サッカーの話をしよう

No139 ワールドカップ招致活動自体を意義あるものに

 「どうなりますかね?」
 最近、サッカーに少しでも関心のある人と話をすると、きまって最初に聞かれるのがこの質問だ。
 今季のJリーグの行方ではない。オリンピック予選勝ち抜きの成否でもない。もちろん、2002年ワールドカップ招致の「日韓対決」の話だ。

 昨年9月末に「開催提案書」を提出し、10月末から11月はじめにかけて国際サッカー連盟(FIFA)の視察を受けた後は、すべて「ロビー」になった招致活動。日本協会の首脳陣が精力的に世界を回り、投票権をもつFIFA理事を中心に日本の考えを説明しているが、各理事の判断については、まだ「推測」情報しか伝わってこない。
 正直なところ、招致活動の外部にいる者としては、「よくわからない」という以外にない。「五分五分でしょう」と答えるのは、そういう意味だ。

 日本の招致活動は「招致委員会」がつくられた91年に本格的に始まった。一方の韓国は94年からだから、3年の差がある。しかし国内の盛り上がりでは、現在のところ韓国のほうが上だという評価だ。
 昨年末のあるテレビ局の調査では、日本国民のワールドカップ招致活動の認知率は約60%だという。けっして悪くない数字だが、「どうしても日本で」という熱意は、たしかにあまり感じられない。
 これまでの招致活動の失敗をひとつあげるなら、マスメディアからの協力を十分に引き出せなかったことだ。日本の招致委員会は韓国側に情報が漏れるのを警戒して活動の多くの部分を非公開にした。その結果マスメディアは無視されたように感じ、熱が冷めてしまった。これでは国民的な熱意を生むのは難しい。

 また、招致委員会が、政府や自治体、企業などの協力を得るために盛んに「経済波及効果」を説いたことも、人びとの気持ちを冷めさせる結果になった。
 あの「バブル」のときでさえその恩恵を受けたのはごく一部の人にすぎない。3兆2000億円の経済波及効果といわれても、それが自分たちの生活にはほとんど関係がないことは、もう誰もが見抜いている。

 ワールドカップを日本で開催することの本当の意味は、そんなことではない。世界に10数億のファンをもつといわれるサッカー。その最高峰の戦いが行われる1カ月間、世界は動きを止めて注視する。それがあらゆる面で喜びに満ちた大会であれば、世界の人びとの心を近づけ、地球をより暮らしやすい惑星にする力となるだろう。開催国も、世界中から観戦に訪れた大衆との交流を通じて大きく変わっていくに違いない。
 そればかりではない。現在、日本の社会では日常的なスポーツ環境の劣悪さが大きな問題となっている。ワールドカップ開催は、サッカーだけでなく、いろいろなスポーツを手軽に楽しむことのできる環境の創設をリードするはずだ。

 招致活動を通じて、そうした点をアピールし、広めていかなければならない。逆にいえば、真の国際化やスポーツ環境の改善はどうしたらできるのか、そんな議論を進めることが、「ワールドカップ日本招致」をその有力な手段として認識させていくはずだ。
 招致活動は、もちろん日本開催を目指したもの。だが招致活動を通じて日本人が世界に少し近づき、同時にスポーツ環境を変えてく力になれば、招致活動自体が価値のあるものとなる。
 残り95日となったワールドカップ開催地決定。その短期間に、招致の成否だけでなく、こうした点の議論が日本中で展開されてほしいものだ。

(1996年2月27日)

No138 無責任なシダックスの廃部

 オートラリアでのんびりと日本代表のトレーニングを見て帰ってきたら、日本ではとんでもないことが起こっていた。日本女子リーグ(Lリーグ)の「東京シダックス」が「廃部」を決定したというのだ。

 Lリーグでは、規約で練習グラウンドの確保が義務づけられている。シダックスは調布市内で借りているグラウンドの契約が3月で切れ、代替地を探していたが、みつからなかったのでチームの存続自体をあきらめたという。
 Lリーグを脱退するという話ではない。チームを解散させ、選手をサッカーのできない状況に放り出してしまうというのだ。あきれかえって声も出ない。

 「東京シダックス」は、かつて「小平FC」という名で活動した地域のクラブだった。
 小平市役所に勤める永沢孝男さんが近所の女子小学生のサッカーのめんどうを見るようになってクラブがつくられ、少女たちが成長するにつれて東京でも有数の強豪クラブに成長した。熱心な指導のおかげで現在静岡の「鈴与清水FC」に所属する日本代表FW長峯かおりをはじめ、何人もの好選手が生まれた。

