サッカーの話をしよう

No.484 英雄たちのいる町

 今週も、日本代表の遠征取材で訪れたルーマニアの首都ブカレストの話から始める。
 短い滞在の最終日は穏やかな日差しに恵まれた日曜日。出発は午後の便だったので、午前中、静かな町を歩いた。そして大通りから少し奥まった通りでステアウア・ブカレストのクラブショップを発見した。
 ステアウアは国軍のクラブ。1947年の創立以来、リーグ優勝21回という圧倒的な強さを誇る。強いだけではない。ブカレスト市民、そしてルーマニア国民に最も愛されているクラブでもある。
 何か買って帰りたかったが、残念なことに「日曜は閉店」と書いてある。しかし大きな窓を通して店内の様子を見ることができた。ステアウアの赤いマフラーやユニホームだけでなく、ルーマニア代表のユニホームも売られていた。

 店内をのぞき込むうちに、壁に思いがけないものを発見して小さなショックを受けた。背番号7のついたルーマニア代表の黄色いユニホーム。番号の上に「LACATUS」の文字があったのだ。
 マリウス・ラカトシュは64年4月5日生まれ。19歳でルーマニア代表にデビュー、22歳で迎えた86年のトヨタカップではステアウアのエースだった。そして90年ワールドカップではソ連戦で2ゴールを決めて世界の注目を集め、大会後、イタリアのフィオレンチナに移籍した。
 その後、スペインのオビエドを経て94年にステアウアに復帰、代表にも返り咲いた。そして98年ワールドカップまでルーマニアの牽引車となって活躍した。
 ルーマニア代表84試合13得点。同時代のルーマニア代表の代名詞でもあったゲオルゲ・ハジの記録には及ばないが、ステアウアのファンにとっては誇りに違いない。

 小さなショックは、引退からずいぶん時間がたち、現在のステアウアにも数多くのスターがいるのに、いまもラカトシュが最大の「英雄」と遇されている事実だった。
 ブカレストを後にして訪れたフランスのマルセイユでは、93年のUEFAチャンピオンズリーグ優勝の写真がいまも町のあちこちで見られた。その決勝ゴールを決めたバジール・ボリは、この町の変わらぬ英雄だ。
 大スターの移籍も珍しくないヨーロッパのサッカー。しかし移籍で他のクラブに行ってしまっても、あるいは引退して舞台から消え去っても、人びとは彼らが自分たちに与えてくれた栄誉や幸福感を忘れることはない。
 彼らの活躍は親から子へと語り継がれ、出版物などでも繰り返し言及されて、やがて伝説となる。そんな英雄が、どのクラブにも、そしてどの町にもいる。それがクラブへの誇りや愛情につながる。

 日本ではどうだろうか。他のクラブに移籍した選手がライバルとしてホームスタジアムに戻ってきたとき、拍手で迎えられるだろうか。長く活躍した末に引退した選手たちは、その後も敬意を払われ、クラブや町の英雄として扱われるだろうか。
 たとえば、サンフレッチェ広島を94年第1ステージ優勝に導いたヒーロー高木琢也の名は、いまも広島の人びとの話題に上るのだろうか。鹿島の人びとは、Jリーグの最初の優勝の原動力ひとりだった好漢DF大野俊三をいまも誇りに思っているだろうか。
 スターは次つぎと生まれる。しかしサッカークラブはスクリーン上だけの夢の世界ではない。ピッチ上で生身の選手たちが情熱を傾けて戦った試合やプレーの数々を、まるでポスターを張り替えるように忘れてしまうのは、もったいなさ過ぎる。
 「英雄たち」の伝説が長く生き続ける町。それこそ、「サッカーが文化を豊かにした町」ではないだろうか。
 
(2003年10月22日)
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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