
「いいね、自分の町に『クラブ』があるって...」
帰り道、そんな話が出た。
5月の日曜日、鹿島アントラーズのクラブハウスを訪れた。取材ではない。私が監督をしている女子チームの試合が、アントラーズのトレーニンググラウンドで行われたのだ。
グラウンド難の関東女子リーグを、アントラーズが助けてくれた。サテライトリーグの前座として、茨城県代表の筑波大学のホームゲームが組まれ、私たちは「ビジター」として試合に行ったというわけだ。
アントラーズのクラブハウスは、カシマスタジアムから車で10分ほどのところにある。朝9時すぎに駐車場にはいると、ボランティアのおじさんが親切に更衣室まで案内してくれた。
総敷地面積5万6000平方メートル。クラブハウス2階、ファンのためのラウンジに上がると、3面の天然芝グラウンドが一望できる。木立の向こうには、人工芝のグラウンドもあるはずだ。
午前中には、アントラーズのジュニアユースの試合もあるらしい。自転車で少年たちが次々と到着する。私たちの試合が行われるのはクラブハウス正面のグラウンド。ジュニアユースは左奥のグラウンドだ。
私たちの試合の最中から、サテライトリーグの対柏レイソル戦を応援しにきたファンが小さなスタンドを埋めはじめる。試合を終え、着替えを済ませてサテライトリーグを見ようとしたときには、スタンドはすっかり埋まっていた。ようやくのことで、最後列の後ろの通路に立ち見スペースを見つけた。
この日、アントラーズは前日の試合にフル出場したGK曽ヶ端準と、交代出場だったMF本山雅志、FW平瀬智行という3人のオリンピック代表候補を出場させていた。しかしスタンドを埋めたのは、「アイドル」目当てのファンではなかった。
アントラーズの少年チームに在籍する男の子を連れた父親、地元のおじさん、おばさん。
「しっかり声をかけて!」
「ラインを上げて!」
外国なら、こうした声の主は男性のオールドファンと決まっている。しかし驚いたことに、ここではなんと20代と思える女声だ。好プレーにはスタンドがどっと沸くが、黄色い歓声が上がるわけでもなく、みんな楽しそうに試合を見守っている。
そこにあるのは、選手に対する肉親のような温かい感情だった。明日のアントラーズを担うサテライトの選手は、市民全体の息子たちなのだ。好天に恵まれた日曜の午後、息子たちの成長ぶりを確認するのは、鹿嶋市民にとってこの上ない喜びであるに違いない。
振り向くと、スタンドの背後にはレストランを兼ねた売店があり、ソフトクリームやホットドッグなど軽食が売られている。次の水曜に国立競技場で行われるJリーグの試合のチケットを売るデスクも出ている。
白熱したトップチームの試合が壮大な「儀式」のように緊張感にあふれたものであるとしたら、この日アントラーズのクラブハウス・グラウンドで繰り広げられていたのは、「村祭り」のようにほのぼのと、そして浮き浮きと楽しい行事だった。
その大きな要素のひとつがこの施設にあることは間違いがない。アントラーズは、単に練習する場所としてではなく、地域の人々がチームと、そして互いに、交流する場所として、クラブハウスを構想した。そしてその構想に従ったクラブ運営を貫くことで、アントラーズは市民生活に不可欠な存在となった。
「町に『クラブ』がある」とは、こういうことなのだ。きちんと手入れされた夢のような芝生だけでなく、クラブハウスを中心とした生活全体の「豊かさ」に、私たちは羨望の思いを抱きつつ帰途についたのだった。
(1999年5月19日)
「なるほどな...」と、思わずうなってしまった。
先月発表された2006年ワールドカップのイングランド招致委員会による「少年少女招待プログラム」だ。
計画によれば、イングランドで大会が開催されることになったら、FIFA(国際サッカー連盟)傘下の全サッカー協会からそれぞれ12人の少年少女を大会に招待するという。
招待された子どもたちは2週間イングランドに滞在し、少なくとも2試合のワールドカップ観戦が組まれる。同時に、政府が全面協力し、イングランド各地にホームステイして地域の学校に通い、各種の文化交流プログラムに参加する。費用は全額主催者もち。総額7億7500万円のプロジェクトだ。
