サッカーの話をしよう

No158 アトランタ五輪 日本の才能を発揮させられず

 「もったいなかったな」
 アトランタ五輪を終えて感じるのは、前回のワールドカップ出場を逃したとき以上の「残念」さだ。
 準々決勝に進出できなかったことではない。ナイジェリア戦の2点目がなければ日本はグループ2位だったのだが、それは結果論にすぎない。本当に残念だったのは、日本の若者たちの才能をフルに発揮させられなかった点だ。

 せっかくのオリンピック出場、しかも23歳以下の若者だけでブラジルやナイジェリアという世界の強豪と戦うチャンスを得ながら真っ向からの挑戦をさせず、あまりに後ろ向きな戦いに終始した結果、「がんばった」という満足感しか残らなかった。
 たしかに、日本選手たちのがんばりは予想を上回るものだった。GK川口とリベロ田中を中心としたチーム守備の粘りは驚異的で、相手の変化に富んだ攻めに食らいつきミスを誘った。最後まで力を抜かずに戦ったことが、ブラジル戦の勝利とハンガリー戦の劇的な逆転を呼び込んだ。

 だが最初の2試合は「相手を止める」ことだけで、攻めはほとんど単発。ブラジルに対してこのような戦いになるのは仕方がないとしても、ナイジェリアにもまったく同じ守備偏重作戦に出たのは失望だった。がんばりはブラジル戦と同じだった。だがこの2試合、180分間を通じて、日本選手たちは「サッカー」をやっている気にはなれなかっただろう。

 ハンガリー戦も疑問が残る試合だった。西野監督はこの試合で勝つことだけを目指し「名誉ある帰国」を選んだのか。準々決勝進出に必要な「3点差の勝利」のために「ギャンブル」しなければならない時間帯になっても、攻撃強化の動きは見られなかった。
 ナイジェリア戦では積極的な攻撃、そしてハンガリー戦では3点を求める大胆な采配がほしかった。それがあれば、今回のオリンピックの意味はもっと違ったものになったはずだ。

 「大事なのは次のワールドカップ予選に勝つこと。そのために若手にできるだけ経験を積ませたい」。西野監督はそう話して23歳以下の選手だけでチームをつくった。ならば、「最高の経験」をさせることがこの大会の大きな目標のひとつだったはずだ。
 その大会で、2試合にわたって「守備だけ」のサッカーをさせ、「3点差をつけなければならない」という滅多に経験できない特殊な試合でその状況に合ったゲームをさせられなかったのは、どう考えても納得いくものではない。
 ブラジルもナイジェリアもすばらしく強かった。しかし西野監督が日本チームを「すばらしい選手たち」と考えているなら、その能力にかけるべきではなかったか。少なくともナイジェリア戦は、その才能を最大限に発揮できるゲームをするべきではなかったか。

 九四年のワールドカップにオフト監督のチームが出場していたら、今回のような戦いはけっしてしなかっただろう。日本チームの攻撃の良さを最大限に発揮するゲームを、少なくともやろうとしたはずだ。
 準々決勝でブラジルと当たったガーナは、実に見事なサッカーを見せ、真っ向から攻撃を挑んだ。最終的には2−4で敗れたが、ブラジルとの対戦から得たものは、日本選手よりはるかに大きかったはずだ。
 負けるより勝つほうがいいに決まっている。勝利から得る自信、勝利の経験は何物にも代えがたい。だがその勝利は、真っ向から挑んでつかんでこそ「将来」に生きてくる。そうさせられなかった西野監督の采配が、残念でならないのだ。

(1996年8月6日)
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