 この「近所の女の子」の集まりだったクラブに大きな転機が訪れたのは八九年のこと。日本女子リーグができた年だ。リーグ加盟には分担金が500万円も必要だった。そこで新光精工という企業から協力を受けることになったのだ。クラブ名も「新光精工FCクレール」となった。
 急成長中の外食産業シダックスが、チームをそっくり受け継いだのが93年4月。Jリーグ誕生を前に日本中がサッカーに熱狂していたころだ。永沢さんは仕事の都合でチームを離れ、昨年からは元東芝の斉藤誠さんが監督となった。

 企業が経営の悪化でスポーツ活動を休止することはよくある。だがシダックスの場合、会社の業績は上々だという。サッカーブームの鎮静化、女子サッカーが期待したほど話題にならないことが理由なのか。シダックスは最近キューバから野球選手をとって社会人大会で話題になったが、その影響もあるのだろうか。いずれにしろ、「廃部」の理由は見当たらない。
 しかもチームは単なる社員の福利厚生のためのものではない。歴史あるクラブをそっくり引き受ける形で3年前にスタートしたばかりだ。当時、チームは高校生が主体だった。
 現在の22人の選手のうち、シダックスの社員は約半数。残りの大半は学生で、他企業の社員もひとりいる。さらには、サッカー選手として今年度シダックスへの就職が内定している者も2人いるという。

 シダックスの「廃部」は単なる「社内問題」ではないのだ。社会への重大な裏切り行為、「社会問題」である。そんなことを平気でやる企業の無責任きわまりない神経、同時に、それを「ああそうですか」と受け取るしかないチームやサッカー協会、あるいはLリーグの情けなさに、あきれかえって声も出ないのだ。
 もちろん問題の根源はクラブが自立しえない日本の社会そのものにある。「FC小平」が主体性を保っていば、次のスポンサーを探せばすむ問題だった。選手たちはいままでと変わらずサッカーを続けていくことができたはずだ。このようなクラブは、地域社会や自治体の理解とサポートなしには存在しえない。いまの日本には、それが決定的に欠けている。
 無責任きわまりない企業によって放り出された20数人の女子サッカー選手たちは、はからずも、日本の貧困なスポーツ環境を浮き彫りにさせる形となった。

(1996年2月20日)

No137 加茂日本代表の重要なステップ

 日本代表のオーストラリア合宿にくっついて、シドニーの南にあるウロンゴンという町に来ている。
 時差が少なく(日本が2時間遅れ)、気候がよく、練習施設が豊富でしかも試合相手が豊富なオーストラリアは、いまや日本サッカーの理想の「スプリングキャンプ」地だ。Jリーグのクラブも多数キャンプを張っており、先週の木曜にはアビスパ福岡がウロンゴンにきて日本代表と30分3本の練習試合をした。
 例年に比べると天候が不順だというが、練習会場の芝生の状態は上々で、かなりの雨でもほとんどプレーに影響がない。晴れても湿度が低いので、選手たちは練習しやすそうだ。

 昨年、「継続か交代か」で1カ月間近くサッカーファンをやきもきさせた日本代表の監督問題。しかし加茂周監督が就任以来残した成果は、けっして小さなものではなかった。
 1月の「インターコンチネンタル選手権」と2月の「ダイナスティカップ」では選手のコンディションが最悪で、加茂監督の戦術どころではなかった。そのなかで、ダイナスティカップでは優勝を達成した。
 5月のキリンカップも、「絶対に優勝する」と宣言しての優勝。直後の「国際チャレンジ大会」では、イングランド、ブラジル、スウェーデンという世界の強豪を相手に持ち味を発揮し高い評価を得た。
 9月のパラグアイ戦こそ集中力のない試合を見せてしまったが、10月、リーグ日程の厳しい最中に行ったサウジアラビア戦では連勝を飾った。
 加茂監督が目指した狭いゾーンでの守備をベースにした「モダン」なサッカーは、ブラジルなど世界の超一流にはまだまだ歯が立たなかったが、アジア諸国や南米でも中堅の国には見事に威力を発揮した。「アジア最強」といわれるサウジアラビアとの第1戦、東京の国立競技場での試合は、「強い日本代表」を印象づけた試合だった。