FIFAには現在203協会が加盟しており、その数は今後数年のうちにさらに増加することが予想される。総勢2500人近くの少年少女の招待は、「スポーツ界では人類史上最大の文化交流」と、アレック・マクギバン招致委員長も胸を張る。
感心したことのひとつは、アイデアひとつで、ほとんど費用をかけずにインパクトのある招致活動をしていることだ。招致が不成功に終わった場合には、まったく費用はかからない。しかしそれ以上に、アイデアの底にある「思想」の美しさに感嘆の念を抱かずにいられない。
招致活動の中心的なスポークスマンであるサー・ボビー・チャールトン(66年大会優勝のヒーローのひとり)は、その「思想」をこう説明する。
「私たちの願いは、大会のインパクトを、32の出場国や2006年という一時期をはるかに超えたものにしたいということです。少年少女は、サッカーの未来そのものです。彼らは明日の選手であり、コーチ、サポーター、役員なのです」
2002年の招致に取り組んでいたとき、私たちにはこうした「思想」はなかったように思う。私自身も、「21世紀のテクノロジーを表現するものにしなければならない」程度の考えしかなかった。あのとき私たちの誰かにこんな卓抜したアイデアがあればと、悔やまずにいられない。
しかし改めるに遅すぎることはない。そしてまた、いいことを真似するのに恥じることはない。イングランドの「少年少女招待プログラム」の「2002年版」を、ぜひとも日韓両国の組織委員会に実現してもらいたいと思うのだ。
世界中からでなくていい。たとえばAFC(アジアサッカー連盟)傘下の42協会から10人ずつ、合計420人を招待し、日韓両国にそれぞれ1週間ずつの滞在でワールドカップを楽しみながら両国を知ってもらうという事業はどうだろう。「アジアで初めてのワールドカップ」という2002年大会のテーマのひとつにも、ぴったりのプログラムではないだろうか。
ワールドカップの準備は非常に多岐にわたっており、着実に積み重ねていかなければならないのはわかる。しかしそれにしても、現在の大会準備活動からは、「人類最大の祭典」を迎えるという浮き浮きとしたものは感じられない。あまりに「お役所的」で、夢のある「思想」が感じられないのだ。
招致活動中には少年少女からたくさんの募金を集め、彼らのサッカー協会登録費にも招致協力金を上乗せして集めるなどした。しかしワールドカップには「小学生券」はなく、このままでは、少年少女は大会のアトラクションに動員されるだけで、大会自体は大人しか見られないものになる恐れさえある。
新しい世紀を担う日本とアジアの少年少女がワールドカップを通じて交流し、大会をアジアの将来につなげることは、意味のないことではないと思う。
(1999年5月12日)
ワールドユース選手権準優勝。すばらしい戦いだった。
まずは、20日間で7試合というハードスケジュールをこなした選手とトルシエ監督をはじめとした指導陣、そして大仁団長を筆頭にチームを支えたスタッフにおめでとうと言おう。
日本サッカー協会にとっても、78年になる歴史のなかでFIFA(国際サッカー連盟)主催の世界大会準優勝は最高の成績だ。これまでの長期的な強化計画が実を結び始めた結果であり、その成功を祝いたい。
しかしこうしたユース大会での成果を見るたびに思うのは、少年チーム、中学、高校のサッカー部、町のクラブチーム、そしてJリーグまでの組織をもったプロクラブなど、ジュニア世代の指導にあたっている日本全国のコーチたちのことだ。
日本協会には、18歳以下の男子だけで約1万9000ものチームが登録されている。この年代の登録プレーヤー総数は約62万人にのぼる。
互いに切磋琢磨し、ワールドカップで活躍する選手を育てることを目指して献身的な指導をしているコーチたち。今大会に出場した18人の選手を直接指導したかどうかにかかわらず、この成績は、間違いなく全国のジュニアチームのコーチたちのものでもある。
日本全国の小学校のグラウンドで毎日繰り広げられているプレーが、中学、高校やユースクラブを経て日本ユース代表チームにつながり、ワールドユース選手権準優勝という成績をもたらしたのだ。心からおめでとうと言いたい。
しかし同時に、トルシエ監督が選手たちに何を与え、何を変えてこの成績をもたらしたのか、逆に言えば、日本のユース代表選手たちにこれまで欠けていたものも、日本のジュニアサッカーがもつ問題点であることも、忘れてはならないだろう。
