を断絶している両国がワールドカップで対戦することになったのは偶然だが、対戦が決まった後に、FIFAはその6月21日を「フェアプレーデー」と指定した。「ワールドカップは平和のイベント」と、ことさらにアピールするためだ。
私はリヨンでこの試合を見たが、両チームが特別に立派だったわけではない。FIFAのイベント計画に素直に従って試合前のセレモニーをしただけのことだ。両国代表チームの受賞にケチをつけるつもりはない。しかしこれではまるでFIFAの「お手盛り」だ。
そこにあるのは、フェアプレーのメッセージではない。日ごとに「政治家」の本性を露わにするブラッター会長のスタンドプレーばかりが目に付く。
実は、今回のフェアプレー賞には、日本のファン・サポーターが有力な候補に上がっていた。
初めてのワールドカップ出場。旅行会社が大がかりな詐欺に合い、入場券をもたないまま大量のファンがフランスに渡った。
試合の開催都市まで行き、スタジアムをはるかかなたにながめながら、それ以上は近づけなかったサポーターたち。しかし悲劇的な状況のなかで、日本のファンは自制心を保ち、現地でトラブルを起こした人はひとりもいなかった。
そして、幸運にもスタジアムにはいったサポーターたちは、仲間の分まで、心から日本を応援し、心からワールドカップを楽しんだ。試合後にゴミを拾ってスタジアムを去る姿は、世界に驚きと感銘を与えた。
AFC(アジアサッカー連盟)のベラパン事務総長が、今回のフェアプレー賞に日本を強力に推薦してくれたという。だがそれを認めれば、FIFAは自らの大失態であるフランス大会の入場券問題をまた思い起こさせることになる。「大成功」と自画自賛した大会の年のフェアプレー賞として、FIFAにとって、これほど「ふさわしくない」ものはなかったのだ。
しかし私は、このときの日本のファン・サポーターの態度を何よりも誇りに思う。そして同時に、けっして忘れてはいけないことだと考える。
2002年に、世界のどの国のファン・サポーターにも、二度とこんな思いをさせないために。
(1999年1月27日)
中米のサッカー大国メキシコで興味深い実験が検討されている。主審に小さなマイクを着けさせ、試合中の言葉を録音しようというのだ。
通常、「マイクレフェリー」は、主審と副審のコミュニケーションを良くすることを目的に議論される。昨年のワールドカップでは、副審の持つ旗に発信器を仕込み、スイッチを押すと主審の腕に巻いたバンドが振動して注意を喚起する「シグナルビップ」が使用された。これによって、副審が旗を上げているのに主審が気づかないトラブルがなくなり、ゲームコントロールは大幅に改善された。
しかし今回のメキシコの「マイクレフェリー」はまったく趣旨が違う。主審が選手に向かって侮辱するような言葉を使っていないかチェックするためのマイクなのだ。
ことの起こりはシーズン前のある会議だった。各クラブのキャプテンと審判協会の意見交換会だった。モンテレイ・クラブのモハメド主将が、「試合中、主審が選手に侮辱的な言葉を使うのをなんとかしてほしい」と要望を出した。
「それなら、本当にそんな言葉を使っているのかどうか、チェックしよう」と、審判側も受けて立った。その結果、主審がマイクを着けることで合意したのだ。
審判協会委員長は日本でもおなじみのアルチュンディア氏。96年にJリーグで活躍し、同じ年のアトランタオリンピックでは日本×ブラジル戦の主審を務めた人だ。彼は、「主審が実際にどんな言葉を使っているのかは、私たちにも興味のあるところ」と語る。
しかし、公式戦で「マイクレフェリー」を実現させるためには、FIFA(国際サッカー連盟)の許可を得なければならない。昨年、Jリーグではナビスコ杯で主審にマイクを着けさせてその声をテレビ放送に流す実験をした。視聴者へのサービスだったが、最終的にFIFAの許可は出なかった。今回のメキシコのケースは狙いがまったく違う。FIFAがどのような結論を出すか、興味深い。
