
「82年大会で、イタリア主将のゾフの手にカップが握られたときには、本当に感激したよ。今回のワールドカップはどこが優勝するかわからないが、あのトロフィーは、イタリア生まれであり、これからも変わらずにイタリアのものでもあるんだ」
と語るのは、ことし81歳になったシルビオ・ガッツァニガさん。イタリアのミラノにある「ベルトーニ」社のデザイナー、というより、ワールドカップ優勝チームに授与される「FIFAワールドカップ」の生みの親である。
国際サッカー連盟(FIFA)発行の隔月刊「FIFAマガジン」最新号に、ガッツァニガさんのインタビューが掲載されている。聞き手は、ベテラン・ジャーナリストのセルジオ・ディチェーザレさんだ。
1970年ワールドカップでブラジルが3回目の優勝を飾って「先代」の「ジュール・リメ・カップ」を引退させた後、FIFAは新しい優勝トロフィーのデザインを世界中に公募した。53ものデザインが、当時のFIFA会長スタンレー・ラウスを委員長とする選考委員会にかけられ、ガッツァニガさんのデザインが選ばれた。
「デザインにあたって、私はふたつの基本的な要素を考えた。選手と、そして世界だ。努力と献身をシンボライズするとともに、調和と、シンプルさと、平和を表現したいと思った」
「できるだけシンプルなシルエットにして、見る人の注意が、トロフィーにではなく、それを受け取る選手に向けられるように意図した。主役は選手なんだからね。彼らは英雄ではあるが、スーパーマンではない。努力と痛みの末に勝利をつかんだ人びとだ。勝利の瞬間、選手たちは両手を高く上げる。まるで世界全体を抱擁しているように見える。それこそ、このサッカーというスポーツの普遍性を体現するポーズだと考えたんだ」
デザインの意図を、彼はこう説明する。
驚いたことに、ガッツァニガさんはまだ「現役」で、いまもデザイナーとして活躍しているという。FIFAワールドカップの後には、UEFAカップ、UEFAスーパーカップなどの優勝トロフィーも手がけた。そしてサッカーだけではない。いろいろな競技のトロフィーの制作にも当たった。最近では、現在キューバが保持している野球のワールドカップが、ガッツァニガさんのデザインだ。
30年の第1回ワールドカップから使用された「ジュール・リメ・カップ」は、ふたりの女神が静かに八角形のカップを支えていた。74年大会で西ドイツのフランツ・ベッケンバウアーの手に初めて握られた「FIFAワールドカップ」は、歓喜あふれるふたりの選手が地球を支えるデザインになった。
制作から30年を経たいまも、そのデザインの力強さと美しさが失われることはない。むしろ大会を重ねるごと、新しい優勝チームのキャプテンの腕に抱かれるごとに、輝きを増しているように思える。
そして日本と韓国の共同開催で迎えた2002年大会では、新しい意味がこのトロフィーにつけ加えられたのではないか。地球を支えるふたりの選手が、日本と韓国のようにも見えるのだ。
心をひとつにし、力を合わせて大会を支えなければならない。両国のバランスが崩れたら、「地球」は転がり落ちてしまうだろう。
しかし何より大事なのは、ガッツァニガさんがデザインしたトロフィーに彫られた選手たちのように、大会開催の「喜び」の気持ちを世界に示すことではないか。世界をひとつにするワールドカップ。その根源的な力は、サッカーというスポーツがもたらす「喜び」にあるからだ。
(2002年2月27日)
ワールドカップの全世界の放映権をもつドイツのメディアグループ「キルヒ」が数千億円という負債をかかえ、倒産の危機に立っているという。国際サッカー連盟(FIFA)は「キルヒからの支払いの大半は終了しており、問題はない」と発表しているが、簡単な話ではないようだ。
キルヒは、大会の国際映像制作の責任も負っているからだ。日本・韓国のテレビ局と契約して映像制作を依頼するという方法もあったが、キルヒは自らHBCという会社を設立し、ヨーロッパの技術者を集めて映像を制作することを選んだ。もしキルヒが倒産したら、このシステムが機能しなくなる恐れがある。
ワールドカップの開催とテレビ放映は、いまや不可分のものだ。歴史は、テレビがワールドカップの人気を世界に広げ、同時に、ワールドカップの人気がテレビの普及をうながしたことを語っている。
