サッカーの話をしよう

No174 AFCのいい加減な大会運営

 準々決勝のゆくえに影響を与えたアジアカップ予選リーグ・グループBの順位決定は、いかにもアジア的ないい加減さだった。

 大会規約では、グループ内の順位決定は以下の優先順位で決まる。
 ①勝ち点
 ②当該チームの対戦結果
 ③得失点差
 ④総得点
 ⑤抽選
 グループBでは、イランとサウジアラビアとイラクが勝ち点6で並んだ。当該チーム同士の対戦は、いずれも1勝1敗。得失点差を見ると、イランとサウジが+4、イラクは+3。まずイラクの3位が決まる。しかしイランとサウジは総得点も同じだった。

 いちど適用されたルールには戻らないのが、こうした場合の鉄則である。イランがサウジに勝ったという事実は3チームを得失点差で比べる前に使ってしまったのだから、当然、抽選が行われなければならない。
 だが、「大会委員会」は平然とこの鉄則を破った。そして②を「再適用」(アジアサッカー連盟P・ベラパン事務総長の言葉)してイランを1位にした。
 なぜそんなことをしたのか、それで誰が得をしたのかは知らない。だが大会規約をそのときの都合で勝手に解釈しているようでは、アジアサッカーの世界への距離はまだまだ遠い。

 ところでこの「当該チームの対戦結果」の条項は新ルールである。これまではこういう要素は一切なく、勝ち点の次に得失点差というのが普通だった。発明者は欧州サッカー連盟。6月に行われた欧州選手権で初めて使われた。今大会は、それをそのまま拝借してきたというわけだ。
 新規約導入の背後にあるのは「無気力試合の排除」だ。ワールドカップなどの国際大会では、4チームで1グループを組んで予選リーグを行う方法が一般的。弱いチームでも3試合は保証されるからだ。

 だが、勝ち点や得失点差を見て、3試合目はともすれば「引き分けか、小差の負けでもいい」などという試合になりがちだった。82年ワールドカップでは、両者で1、2位を分け合おうと、西ドイツとオーストラリアがまったく攻める気配のない試合をして0-0で引き分けた。
 これでは観客の興味を削ぐし、大会の人気にかかわる。どの試合も全力で90分間戦わせるにはどうしたらいいか、大会主催者たちは知恵を絞ったのだ。

 その結果、94年ワールドカップで国際サッカー連盟が打ち出したのが「勝ち点3-1」システム。それまで勝ちに2、引き分けに1だった勝ち点を、勝ちに3点与える方法だ。
 そして「第2弾」が、今回話題になった「当該チームの対戦成績」だ。得失点差でどれだけ離されていようと、勝ち点で並べば、直接対決が1-0の勝利でも順位をひっくり返すことができる。リーグ戦でも、最後まで迫力ある戦いが期待できるというわけだ。

 だが、「勝ち点3」といい、「当該チームの対戦結果」といい、何か物哀しいものを感じるのは、私だけだろうか。
 もちろん無気力試合は良くない。だが、「大会を勝ち抜く」という観点からすれば、選手たちには「手を抜く」権利もある。
 ここまでくると、選手たちはもはや「人間扱い」はされていない。法外な金額で試合をテレビに売りつけている連盟首脳部に尻を叩かれ、作り物のウサギを必死に追わされているドッグレースの犬のように思えてならないのだ。
 選手たちの心から湧き上がるプレーがなくなれば、サッカーの魅力も消えてしまうのに。

(1996年12月16日)

No173 UAE砂漠の旅 2時間の白昼夢

 アラブ首長国連邦(UAE)のオアシスの町、アルアインにきている。アジアカップ取材のためだ。
 「アジア版ワールドカップ」。4年にいちど、ワールドカップの中間年に開催され、アジア中の強豪が集う。アジアの「チャンピオン」を決する大会であると同時に、翌年のワールドカップ予選をにらみ、世界から注目される大会だ。
 会場は首都アブダビのほか、ドバイ、アルアイン。3つの都市はほぼ正三角形のような位置関係で、それぞれ160キロほど離れている。日本のグループの会場のアルアインにホテルをとり、他のグループの試合には、そこから報道関係者用のバスに乗って他の都市のスタジアムに行くという毎日だ。