さて、この話で感心したのは、「選手と審判の意見交換の場」を設けているという点だ。
良い試合をするためには、選手と審判が相互に信頼し合い、協力し合わなければならない。しかし実際には、互いに不信感でいっぱいというのが、現在のサッカーの実状だ。
「どこに目をつけているんだ」と、選手たちは審判のミスをなじる。審判は、内心、選手たちを救いようのないならず者だと思っている。こんな状況では、信頼関係など生まれるはずがない。良い試合が実現しないのは当然だ。
短いオフもあっという間に終わり、Jリーグでも新しいシーズンへの準備が始まろうとしている。この期間、選手たちはキャンプにはいり、審判たちも研修会を通じて能力を高めようと努力を払う。
しかし、現在の日本では、選手と審判の交流の機会は驚くほど少ない。プロである選手と、サッカーのほかに「職業」をもつ審判は、スタジアムに到着するまではまったく「別世界」の人であるからだ。このままでは、互いを知り合う機会さえ生まれない。
選手と審判が腹を割って本音を語り、対等の立場で交流する機会をつくることはできないだろうか。各クラブのキャプテンと今季のJリーグを担当する主審たちが1時間の意見交換会を行い、その後にお茶でも飲みながら1時間の交歓会をするのはどうだろうか。
信頼関係の第一歩は互いを知ること。顔見知りになるだけでも、試合はずいぶん違ったものになるはずだ。
(1999年1月20日)
東福岡高校の2年連続優勝で幕を閉じた全国高校サッカー選手権。大会前には「ことしは不作」という声も聞かれたが、終わってみれば、例年にも増して楽しめる大会だった。
「不作」というのは、ビッグスターがいないという意味だったのだろう。しかし非常にしっかりと訓練されたチームがいくつもあり、個人技術の高さがチーム戦術によって生き生きと発揮されていたのはすばらしかった。ビッグスターはいなくても、高校年代のサッカーが年ごとにレベルアップしていることが確認できた大会だった。
ただしそれは、キックオフから試合終了までのフィールドの中のことだけだった。大会の運営には、相変わらずいくつもの問題点があった。そのなかでも「これだけはやめてほしい」と思うのが、試合後のセレモニーだ。
80分間の熱気あふれる試合が終わり、勝負がつくと、勝ったチームはセンターサークルに並び、校歌が流されるなか校旗が掲揚されるのを晴れやかな表情で見上げる。その一方で、負けたチームは、寒風のなかタッチラインの外に並ばされ、相手チームの校歌を聞かなければならない。
なぜこのようなことが必要なのだろうか。高校野球でやっているからというのは理由にはならない。サッカーの大会であるのに、そこには、サッカーというスポーツのしきたりも、内在する精神のかけらもない。
「ノーサイド」という言葉がある。ラグビーでよく使われるが、ラグビー用語ではない。イングランド生まれのスポーツの、基本的で最も重要な精神のひとつを表すものとして、広く用いられている。もちろん、サッカーも例外ではない。
「サイド」とは「チーム」のこと。「オフサイド」(チームから離れてしまっているという意味の反則)で使う「サイド」と同義だ。
試合中は2つのチームに分かれて勝利を争っている。しかしいったん試合が終了したら、チームの区別はなくなり、いっしょにスポーツを楽しんだ仲間だけが存在する。だから試合終了は、すなわち「ノーサイド(もうチームは存在しない)」なのだ。
中田英寿選手が出場するイタリアのセリエAの試合を見た人なら気がついたかもしれない。レフェリーが試合終了のホイッスルを吹いたら、選手たちはチームの別なく握手し、そのままロッカールームへと引き上げていく。これが、サッカーのしきたりのひとつであり、このスポーツとともにイングランドから運ばれてきた「ノーサイド」の精神なのだ。