イギリスの放送局BBCがラジオの本放送を始めたのは1922年のこと。その数年後には、世界各地でテレビ技術の研究が本格化した。そして1938年、BBCが今日に近い放送技術の実験を始めた。選ばれた番組はサッカー。FAカップの決勝戦だった。
第二次大戦後、アメリカでテレビ放映が盛んになるなかで、ヨーロッパではユーロビジョンと呼ばれるネットワークづくりが始まった。平和なヨーロッパをつくるためには文化交流が必要という考えからだった。そして、その最初のプロジェクトが、54年のワールドカップ・スイス大会の中継だった。
南米では、62年のワールドカップ・チリ大会が大きな働きをした。この大会では、現地で制作された映像が空輸されて翌々日にはヨーロッパで放送された。そしてブラジルでは、翌63年に本格的なテレビ放送が始まった。
66年のイングランド大会は、衛星を使用して国際中継された最初の大会だった。ワールドカップが真に世界的なスポーツイベントとなる第一歩だった。
ブラジルで衛星中継のライブ放送が見られるようになったのは70年メキシコ大会からだった。広大な領土と多彩な人種、2億を超す人口をもつこの巨大国家が一体感をもてるようになったのは、カナリア色のユニホームを着た「セレソン」への誇りが共有されたこのときからだったといわれている。
4年にいちどのワールドカップごとに、テレビ中継の技術は進歩した。カメラの台数が増やされ、ゴール裏からの映像、スローリプレーなど、視聴者をひき付ける映像が生まれていった。それによってワールドカップの人気は高まり、同時に、全世界のテレビ受像機の数も、ワールドカップごとに飛躍的に伸びた。
テレビ放送の成功が、ワールドカップにスポンサー契約という新しい時代をもたらしたのは82年大会。ピッチの周囲に広告看板を置くだけで数十億円という契約は、テレビあってこそのものだった。
こうしてワールドカップは、98年フランス大会には延べ視聴者数370億人という膨大な数字を示すイベントとなった。決勝戦を見たのは、実に全人類の4分の1にもあたる15億人だったという。ワールドカップが世界を結び付けているのではない、正確には、「ワールドカップのテレビ放送」が世界を結び付けているのだ。
2002年大会では、これまでの6倍以上の約1000億円という放映権料が設定されたワールドカップ。財政面からも、テレビなくしてワールドカップが成り立たないことは、もう否定することのできない事実だ。
どんなことがあろうと、ファンを失望させないテレビ放送の実現が必要なのは、言うまでもない。
(2002年2月6日)
世界の頂点を競うワールドカップ。それは、プロフェッショナルたちがしのぎを削る戦場だ。「戦士たち」は、ほんのわずかなミスも見逃さず、相手の弱点をついて勝ち上がっていく----。
そんなワールドカップに出場するある選手の自伝を読んでいて、私はまったく別の思いにとらわれた。思い出したのは、高校時代の遊び時間のサッカーだった。
私の学校には、休み時間の遊び場としてアスファルト舗装の中庭があった。そして私たちの「遊び」は、1年中、サッカーのゲームだった。
サッカーのためにつくられた中庭ではない。私たちのゴールは、両隅にあるトイレの壁だった。そこだけ違う色に塗られていたからだ。ふたつのゴールは、正対さえしていなかった。90度の角度で向き合っていたのだ。
それでよかった。大きな展開やスピーディーなプレーができるわけではない。いろいろなグループがいろいろな遊びをしていた。ほかの遊びをじゃましないように、かいくぐるようにパスを回し、ドリブルで進んでいくのだ。
ボールは当たっても危険のない軟式テニス用のゴムマリだった。
狭い中庭に、そんなサッカーのグループがふたつも3つもあった。学年ごとのグループだったのだろう。まさに入り乱れてゲームに興じていた。不思議にけがはなかった。
どうチームの区別をしたのか、よく思い出せない。片方のチームがシャツを腕まくりして区別していたような気もする。とにかく、そんなことで苦慮した記憶などないほど、私たちは「中庭のゲーム」に熱中した。
朝礼前にもゲームをするために、私は始業20分前には学校に着いた。高校の3年間を通じて遅刻も欠席もなかったのは、このゲームのおかげだった。