 しかしその試合後、加茂監督は「まだ攻撃がさびしい」と、厳しい口調で語った。相手ボールを奪うところまでは要求どおりにできていても、攻撃に移ったときの判断が遅く、せっかくのチャンスの芽を生かすことができないというのだ。
 昨年は17の国際試合を戦ったが、純粋なトレーニングの期間は非常に少なかった。代表とした集まった時間の大半が、試合とその調整のために費やされた。チームディフェンスの意思統一はできたが、攻撃に移ってからのプレーに練習時間をさくことができなかった。それが「さびしい」攻撃の原因だった。
 2年目を迎えたことし、加茂監督は、課題の攻撃に手をつけるために今回のオーストラリア・キャンプを張った。集中的に戦術のトレーニングができるのは、ことし1年を通じてもこの期間だけになるだろう。

 ウロンゴンで本格的なトレーニングにはいると、加茂監督は自ら指揮をとり、精力的に選手を動かしている。練習の組み立ては「見事」の一語だ。選手たちの動きは見る間によくなってきている。
 シーズンにはいったばかりだから、「体づくり」もしなければならない。フィジカルを担当するフラビオ・コーチのトレーニングも興味深い。加茂監督の戦術トレーニングに適した体づくりが、短時間に的確に組まれているのだ。
 恵まれた環境のなかで、選手たちは気力にあふれた練習をこなしている。98年ワールドカップの予選に向け、ことしは重要な「ステップ」の年。そのスタートが、まず「予定どおり順調」(加茂監督)な形で切られた。

(1996年2月13日)

No136 クラブ運営のための研修を

 「ドイツではね、スポーツシューレでクラブ関係者のための運営の講座があるんですよ」
 こんな話を小川武郎さんから聞いたのは、昨年夏のことだった。

 都内で建設コンサルト会社を営む小川さんは、千葉県内で少年サッカーチームのめんどうを見ながら自らもボールをける「草サッカーマン」。よく行くドイツのスポーツシューレ(スポーツ学校)には、以前から強い関心をもっていた。
 昨年3月、出張中にドイツで心筋梗塞を起こし、入院、手術のために3カ月間も滞在しなくてはならなくなった。そのときたまたまお世話になったのが、ビュッテンブルク州サッカー協会の役員のお宅。小川さんは「これ幸い」と、しっかり「スポーツシューレ」の研究をしてきたという。

 Jリーグの川淵三郎チェアマンが30数年前に見て感激し、日本にプロリーグをつくるときの理想形となったことで知られる「スポーツシューレ」。ドイツでは各州のサッカー協会が運営している。
 「スポーツシューレ」はプロから少年までいろいろなスポーツチームの合宿の舞台となるだけではない。サッカーのB級コーチ資格取得コースや審判の養成コースなどの講座を年間通じて開講している。そしてとくに小川さんの興味を引いたのが、州内4400もの「中小スポーツクラブ」関係者を対象としたクラブの運営方法とマーケティングの講座だったという。

 ドイツの町には、人口がわずか500人でもかならず存在するスポーツクラブ。町が土地を提供し、クラブ会員の会費で運営されている。「スポーツシューレ」がそのためのコーチ育成機関になっていることは知られている。だが「クラブ運営」のコースがあるとは、まさに晴天の霹靂(へきれき)だった。
 それぞれのスポーツクラブが地域の人びとの生活を豊かにする役に立つためには、しっかりと運営され、活動を充実させなければならない。だからそれにたずさわる人びとに適切な「指導」を行う−−。ごく論理的なことだが、日本にはこうした発想はこれまでまったくなかった。

 豊かな自然に囲まれたスポーツシューレにたたずんで、小川さんは日本とJリーグのことを考えた。
 「Jリーグの理念とは、地域のスポーツのリーダーとして、スポーツシューレの役割を果たすことではなかったか。ところがいまのJリーグのクラブは、自分のことで精一杯だ」
 「地域に豊かなスポーツの文化を築きたい」というJリーグの「理念」に動かされ、全国でJリーグをめざす動きが出ている。なかには大金を投じてJリーグにはいることだけを目指す例もあるが、「地域に根ざすスポーツクラブ」という理念の「本質」を見抜き、それに賛同して動きはじめている地域も少なくない。
 Jリーグは、そしてそのクラブは、こうした動きにこれからどう対応していくのか。「クラブづくりをするのなら、私たちがノウハウをもっていますから、どうぞ使ってください」と胸を張って言えるものは、残念なことに現在のJリーグにはない。

 先週、小川さんはJリーグにひとつの提案をした。Jリーグとクラブが地域のスポーツクラブを対象にこうした研修プログラムを実施するためのプランだ。
 一方Jリーグは、4年目の開幕を前に「理念」を再度告知し、地域スポーツのリーダーの役割を明確にしていく方向だという。小川さんの提案は、この方向性を具現化するものにほかならない。今後のJリーグの動きに注目したい。

(1996年2月6日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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