サッカーの話をしよう

No.607 ドイツの夏が終わった

 32年の時を経ても、ドイツの夏は美しかった。豊かな林に囲まれた田園も、緑にあふれた都市も、整然とした街並みも、そして社会のいろいろなシステムも、とても心地良かった。
 大会前の日本代表の親善試合を含め、ワールドカップの取材で1カ月半もドイツに滞在した。最初の10日間ほどはのんびりと過ごしたが、大会が始まると、まるで矢のように毎日が過ぎ、気がつくと、決勝戦、ベルリン・オリンピックスタジアムのスタンドに立っていた。
 「74年ワールドカップに向けて建設されたスタジアムが老朽化し、建て替えなければならない時期にきている。だからぜひともワールドカップをやりたいんだ」
 8年ほど前、招致活動を始めたころ、その中心人物のひとりだったフランツ・ベッケンバウアーはそう説明した。国家的には、フランスに遅れて着手された高速鉄道網の整備という目的があった。しかし何より、分断されていた東西が統一されて16年、「ドイツ」という国がいかに変化したかを見てもらいたいという動機が強かったに違いない。

 確かにドイツは変わった。何よりも人びとが非常にオープンになった。こちらがドイツ語はできないと知ると、どんなにたどたどしくても英語で話そうと努力する人など、32年前にはいなかった。
 東西統一に続く欧州連合(EU)の本格的な統合により、ドイツは急激に国際化し、人びとは対応を迫られた。その結果、格好を気にするよりもコミュニケーションをとること自体が大事と、オープンな姿勢が生まれたのだ。
 「ドイツ人は、徹底した個人主義で冷たい」
 以前はこれが定説だった。しかしひと皮むいてオープンになると、根っからの親切な性格が表れた。

 シュツットガルトで、仲間の記者と路面電車に乗っていた。降車駅に着いてドアを開けようとしたが開かない(ドイツでは路面電車も高速新幹線もドアは自分でスイッチを押して開ける)。すると、驚いたことに、そのとき同じ車両内にいた10人近くの人びとがいっせいに立ち上がったのだ。
 「そのドアは壊れている」という人。別のドアのところに行き、それを開けてくれる人、そのドアが閉まらないよう押さえてくれる人。運転手に向かって何か叫ぶ人...。私たちは感謝の言葉をかけながらあわててそのドアから降りた。私たちが降りると、ドアが閉まり、電車が動きだした。さっき大騒ぎしてくれた人びとは、それぞれ何気ない顔で座席に座り。こちらを見ていた。私たちは深々とおじぎをした。

 人びとがオープンになったことで、ワールドカップはひときわ楽しい雰囲気になった。ドイツが勝った日には各地で花火が上がり、人びとはドイツ代表のユニホームを着て深夜まで町を練り歩いた。そして以前であればドイツ人の関心など引くはずのない1次リーグのカードにも観客が押しかけ、スタジアムが満員になった。ドイツ人たちは、前評判の低いチーム、負けているチームに大きな声援を送り、試合を盛り上げた。
 大会を追いながら、わずか30年あまりでのドイツ人たちの変化に驚き、2回目のワールドカップ開催とは、こういうことなのだと考えた。スタジアムやテクノロジーだけでなく、人びとがより国際的になり、「ホスト」にふさわしい態度を身につけたことを示すものなのだと...。
 そしてあっという間に1カ月が過ぎ、大会が終了した。決勝戦の翌朝、ベルリンの空には、秋を思わせる雲が浮かんでいた。
 まだ暑い日が続くのかもしれない。しかし私にとっての「ドイツの夏」は終わったのだと、そのとき痛切に感じた。
 
(2006年7月12日)
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1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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