各国代表チーム同士の国際試合では、国歌を吹奏する。しかしそれは試合前に限られ、しかも両国の国歌を同じように吹奏する。これもまた、もうひとつのサッカーのしきたりだ。
しかし試合後は、たとえワールドカップ決勝で優勝チームが決まった後であっても、公式セレモニーのなかで優勝国の国歌が吹奏されることはない。すでに「ノーサイド」だからだ。
全国高校サッカー選手権は、全国高等学校体育連盟(高体連)の大会であり、高校教育の一環と位置づけられている。サッカーを「教材」として使うなら、そのしきたりを尊重し、その背後にあるスポーツの精神をも伝えるのが、本当の教育であると私は思う。
郷土愛を鼓舞し、愛校精神を育てるための校歌なら、サッカーのしきたりにならって、試合前に両校のものを吹奏すればいい。
試合後、何の制約もなければ、選手たちが互いに健闘をたたえ合う、スポーツの精神を体現する美しいシーンだけが残るはずだ。
(1999年1月13日)
「君たちはチームだった」
「日本サッカーの父」といわれるデットマール・クラマーさん(ドイツ)が、68年メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得した日本代表チームにこう話したとき、当時代表チームのコーチをしていた岡野俊一郎さん(現在日本サッカー協会会長)は、万感の思いを禁じることはできなかったという。それは、最大級の賛辞だったからだ。
快晴に恵まれた元日の天皇杯決勝、横浜フリューゲルスと清水エスパルスの対戦は、日本のサッカー史上に残るすばらしい試合となった。試合後、惜しくも敗れたエスパルスのスティーブ・ペリマン監督は、胸を張ってこう語った。
「私たちはチームだった。そしてフリューゲルスも、困難な状況のなかでチームになった」
98年は、日本サッカーにとって大きな試練の年となった。93年のJリーグ誕生と狂乱といっていいサッカーブーム。その勢いで97年のワールドカップ予選突破までこぎつけたが、記念すべきワールドカップ初出場の98年の後半は、Jリーグクラブの経営危機の話題であふれた。
そのなかで、97年末にクラブ運営会社が破綻し新会社に運営を移管した清水エスパルスが、厳しい環境下にかかわらず高いレベルのサッカーを実現し、シーズンを通じて好成績を残したのは印象的だった。
クラブ経営の徹底的な合理化を図ったエスパルスは、登録選手数わずか24人でスタートし、負傷者などが出て選手不足になると、高校生年代の「ユース」の選手を使ってしのいだ。
11月まで指揮をとったオスバルド・アルディレス前監督は、すばやいパスを主体にしたスタイルを確立し、時間かせぎや審判への抗議を厳しく禁じてサッカーに集中するよう求めた。
「それが、あらゆる面でプレーを楽しむことに結びつき、常に向上心をもって成長することができた」と、ペリマン現監督は語る。そうしてエスパルスは見事な「チーム」になった。
天皇杯決勝戦のハーフタイムに、ペリマン監督は選手たちにこう話している。
「とてもいいプレーができている。お互いのためにプレーしている」
どんなに優れた個人がいても、チームとして戦うことができなければ勝つことはできない。サッカーはチームゲームだからだ。
ピッチの上にいる11人がひとつの目的の下に力を合わせ、自分のためでなくチームの勝利のためにプレーする。こうしようと決めたことを厳しく実行に移し、あらゆる意味で一丸となってプレーする。
簡単なことではない。いやむしろ、非常に難しいことなのだ。
技術を磨き、戦術を徹底するだけでは、「チーム」にはなれない。そのうえに、全員が心から「チームのために戦う」という意識を貫かなければならないのだ。味方を信じて走り、サポートに寄る。ミスがあったらすぐカバーにはいる。こうしたプレーを全員が90分間続けられる「チーム」をつくることこそ、サッカーの最大の目標なのだ。
