サッカーの話をしよう

No.600 30年ぶりに戻った国宝

 イングランドの西北部にプレストンという町がある。人口約13万人。19世紀の産業革命時代に重工業の中心地のひとつだった。サッカーでは、「プレストン・ノースエンド」というクラブで知られている。
 現在はプレミアリーグの下のリーグでプレーしているプレストン・ノースエンドだが、サッカー史の上では輝かしい栄光に彩られている。1880年に創設され、イングランドで最も早くプロ選手を導入して1889年には第1回のイングランド・リーグで優勝を飾っているのだ。
 所在する地区の名前をとって「ディープデイル」と呼ばれるスタジアムは1878年建設。もちろん、その後何度も建て替えられ、現在では三方を近代的なスタンドで囲まれているが、128年間も同じグラウンドでプレーしているのは、世界でもここひとつだけだ。今回の話の主役は、そのスタジアムのスタンド下に設置された「ナショナル・フットボール・ミュージアム」所蔵の1個のボールだ。

 40年も前にスラセンジャー社が製作したオレンジ色のボールである。24枚のパネルを縫い合わせたのは、マルコム・ウェインライトという職人だったという。
 ところどころすり切れたボールは、イングランドで開催された1966年ワールドカップの決勝戦で使用されたものだ。そう、「サッカーの母国」イングランドがようやく世界チャンピオンになった日に、イングランドと西ドイツ、両チームのゴール間を忙しく動いたボールである。
 当時は「マルチボール・システム」などない。この1個のボールが、イングランドのゴールに2回、そして西ドイツのゴールには4回(そのうち1回は極めて怪しいが...)転がり込んだのだ。

 しかしイングランドの「国宝」と言っても過言ではないこのボールは、それから30年間も祖国を離れていた。ドイツ南部のアウグスブルク市にある豪邸の地下貯蔵庫で大事に保管されていたのだ。
 ボールを保持していたのはヘルムート・ハーラー。西ドイツ代表のFWとして66年の決勝戦に出場し、先制点を決めた選手である。実はドイツには、「試合の1点目を決めた選手が使用球をもらう権利がある」という習慣があった。その習慣に従って、彼は準優勝のメダルとともに、当然のようにこのボールをもって帰国の途についたのだ。
 ワールドカップ初優勝で舞い上がっていたイングランドの選手たちは、ハーラーがボールを抱えている姿を見ても誰も気にも留めなかった。ハーラーはその晩の公式晩餐会にこのボールを持ち込み、イングランドの数選手にサインさえしてもらっていたという。優勝の重要な記念品が手元にないことにイングランドの人びとが気づいて返還を求めたのは、ずいぶん後になってからのことだった。

 イングランドには、「ハットトリックを達成した選手は誰にも優先して使用球をもらう権利がある」という習慣があった。この決勝戦で3ゴールを挙げたジェフ・ハーストこそ正規の所有者だとイングランドの人びとは主張した。しかしドイツにはドイツの習慣があり、ハーラーは「自分のものだ」と言い続けた。
 ようやくハーラーが求めに応じたのは、1996年のことだった。イギリスの大衆紙「ミラー」が懸命に返還交渉を行い、ミラー紙が7万ポンド(約1400万円)を福祉活動に寄付するという条件でハーラーがボールの返還を承諾したのだ。
 「マルチボール・システム」により、今日のワールドカップでは1試合で15個ものボールが使用される。決勝戦使用球の「重さ」は、ルール上は同じでも、心理的にはずいぶん違うのかもしれない。いずれにしろ、大事なのは、ボールそのものではなく、ボールを相手ゴールに入れる回数なのだが...。
 
(2006年4月12日)
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サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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