 道路は砂漠を突っ切って走る。
 道路の脇は農場や緑地帯になっているが、その向こうは果てしない砂丘の連なりだ。気がつくと、道路からほんの50メートルほどに砂の波が迫ってきている場所もある。改めて、このアラビア半島で生きていくことの厳しさを知らされる。
 単調なバスの旅。最初は大会の話題やとりとめのない話が続いても、しばらくするとみんな眠り込んでしまう。その感覚は、ちょうど10年前、メキシコで開催されたワールドカップを思い起こさせる。

 あのときは、メキシコシティに1カ月間ホテルをとり、シティで試合がないときにはバスをチャーターして他の会場都市に出かけていった。
 道路もバスも悪い。300キロ以上離れた会場もある。キックオフが正午の試合も多く、それに間に合わせるよう午前4時出発ということもたびたびだった。ホテルの部屋から枕や毛布をもちだし、バスのなかではひたすら眠った。それが、86年メキシコ・ワールドカップの「感覚」だった。

 4年後、90年のイタリア大会は夜行列車の旅だった。試合が夜遅く終わるので、次の試合会場に行くのにホテルで寝る時間もなかったのだ。あてにならないイタリア国鉄を頼りに過ごした1カ月間だった。
 94年は何10回も飛行機に乗った。広大なアメリカを舞台にした大会。空港往復のタクシー、チェックイン、離陸、睡眠、着陸。その合間に試合を見た。
 98年はどうだろう。フランスご自慢のTGV(超高速特急)で試合を追う毎日になるに違いない。しかしそれは、96年欧州選手権での、のんびりとイギリスの田園風景を楽しみながらの列車の旅とはずいぶん違うはずだ。

 そして2002年。
 私にとって、そしてまた世界からくるファンにとって、どんな「感覚」のワールドカップになるのだろうか。成田とソウルを何度も往復しなければならないのか。それとも、お世辞にも「変化に富んだ」とはいえない新幹線の車窓の景色とともに夢のような1カ月がすぎていくのだろうか。
 いや、日本は、まだどこを会場にするかも決まっていなかったのだっけ。
 日本サッカー協会が会場決定に責任をもつと決めたのは、すばらしい決断だった。できるだけ多くの人に納得してもらうために、現在大変な作業が続いているに違いない。
 だが、会場を決める要素として、どうか、試合を追って日本の各地を旅行する人びとのことを少し考えてもらいたい。そういう人びとが五年後、十年後に「日本のワールドカップは楽しい旅だったな」と思えるような会場計画を考えてほしいと思う。

 「2時間の白昼夢」は、突然終わりをつげる。車窓かなたに、ドバイの高層ビル群が広がっている。

(1996年12月9日)

No172 加茂・日本代表 ワールドカップへの試金石

 「第11回アジアカップ決勝大会」の開幕が目前に迫った。4日、アブダビで行われるアラブ首長国連邦(UAE)×韓国戦を皮切りに、UEA国内の3都市を舞台に12チームが激突する。
 来年のワールドカップ・アジア予選の勝ち抜きを最大のターゲットとする加茂・日本代表にとっては、初めてアジアの強豪とタイトルをかけて戦う機会。予選を見通すうえで、大きな意味をもった大会だ。

 ことし2月、私はオーストラリアのシドニーから南へ数10キロ下ったウーロンゴンという町にいた。2年目を迎えた「加茂・日本」の「始動」のトレーニングを見るためだった。
 1年目は、「プレスディフェンス」の動きを覚え、それを試合で実行するのに精一杯だった、「2年目はその守備をベースに攻撃のパターンを増やす」(加茂監督)のが目標。そのためのキャンプだった。
 選手間の距離をせばめ、ボールをもっている相手に数人でプレッシャーをかけて奪う「プレスディフェンス」は、ボールを奪ったとき逆に相手からもプレッシャーをかけられやすいという課題をかかえている。そこから抜け出すには、素早い判断と、高度に組み立てられたコンビネーションが必要となる。

 ウーロンゴンでの日本代表は、この課題をクリアするためにいくつかの攻撃パターンを繰り返し練習していた。「攻撃は、ある程度までパターン化し、最後のところで選手のひらめきに任せる」というのが、加茂監督の持論だからだ。
 このキャンプ後、日本代表は見違えるように得点力をつけた。ポーランドに5−0で大勝し、メキシコには0−2から大逆転で3−2の勝利。そして8月にはウルグアイを5−3という派手なスコアで下した。