チーム戦術の徹底とともにトルシエがこのチームの指導で心を砕いたのは、選手たちの「心」を解放することだった。
日本の選手たちは喜怒哀楽の感情や自分の情熱をストレートに表現することができない。それが、相手とのぎりぎりの勝負になったときの「弱さ」につながっていると、トルシエは考えた。だから自分自身を表現することを求め、そうしなければやっていけないように日常生活や練習で仕向けていった。
「おとなしかった選手たちが、いまでは、勝利の後にはみんなで歌を歌うようになった」
大会の後半、トルシエはこう語って選手たちの変化を喜んだ。そしてその変化こそ、ポルトガル、メキシコ、ウルグアイといった百戦錬磨の伝統国の若者たちに競り勝って決勝戦進出を決めたキーファクターだった。日本選手たちが少年時代から培ってきた技術や個人戦術の高さが、「心」の解放によって、ピッチの上でようやくフルに発揮されたのだ。
喜怒哀楽、情熱をストレートに表現する力。それは、自分自身を裸にし、真っ正面から見つめる力であり、人間として成長していくうえで必要不可欠な要素だ。その表現力に乏しいのは、ジュニアチームのサッカーコーチの責任ではなく、現代の日本社会がかかえる問題であるのかもしれない。しかしだからと言って、ジュニアチームのコーチたちがそれを見過ごし、仕方がないとあきらめていていいわけではない。
サッカーは全人格的なゲームである。日本ユース代表の短期間での成長、そのためにトルシエがなしたことは、その何よりの証明だった。
トルシエの指摘を率直に受け止め、これからの指導でプレーヤーたちの「心」の解放に心を砕くコーチがひとりでも多く出ることが、「準優勝」の何よりの成果になるはずだ。
(1999年4月28日)
先週、私は2006年ワールドカップのナイジェリア開催は考えられないと書いた。インフラの整備がとても間に合わないだろうと指摘した。
しかしそれはサッカーの大会を開催する資格がこの国にはないという意味ではない。いやむしろ、3年後に迎えるワールドカップを考えるとき、私たち日本にとって昨年のフランス大会以上に重要な教訓がこの国にあることを、2週間たらずのナイジェリア滞在で強く感じた。
それが、「ホスピタリティー」である。
いくつかの辞書を引くと、「親切なもてなし」「歓待」などの意味が出てくる。講談社刊『最新カタカナ語辞典』に掲載されているから、すでに日本語として通用し始めている言葉だ。
ワールドユースの取材でナイジェリア北部のカノとバウチに滞在して感じたのは、人々の心からの親切、そして見知らぬ私たちを何の抵抗もなく受け入れてくれるおおらかさだった。
通信状況の悪かったバウチでは、原稿送りのために奔走するなかである実業家と知り合った。彼の会社の回線も使えないとわかったとき、彼は迷わず自宅に私たちを連れていき、回線の新しい電話を喜んで貸してくれた。翌朝その家に忘れ物を取りに行くと、わざわざ朝食をつくってごちそうしてくれた。
クレジットカードが使えず現金不足で困ったときには、銀行の支店長がラゴスの本店に何度も電話やファクスで連絡を取り、信用で現金を出してくれた。2日がかりの作業。その誠実な対応には頭が下がった。
町を歩くと顔を合わす人々がみな「グッドモーニング」「ハウアーユー?」「ウェルカム」などと話しかけてくる。子どもたちは例外なく人なつこく、純粋な笑顔を見せる。
カノは人口200万、バウチは80万だという。乾季のせいで埃っぽく、清潔とはいえない場所も多いが、世界の大都市にありがちな「ストリート・チルドレン」を見ることはない。
この国は、つい数十年前まで、1000人単位が当然という「大家族」で構成される社会だった。子どもたちは、生みの親だけでなく、何百人、何千人もの大人や兄弟たちに見守られて育った。孤児などいるはずがなかった。その「大家族精神」がホスピタリティーを支えている。
さすがに都市化が進んだ最近では家族も小さくなり、孤児も出ているが、政府や地域社会が厚く保護している。日本チームはバウチで「孤児たちの家」を訪問したが、子どもたちはみな元気で、健康そうだった。
「ここはね、『ホスピタリティーの故郷』と呼ばれているんだよ。どんなところからきた旅行者でも、私たちは心を開いて歓待する。その人がまるで自分の家にいるようにね。それが私たちの伝統なんだ」
