サッカーの話をしよう

No.592 跳ばないハートソン

 右サイドのFK。中村俊輔の左足から放たれたボールは高く舞い上がり、突然、急角度でゴール前になだれ落ちる。相手チームの選手たちは、GKも含めて魅入られたようにこのボールを見送る。
 そのとき、白と緑の横じまのユニホームの選手がただひとり走り込む。彼はボールの落下地点に正確に到達し、軽くジャンプしながら頭で合わせてゴールに流し込む...。
 スコットランド・プレミアリーグで首位を快走するセルティックで中村とコンビを組んでゴールを量産しているFWジョン・ハートソンは不思議なプレーヤーだ。大きな体を生かしたポストプレーを得意としているのだが、ヘディングをするときほとんどジャンプしないのだ。
 185センチという背の高さは、現在のヨーロッパでは特別長身というわけではない。昨年のFIFAクラブワールドチャンピオンシップに出場したときのリバプールは、平均身長が188センチもあった。ハートソンの身体的特徴は、スキンヘッドだけでなく、まるでラグビーのFWのようながっしりとした上半身にある。この身長で、体重が公称92キロもあるのだ。
 ロングパスが送られると、ハートソンはすばやくポジションを取り、ボールが落下してくるのを待つ。そしてまったくジャンプせず、ヘディングで味方に正確につなぐ。もちろん相手チームDFが背後から激しく競りかけるが、彼はそのずっしりと重い体でブロックし、微動もしない。両足をグラウンドにつけたままのヘディングだから、精度は非常に高い。
 飛んでくるボールの落下地点の見極めが誰よりも早く、正確だ。それがハートソンの最大の長所だ。鈍重そうに見えるが、彼の頭蓋骨のなかには、スーパーコンピューターなみの頭脳が詰まっている。
 そもそも、コンピューターが開発されたのは、大砲の弾道計算のためだったといわれる。何キロも何十キロも先の標的に向かって弾丸を発射する大砲。しかし正確に着弾させるためには、気象条件に応じて、発射のための火薬の量や発射角度を調整しなければならない。気温、湿度、風向き、風速に応じた調整の表をあらかじめつくっておかなければ、せっかくの大砲も、戦場ではまったく役に立たないものになってしまう。
 その表をつくる計算は、人力では1カ月もかかるものだった。そこで、第2次世界大戦が始まったころ、アメリカの陸軍は高速計算機の開発を進めた。完成は1946年。それが、今日のコンピューターの元祖だという。
 サッカーボールの弾道計算は、間違いなく、鋼鉄の筒と火薬で発射される弾丸より複雑だ。ボールをけるのは、それぞれに筋力や技術が違い、微妙なくせのある人間の足であり、あんなに大きいのにわずか400グラムしかないボールには、気まぐれな回転が与えられているからだ。
 「ヘディングが強い選手」とは、背が高い選手でも、ジャンプ力がある選手でもない。もちろん、そうしたものが必要になる場合もあるが、すばやく正確な落下地点を見極めることさえできれば、背が低くても試合中の多くの状況で競り合いに勝つことができる。ヘディングをするのは首とともに全身の筋肉と頭蓋骨だが、実は、その頭蓋骨の中に詰まっているものの働きこそ、最も重要なのだ。
 オーストラリア、クロアチアという長身選手ぞろいのチームとワールドカップで対戦することになった日本。高くボールが上がるたびに負けていたら、相手ペースの試合になってしまう。ジーコ監督は、とにかく競り合って、相手に自由なヘディングをさせないことが大事だと話す。
 それとともに、ボールの落下地点を相手よりコンマ1秒でも早く見極める頭脳のトレーニングも有効ではないかと、私は思っている。
 
(2006年2月1日)
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サッカーの話をしようについて

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