 95年には得点の多くがフリーキック、コーナーキックなどの「リスタート」から生まれていた。しかし96年の得点は「流れ」のなかからものが飛躍的な増加を示している。ウーロンゴンから始まった攻撃のパターンづくりが、見事に実を結んでいるのだ。
 「ことし9試合をこなしたが、力は徐々に上がっている。回を重ねるごとに選手の自覚が深まり、チームは伸びつつあることを実感している。チームづくりはほぼ予定どおりだ」
 10月のチュニジア戦の後で、加茂監督は自信の表情を見せた。

 アジアカップでは、守りを固めてくる相手をどう切り崩すかが課題となる。どの国も、日本がことし数々の強豪を倒し、攻撃力が大きく上がったことを知っている。グループリーグで当たるシリア、ウズベキスタン、中国は、いずれもまず日本の攻撃をくい止めようとするだろう。
 そういう相手と戦った経験がほとんどない現在のチームが、どう対処し、攻撃を切り開いていくか。それはまた、来年のワールドカップ予選の「シミュレーション」といっていい。

 チュニジア戦の数日後、加茂監督とゆっくり話す機会があった。別れ際に、加茂監督は力強い口調でこう言った。
 「まかせておいてくれ」
 「アジアカップですか」
 思わずそう聞いた。
 「いや、ワールドカップ予選のことだよ。これからいろいろとあると思うが、最終的にはチームをまとめて、必ず勝ち抜いて見せるから」
 アジアカップを戦いながらも、加茂監督の目は常にワールドカップ予選に向けられている。今回のアジアカップを、私たちもまた、ワールドカップ予選を念頭に置いて見ることを求められているのだ。

(1996年12月2日)

No171 ワールドカップ国内会場 絞り込む側の責任

 「32チーム、全64試合を日本と韓国で半分ずつ開催する。開幕戦は韓国、決勝戦は日本で行う」
 2002年ワールドカップの概要が固まり始めた。5月で解散した「招致委員会」から来年に予定されている「組織委員会」設立までの、つなぎの仕事を担当する日本の「開催準備委員会」にとっては、もっとも厳しい決断のときだ。

 93年1月、「招致委員会」は国内開催地に立候補した15の自治体を予定の12に絞りきることができず、結局15会場で大会を運営する方針を決めた。
 その時点で24だった出場チーム数を、国際サッカー連盟(FIFA)が32に増やすことを決めたのは94年5月。これで15は無理のない会場数となった。だが「共同開催」で状況は大きく変わった。

 FIFAと日韓両国の初めてのミーティングから帰国した長沼健・日本サッカー協会会長(準備委員会では実行委員長)は、「FIFAから6ないし10が妥当な会場数と言われた」と報告、93年にできなかった「絞り込み」をしなければならない状況になった。
 長沼会長は「絞り込みではない。あくまで話し合いで決める」と言うが、いくつかの候補地がワールドカップを開催できなくなるという事実に変わりはない。
 1自治体あたり2億数千万円の招致活動資金を分担し、努力を続けてきた候補地にとって、受け入れがたい結論を、準備委員会は下さなければならない。「共同開催」をのんだ時点で当然考えなければならなかったことを先送りしてきた結果とはいえ、大変な決断を迫られているのだ。

 気になるのは、絞り込みが単なる「数合わせ」の様相を呈していることだ。
 「6ないし10に」とFIFAから言われたことが、なぜ「10会場に決定」という話になるのか。それでは日本の「主体性」はどこにあるのか。
 日本の招致委員会は、史上最高のワールドカップにしようと練りに練った「開催計画」をFIFAに提案した。それは15の舞台で32チームが64試合を戦う、楽しく美しい大会になるプランだった。
 だがそれが16チーム、32試合になった。当然「開催計画」を根本から見直さなくてはならない。
 「16チームのワールドカップ」をどう開催したら成功するか。会場をどのように日本全国に配置し、大会をどう運営するか。それこそ、早急に考えるべきことのはずだ。
 だが現状ではそんなことは後回し。聞こえてくるのは、どうしたら5つ落とせるか、どこが落ちるかの議論ばかりだ。「最善の開催計画」では会場数が8になるかもしれない。そうなら7自治体を落とさなければならないのに。

