サッカーの話をしよう

No.447 川に落ちたサッカーボール

 目黒川沿いの遊歩道を歩いていたら、数人の若者がわいわいと騒いでいるのに出くわした。みんな20歳前後だろうか。そのひとりが、川に面した高さ1メートルほどの柵を乗り越えようとしている。
 完全管理された都心の川である。両岸は、コンクリートの壁が5メートルほどの高さで垂直に切り立っている。柵を乗り越えた若者に、仲間のひとりが奇妙なものを渡した。2メートルほどの棒(多分、物干し竿か何かだっただろう)の先に、広げた傘がくくりつけてある。
 「どうしたの」と聞くと、「ボールを落としてしまった」と言う。
 「何のボール?」
 「サッカー」
 その一言で、散歩の足を止めて事態を見守ることにした。

 柵から身を乗り出してのぞき込むと、ちょうど、こちら側の岸壁に梯子がある場所だった。といっても、コンクリートの壁に一定間隔でコの字型の金具を打ち込んであるだけ。私なら、片手に物をもったまま降りていくなど絶対に遠慮したいところだ。しかし「ボール救出」の使命を帯びた若者は、急ごしらえの「ボール拾い器」をもって、身軽に降りていく。
 そこへ上流のほうからゆっくりとボールが流れてきた。「救出係」ははしごにつかまったまま、器用に器具を扱ってボールを拾い上げた。しかし傘の中には水がいっぱいたまっている。
 「それは捨ててもいいぞ」
 上の仲間が声をかける。
 「でも、川が汚れるから」
 「救出係」は最後までプロフェッショナルだった。まず左手一本でボールを数メートル上の遊歩道に投げ上げ、次に傘を傾けながら水中から引き抜き、さっそうと上がってきたのである。

 この光景を見ていて、オランダで買った写真集のなかの1枚を思い出した。
 オランダの「草サッカー」の風景を集めた写真集に、奇妙な写真があった。ひとりの少年が、小さな用水路に落ちたボールを、器具を使って拾い上げようとしているのだ。
 国土の多くが埋め立て地で成り立っているオランダでは、運河と用水路が国土狭しとはりめぐらされている。田舎町では、ゴール裏にこうした用水路があるサッカーグラウンドも珍しくはない。もちろんフェンスは設置してあるが、フェンスがあればそれをはるかに越えていくシュートを放つプレーヤーがいるのは、この競技の常である。
 その結果、試合中になんどもボールが落ちる。用水路に落ちたボールを拾う光景は、オランダの「草サッカー」ではごく日常的なものだという。備え付けの器具(もちろん、手作りだ)を使ってボールを拾い上げる行為も、彼らのサッカーの一部になっているのだろう。

 日本でも、ボールが川に落ちたら、みんなで一生懸命に拾おうとする。しかし一般に日本の川は流れが速く、瞬く間に流れ去ってしまう。
 私が出会った4人の若者は幸運だった。真冬の目黒川は水量が少なく、眠るようにゆったりと流れていたからだ。
 ボールをけっていた小さな公園から400メートルほど下流にいったところで、彼らは例のはしごを見つけた。そしてそこまでボールを追ってくる間に知恵を絞り、材料を集めて「器具」をつくり上げた。限られた時間のなかでみんなが力を合わせて成し遂げた「救出劇」だった。
 もちろん、4人は大喜びだった。「救出係」は英雄のようにたたえられ、誰の表情も生き生きと輝いていた。
 「写真撮ろうぜ」
 ひとりが言った。最近の若者は記念撮影好きだが、サッカー遊びもカメラ持参かと驚いた。しかし彼がポケットから取り出したのは、1台の携帯電話だった。
 
(2003年2月5日)
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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