サッカーの話をしよう

No.333 ウェンブリーへのノスタルジーが支配した日

 ウェンブリー・スタジアムは間断なく細かな雨が降っていた。ピッチは軟弱になり、屈強な選手たちが何度も足を滑らせた。
 10月7日土曜日、深夜のテレビで見たヨーロッパのワールドカップ予選、イングランド対ドイツは、息詰まる熱戦だった。
 前半はドイツが正確なパスワークと積極的な動きで試合を支配し、1点を先制した。そのゴールは、イングランド守備陣のとんでもないミスだった。
 ゴールから30メートルあまりのFK。イングランドの選手が壁をつくるでもなく、なんとなくポジションを取り始め、GKは前に出て指示を送っていた。そのとき、ドイツのMFハマンが思い切ってけった。ボールは低く飛び、ワンバウンドして雨にぬれた芝で伸び、ゴール右隅に飛び込んだ。

 後半、イングランドはシステムを4−4−2から3−5−2に変え、巻き返しを図った。狙いどおりサイドからの攻撃が強化され、主導権はイングランドのものとなった。しかしドイツは集中した守備を見せ、1−0で逃げ切った。6月のヨーロッパ選手権の壊滅的な状況から見事に立ち直った勝利だった。
 イングランドにとっては8試合の予選の初戦。後半の内容を見れば、悲観すべき試合ではない。ファンも温かかった。ピッチを去るイングランド・チームを拍手で送った。
 この対戦は、イングランドにとって特別の試合だった。1923年以来イングランド・サッカーのシンボルだったウェンブリー・スタジアムが、この試合を最後に取り壊され、3年後にまったく新しいスタジアムとなって生まれ変わるからだ。
 スタジアムが殺気立った雰囲気にならなかったのは、生きるか死ぬかのワールドカップ予選というより、ウェンブリーに対するノスタルジックな気分が支配していたからだろう。

本来白のユニホームのイングランドだが、この日はホームゲームにもかかわらずサブの赤いユニホームを着ていた。白は相手のドイツだった。イングランドがこのウェンブリーで達成した最大の勝利、66年ワールドカップの決勝戦と同じ配色にしたのだ。それも含めて、スタジアム全体を支配していたのは、ウェンブリーに対する惜別の思いだった。
 数時間後、驚くべきニュースが飛び込んできた。イングランドのケビン・キーガン監督が辞任を発表したというのだ。
 「(イングランド監督という)この大きな仕事に、私は十分な能力がないと思う」
 なんと言う潔さだろう。彼は前半うまくいかなかったチームをハーフタイムの選手交代とシステム・チェンジで変えることに成功した。同点ゴールが生まれなかったのは、ほんのわずかな運が足りなかったためだ。
 キーガンを打ちのめしたのは、予選の初戦で最大のライバルに負けたという結果より、ウェンブリーの記念すべき試合を勝利で飾ることができなかったことのショックだったろう。

 それにしても、内容の濃い90分間だった。両チームの選手たちは一瞬も力を抜くことなく、最後の最後まで戦いきった。来年の11月に最後の出場国が決まるまで、こんな試合が数百も行われることを思い、改めて「ワールドカップ決勝大会」の重さを感じずにいられなかった。
 そしてまた数時間後、ロンドンからのニュースがさらに私を驚かせた。ブックメーカー(公認の賭け屋)が、さっそく次期監督の候補者を挙げ、元監督のテリー・ベナブルスを4対1で最有力としているというのだ。
 ウェンブリーを包んでいたノスタルジーと、ドライそのもののロンドンの街角。140年の歴史をもつサッカーの母国は、まだまだバイタリティーを失っていないように思えた。

(2000年10月11日)
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