 90年、イタリアでは、24チームの大会に12会場が用意され、1グループ(4チーム)2都市で予選リーグを戦った。98年フランス大会では、32チーム、全8グループが全土の十会場を転々としながら試合をする。大会の運営プランは、それぞれの国が最善と思えるものをたてているのだ。
 「数」からスタートするのは間違っている。それは最終的には、大会の運営に「ひずみ」を生む。日本協会と準備委員会が主体的に大会開催計画を練り、自ら責任をもって会場計画を決めなければならない。

 どう決めても「痛み」は回避できない。ならばせめて、「すばらしい大会だった」と誰もが思える大会にしなければならない。それこそ、今回「ふるい落とされる」自治体に対する日本協会と準備委員会の最大の責任にほかならない。

(1996年11月25日)

No170 審判と監督の間に信頼関係を

 96年のJリーグは相変わらずの「審判トラブル」続きだった。
 11月13日に行われた「ポストシーズン・トーナメント」(間違っても「真の王者決定戦」ではない)のサントリーカップ準決勝では、清水エスパルスと名古屋グランパスの対戦でエスパルスのアルディレス監督がベルナール・ソール主審への執拗な抗議で退席処分となった。そのあげく、エスパルスはソール主審が不当にPK戦で自チームのサポーター側のゴールを使わなかったと強い不満を訴えているという。「レフェリーに対する不信感ここに極まれり」という観だ。
 こうして監督やチーム、そして彼らの影響を強く受けるサポーターと、レフェリーたちの間に不信感があふれていることは、Jリーグのみならず日本のサッカー全体にとって大きな不幸と言わねばならない。

 両者にはそれぞれの言い分があるに違いない。
 レフェリーたちは、監督や選手たちのマナーがあまりに悪く、人格的に問題があり、フェアプレー精神などかけらもないと指摘するだろう。一方、監督や選手たちは、レフェリーたちの技術の低さや、あまりに権威をふりかざし、カードを乱発して、しばしば「問答無用」といった態度をとることに強い不満をもっているに違いない。
 このままでは互いの信頼関係など築かれるわけはない。それは、サッカーがますます不愉快なものになることを意味している。

 Jリーグでは、毎年シーズン前に全クラブの監督を集めてミーティングを行っている。そこではほぼ一方的に、Jリーグから「フェアプレーを守るように」という内容の通達が行われているという。
 レフェリーたちに強い不満をもっている人びとに、こんなことをして何の意味があるのだろうか。それより、せっかく全チームの監督が集まる場を、もっと建設的なものに生かせないものだろうか。

 たとえば、そのミーティングにJリーグの担当全審判員にも来てもらい、監督たちとディスカッションを行うのだ。感情をぶつけ合うのではなく、どうしたらスムーズに試合が進められるか意見を交換するのは不可能ではないだろう。
 Jリーグには豊かな経験をもった外国人監督も多数いる。レフェリーたちは、そうした人びとから有用なアドバイスや、レフェリング技術のヒントを得ることができるかもしれない。
 監督たちも、最新のレフェリングに関する知識を得たりレフェリーたちからの要望を聞くことで、自分たちの思い違いや過ちに気づくかもしれない。

 それ以上に大事なのは、監督とレフェリーたちが互いをよりよく知り合うということだ。これには、ディスカッションとともに「懇親会」のようなものが役立つだろう。それを通じて、実際にはどういう人物かを互いに知り合うことができる。名前を知り、スタジアムの緊張感のなかで見るのとはまったく別の「素顔」を知ることで、相互関係が変わらないわけがない。
 「互いを知る」ことこそ「信頼関係」の第一歩にほかならない。そしてそれがなければ、けっしていい試合は生まれないし、フェアプレーにあふれたリーグにはならない。

 なぜか。
 答えは簡単だ。
 監督や選手、すなわち対戦する両チームと4人のレフェリーたちは、ひとつの試合をつくる「仲間」にほかならないからだ。全員がいい仕事をしなければ、けっして「いい試合」は生まれない。力を合わせて仕事をするには、「信頼関係」が必要不可欠なのだ。

(1996年11月18日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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