そして昼休みこそ、私たちの1日のハイライトだった。30分以上プレーできたからだ。私たちは弁当を3分間でかきこみ、誰よりも早く中庭に出てゴールを確保し、ゲームを始めた。昼食後の5時間目、最初の10分間は、流れ出る汗を拭くことで費やされた。
私たちの学校は、サッカーが盛んだった。サッカー部員だけでなく、バドミントン部員、テニス部員、新聞部員など、いろいろな連中が参加していた。バレー部員は、ヘディングの名手だった。空中での姿勢が、うっとりするほどきれいだった。
みんながそれぞれの得意技をもち、短い時間のなかでそれをいかに表現するかを競った。そうしたプレーができた者は、本当に幸せそうな顔をしていた。いや、得意なプレーができなくても、私たちはみんな幸せだった。
その幸せな記憶が、いまも私たちをサッカーと結びつけている。私のようにサッカーを仕事にまでしてしまった者は他にはいないが、多くの同級生が、いまでもシニアチームで試合をし、あるいはフットサルに興じている。
少年時代の幸せなゲームの記憶は、おそらく、ほとんどのサッカー選手にあるはずだ。Jリーグの選手も、ワールドカップのトップスターも、そのサッカーの原点は、少年時代の幸福感に違いない。
冒頭の「自伝」の選手は、空き地に変形のグラウンドをつくり、近所の友だちとそこでゲームに興じた。その幸福感こそ、世界的な名選手になるスタート台だった。
ワールドカップの「戦士たち」の心の底にも、少年時代の幸福なゲームの記憶が眠っている。そしていまも、意識下から彼らを動かしている。
どんな「ビッグビジネス」の時代、どんな「組織的サッカー」の時代になっても、ワールドカップが私たちに夢や喜びを与えるのは、そのおかげに違いない。
(2002年1月30日)
サッカーというスポーツの「伝説」のひとつに、戦争中、イギリス軍とドイツ軍の兵士たちが戦場で試合をしたという話がある。
ヨーロッパを中心に4年間にわたって行われ、1000万人の死者と2000万人の負傷者を出した第一次世界大戦。伝説の試合は、1914年のクリスマス休戦中に行われたという。
イギリス軍とドイツ軍が激しく対立した北フランスからベルギーにかけての戦場。その朝、銃声がぴたりと止み、あたりは静寂に包まれた。
イギリス軍の塹壕(ざんごう)のどこからか、クリスマスを祝う歌声が小さく流れた。それに呼応するように、ドイツ軍の塹壕からは合唱が上がった。そのうち、ドイツ兵が何人か、無人の戦場に這い出してきた。彼らは冬の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。そしてイギリス兵たちも、塹壕から立ち上がった。
このとき北フランスのラバンティ村郊外の戦場にいたイギリス兵のひとりで、昨年106歳で亡くなったバーティー・フェルステッドさんは、こう思い出を語っている。
「最初は、ただ見合っていた。何をしようということもなかった。しかしそのうちに誰かがサッカーをやろうと言い出した。もちろん、戦場にサッカーボールなんてなかった。そのへんのぼろきれを集めて丸め、つくりあげた。そしてけり始めると、すぐさま試合になった」
「試合といっても、子どもの遊びみたいなものだ。両チームとも50人ほどいただろう。ゴールは目印を置いて決めたけど、何点はいったのか、誰も数えなかったよ」
休戦時の交流は、前線のいろいろなところであったようだ。あるところでは、ひとしきり「歌合戦」が行われた後、互いに歩み寄り、タバコを分け合い、記念品の交換が行われた。しかし多かったのはサッカーの試合だったらしい。
「どこからか、本物のサッカーボールが出てきた」という証言もある。「ザ・タイムズ」紙は、ある戦場でイギリス軍が2−3で敗れたという「記録」を掲載している。
すべてが、フェルステッドさんの経験した試合のように、ただ楽しみのためだけの試合だった。砲弾がつくった穴だらけの戦場。しかし両軍の兵士たちは、嬉々としてボールを追い、開放感に浸った。
そのなかで、互いに敬意が生まれた。ドイツ兵たちは、イギリス兵のドリブルの迫力に舌を巻いた。そしてドイツ兵たちが「とてもいい連中」で、「尊敬すべき」「紳士たち」だったと、イギリス兵たちも口々に語っている。
両軍の兵士たちには、共通の思いがあった。政治家たちが始めた戦争に駆り出され、毎日、生命を危険にさらされ続けることに、兵士たちはうんざりしていたのだ。