カノでもバウチでも、人々は同じようなことを言った。交通手段や通信手段は頼りにならなくても、しょっちゅう停電になっても、私たちのホスピタリティーは世界でいちばんだ--。人びとの誇りが、ワールドユースを支えた最大の力だった。
日本には最高レベルの交通や通信手段がある。ホテルも充分だし、スタジアムもきれいに準備される。サッカーへの関心も高まり、アメリカ大会のときのような寂しいワールドカップになることもないだろう。
しかし「ホスピタリティー」はどうだろう。世界から来るファン、選手や役員、報道関係者たち。その人々を心を開いて歓待するマナーが、いまの日本にどれだけ残っているだろうか。
大会を大過なく運営するだけでは、2002年ワールドカップが美しい思い出となることはない。「ホスピタリティー」をどう発揮するか。それは、すべての日本人の課題だ。
(1999年4月21日)
「スタジアム、トレーニング施設、ホテル、移動手段、すべてが申し分ない。セキュリティの面で心配する人もいたが、何の問題もない。ナイジェリアを開催国に選んだことを、FIFAは誇りに思う」
「これは、アフリカで国際イベントができるという何よりの証明であり、2006年のワールドカップをアフリカにもってくるのが論理的に正しいという私の考えに確信をもった」
ナイジェリアで行われているワールドユース選手権の日本の初戦が行われたカノで、FIFA(国際サッカー連盟)のヨゼフ・ブラッター会長は自信にあふれた表情で語った。
日本と韓国が激しく招致を争ってから3年。早くも次の2006年大会の開催国決定の話題が盛り上がっている。
昨年の12月に締め切った立候補申し込みには、驚くことに8つもの協会が開催の意思を表明した。ヨーロッパからドイツとイングランド、南米からブラジル、そしてアフリカからは、エジプト、モロッコ、ナイジェリア、ガーナ、南アフリカと、なんと5つもの国が立候補しているのだ。
かつて、ワールドカップが2回連続してヨーロッパを離れたことはなかった。UEFA(ヨーロッパサッカー連盟)は、2006年大会まではその「既得権」を主張している。
しかしブラッター会長は、事務総長時代から一貫して「アメリカの番」を唱えてきた。ドイツとイングランドという、文句のつけようのない「サッカー大国」があったとしても、94年アメリカ、98年フランス、そして2002年日本・韓国ときたら、次はアフリカというのが論理的だと言い続けてきた。
その裏には、FIFAとブラッター会長への挑戦の姿勢を年ごとに深めるUEFA、そしてその会長であるレンナート・ヨハンソンへの対抗策として、アフリカからの支持を手放すわけにはいかないという事情がある。ヨーロッパ諸国からの反対を制して今回のワールドユースをナイジェリアで強行したのも、そのひとつの現れなのだ。
しかしこのナイジェリアでの大会をふまえて「ワールドカップ開催の資格は十分」というのなら、あまりに無責任だ。
ナイジェリアの人々はすばらしく親切で、サッカーも心から愛している。代表チームも優勝候補に挙げられる強豪だ。その面では、日本も韓国も足元にも及ばない。しかしスタジアム施設が貧弱なだけでなく、トレーニング施設も十分ではない。何よりも、大会を開催するためのインフラがまったく不足している。交通手段、通信手段、宿泊施設、すべてが足りない。さらに、衛生状態が悪く、伝染病の心配も無視できない。
大会までに大きく改善されるものもあるだろう。しかし7年後に、すべて万全の状態でワールドカップを迎えられるとは、とても考えられないのだ。
多くの人が見るところ、アフリカで唯一ワールドカップ開催が可能なのは南アフリカだ。インフラの面でもまったく問題はないという。
サッカー王国ブラジルは、施設の老朽化ととともにインフラ整備の見通しが立たず、こちらも現実的ではないようだ。結局のところ、可能性があるのは、ドイツ、イングランドと、南アフリカということになる。
「アフリカで開催というが、いったいどの国なんですか」
記者会見の席上、ブラッター会長にナイジェリアの記者から鋭い質問が飛んだ。会長は苦笑しながら「アフリカとは、アフリカです」としか応えなかった。
2006年ワールドカップの開催国は、来年3月のFIFA理事会で決まる。あと1年、アフリカの動きからも目を離すことができない。
(1999年4月14日)