それを実現できたときには、本当にすばらしいサッカーが生まれる。そうした本物の「チーム」のプレーは、見る者たちに理屈抜きの感動を与える。
だからこそ、「君たちはチームだった」という言葉が最大の賛辞なのだ。
99年も厳しい年であることに変わりはない。私たちは、日本サッカーという「チーム」のために、心と力を合わせなければならない。そして西暦が2000年にはいるとき、心からこう言いたいと思う。
「私たちはチームだった」
(1999年1月6日)
モットラム主審の長い笛が鳴る。1万7000人近くを飲み込んだカシマスタジアムが歓喜で爆発する。フィールド上では、アントラーズの選手たちが抱き合うかたわらで、青いユニホームのジュビロ選手たちが呆然が立ちつくしている。
フィールドのほぼ中央では、今シーズンを全速力で駆け抜けてきたジュビロのFW中山雅史が、大きく天を仰ぎ、そのままグラウンドにひっくり返る。Jリーグ連覇を逃した無念の気持ちは、容易に察することができた。
ジュビロのDF服部年宏が助け起こそうと歩き始めたとき、ひとりのアントラーズ選手が中山に気づいた。試合中には中山と火花の散るような競り合いを展開していたアントラーズDF秋田豊だった。
秋田はチームメートの歓喜の輪には加わらず、まっすぐ中山のところに走り寄って右手を差し出し、助け起こすと、何か言葉をかけけた。中山も、秋田に気づくとすぐ立ち上がり、笑顔で祝福した。1998年Jリーグのフィナーレは、美しいフェアプレーのシーンだった。
98年の日本のサッカー界は厳しいニュースにさらされた。
国民的な関心を呼んだワールドカップは、結局、3連敗で終わった。アルゼンチン、クロアチアという世界的な強豪との試合内容は称賛に値するものだったが、大きな期待を抱いていたファンの間には失望感が広がった。
Jリーグクラブの経営危機の表面化、そして一部出資企業の撤退や支援後退は、深刻なニュースだった。各クラブは「生き残り」をかけて年俸の大幅ダウンや選手数削減などに取りかかっており、「Jリーグ市場」は急速に、そして不必要なほどに、しぼんでしまおうとしている。
しかしこの年は、同時に、2002年ワールドカップに向けて希望あふれるスタートの年ともなった。中田英寿がベルマーレ平塚からイタリアのペルージャに移籍して大活躍、国内では、その穴を埋めるように小野伸二が浦和レッズでJリーグにデビュー、たちまちトップスターとなった。
小野の最大の魅力は、もちろん、そのプレーにある。これまでの日本サッカーにはないボールテクニックのレベル、類まれなパスセンスと得点能力。しかしそれだけでは説明のつかないものを、この19歳の若者はもっている。そのひとつが、彼の「笑顔」だ。
試合中も、彼の笑顔に出合うことは珍しくない。チームメートがすばらしいプレーをしたとき、あるいはまた失敗をしたとき、彼は笑顔でほめ、また笑顔で大丈夫だよと励ます。そして、自分だけでなく、チームのゴールが決まると、彼の周囲に笑顔の輪が広がる。
私には、小野伸二という存在そのものが、「サッカーの喜び」というメッセージのように思えてならない。小野はサッカーの喜びをプレーで表現し、そしてまばゆいばかりの笑顔でしめくくるのだ。
アントラーズの秋田もまた、魅力的な笑顔の持ち主だ。ハードなタックル、気迫あふれるヘディングからは想像もつかない優しい笑顔を、試合後には見せてくれる。
そして、Jリーグ・チャンピオンシップの試合終了後に見せた中山への友情と敬意あふれる態度は、彼がサッカー選手としてピークにある現在、ひとりのスポーツマンとしても超一流の人格であることを示した。
小野の笑顔は「サッカーの喜び」のメッセージを運ぶ。しかし秋田の笑顔や行動からは、より成熟した「人生の豊かさ」のメッセージを感じることができる。
(1998年12月02日)