ヨーロッパのサッカーは、第一次大戦後に大きく観客数を伸ばした。それは、戦争体験により、平和の尊さ、何も心配なくサッカーを楽しめることのありがたさを、人びとが再認識した結果に違いない。
フェルステッドさんは、こう話している。
「私がそのゲームに参加したのは、ただサッカーが好きだったからだよ」
しかし試合は長くは続かなかった。敵軍と遊んでいる兵士たちを見て激怒したイギリス軍のひとりの少将が、「停戦」を命じたからだ。イギリス兵たちはただちに自分の塹壕に戻った。当然、ドイツ兵たちも同じようにしなければならなかった。
上官の命令には勝てない。しかし「ドイツ野郎をやっつけろ」などとはっぱをかけられても、イギリスの兵士たちは、いっしょに遊んだドイツ兵たちの生き生きとした笑顔を思い浮かべ、しばらくは本気で銃を撃つことができなかったという。
(2002年1月23日)
「メディアの戦い」が始まるーー。
天皇杯後、ほんのつかの間のオフを楽しんだ日本代表選手たちは、来週の月曜日、1月21日から鹿児島県で合宿にはいる。6月4日に行われるベルギー戦まで、いよいよワールドカップへの準備の最終段階が始まる。
3月から5月までの間にこなされる準備試合は総計8。国内で5試合、残りの3試合はヨーロッパで行われる。その一つひとつが、選手たちにとって厳しい真剣勝負だ。
合宿に40人あまりの選手を招集したフィリップ・トルシエ監督にとっても正念場だ。ワールドカップを戦う23人を、5月21日までに決めなければならない。頭のなかにはチームの大半はでき上がっていることだろう。しかし選手を選ぶ作業、すなわち誰かを落とさなければならない作業は、どんな優秀な監督にとっても簡単ではない。
そして、ワールドカップまでの130日間は、選手や監督の戦いと同じように、「メディアの戦い」でもあると、私は考えている。
昨年11月のイタリア戦後、トルシエは「明日がワールドカップ開幕でもだいじょうぶ」と語った。たしかに、昨年の強化試合を通じて、日本代表が短期間のうちに自信を深めたのがわかった。立派に、ワールドカップを戦えるチームが完成したと思う。
しかしひとつだけ未知数がある。大会が近づくに従って強くなるプレッシャーだ。日本選手たちは、これまでも重要な試合をいくつも経験してきた。優勝をかけた試合もあった。しかし「地元開催のワールドカップ」は、誰も経験したことがない。
一昨年のアジアカップ決勝で、トルシエは選手たちの精神的落ち着きに驚いたという。しかしそれは中東レバノンでの大会だった。こんどは、世間の騒音から遮断されたホテルにいても、テレビや新聞が自分たちの話題ばかりという状況になる。選手たちがどんな精神状態になるか、まったく予想がつかない。
そこで大事になるのが、メディアの姿勢だと思うのだ。
もちろん、メディアの役割として、日本代表やワールドカップの話題を大量に報道することになる。それによって国民的期待が増幅され、プレッシャーとして選手たちに重くのしかかっていくだろう。それは当然のことだと思う。
しかし報道というのは、ひとつの記事、ひとつのコメントが暴力にも似た働きをし、選手や監督に大きなストレスをかけることも可能な道具なのだ。メディア側は、それを意識しなければならない。
4年前のフランス大会で日本代表の監督を務めた岡田武史さんは、準備期間から大会を通じて、メディアのプレッシャーから選手たちを守る手段がなかったと、大会を振り返った。言ってもいないことを書かれても、選手や監督には反論の機会がない。そうしたことの積み重ねが、大きなストレスになったという。
大会前の準備試合の結果に一喜一憂してはいけない。それが6月の試合とどうつながるのか、冷静に判断した報道に努めなければならない。
センセーショナリズムに走ってはいけない。ジャーナリストは、自分たちが新聞や雑誌を売るためでなく、日本代表チームとファンの橋渡し役として存在することを常に念頭におかなければならない。
ひたすら「がんばれ」とか、選手をスター扱いする報道をしようと言っているわけではない。メディアとしての責任を感じて、これからの130日間を過ごさなければならないということだ。
ワールドカップはチームだけの戦いではない。協会、メディア、ファン...。勝負を決めるのは一国の総力だ。メディアにとっても、大変な戦いであるのだ。
(2002年1月16日)