サッカーの話をしよう

No165 少年は自分のペースで開花する

 学生時代に少年サッカーのコーチをしていたことがある。とはいっても、週にいちど、日曜日の午前中に学校の校庭を借りて2時間ほどの練習をするだけ。小学校1年生から中学生まで総勢40人あまりという小さなクラブだった。

 そのクラブにAくんがはいってきたのは小学校1年生のときだった。小柄で、ひょうきんな少年だった。いや、はっきりいって、手におえない「マイペース・ボーイ」だったのだ。
 毎週遅刻もせずにやってくるが、まず練習には参加しない。シュート練習でも1本けったら他の子を追いかけてふざけている。全員でゲームになると、いつの間にか校庭の端にある砂場で砂遊びをしている。
 「何が楽しくて、休まずにくるのかな。学校ではどうしているんだろう」
 コーチたちは不思議でならなかった。2時間の練習中、ボールをけるのは気が向いた数回程度なのだ。

 小学生、とくに低学年というのは、ものすごく個人差が大きい。同じ1年生でも、初日からしっかりとコーチの話を聞き、練習に集中できる子もいた。その日は足の裏でボールを引くプレーを教えたのだが、生まれて初めてサッカーを習ったその少年は、ゲームになると、足の裏でボールを引くプレーだけで何人も抜き去って見せた。
 かと思えば、Aくんのようにまるで幼稚園児のような子も何人かいた。

 これが学校の先生だったら、「落ちこぼれをつくってはいけない」と気が気でなかったろう。だがサッカークラブは気楽なものだった。周囲でうるさいことを言う父母もいなかった。
 「何もやらなくても、ああして毎週来てるんだから何か楽しいことがあるんだろう」。これがコーチたちの結論だった。ときどきは叱ったが、練習を強要することはせず、だいたいは、ほうっておいた。
 そうして二年あまりが過ぎた。Aくんは、三年生になっても同じような調子だった。試合に出場しても、プレーにはほとんど参加せず、グラウンドのなかで虫を追ったりしていた。

 ある夏の日、ひとつの試合があった。私たちのチームは人数がぎりぎりだったので、Aくんもメンバーにはいった。しかも、3年生のAくんはいちばんの年下で、味方も相手も4年生と5年生ばかりだった。
 試合が始まる。相手は予想どおり強敵だ。たちまち守備ラインが突破され、ピンチになる。
 そのとき、猛烈な勢いで戻ってきた小柄な選手がすばらしいスライディングタックルでボールを奪った。私たちは目を疑った。それはAくんだったのだ。
 いまやAくんは完全に中心選手だった。味方に声をかけ、カバーし、クリアして守備を引き締め、チームを勝利に導いたのだ。
 コーチたちは信じられない思いだった。いったいいつ、あんなプレーを覚えたのだろう。あのファイティングスピリットとリーダーシップはどこに隠されていたのか。とにかく、Aくんは、「砂場遊びの落ちこぼれ」から突然守備のリーダーとなったのだ。

 考えてみれば、AくんにはAくんのサッカー練習のペースがあったのだ。そのペースで少しずつサッカーへの興味を増し、感覚を身につけていくことが、Aくんが「開花」するために必要なものだったのだ。
 がみがみうるさく言って彼のペースを乱さなかったことは、コーチとしての知識も経験もない私たちにとって本当に幸運だった。私たちとAくんの2年半の練習を通じてより多くを学んだのは、小学3年生のAくんではなく、大学生の私たちのほうだった。

(1996年10月7日)
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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