サッカーの話をしよう

No131 ストイコビッチ イヤー・オブ・ドラガン

 「イヤー・オブ・ドラガン」。そう呼びたくなるようなシーズンだった。
 ドラガン・ストイコビッチ、30歳。ベンゲル監督による名古屋グランパスの飛躍的な成長は、現在では世界のどこに行ってもそう見られない「本物の天才」のプレーに触れる機会を、名古屋と日本中のサッカーファンにもたらした。同時に、Jリーグの選手たちにも、偉大な選手と対戦する喜びを与えた。
 さらにストイコビッチ自身にとっても、95年は忘れられない年になったはずだ。90年7月に祖国ユーゴスラビアを離れて以来、彼はまったくといっていいほど才能を発揮することができなかった。95年は、彼が初めてリーグ戦をフルに戦い、才能に見合った活躍をし、ふさわしい評価を受けた年だったのだ。

 ストイコビッチは、次から次へと才能豊かなサッカー選手を生み出してきたユーゴスラビアにあっても、「20年にひとり」という天才選手である。
 ベオグラードから東南へ約200キロ、ニシュという町が故郷。ローマ時代の遺跡を残すセルビアの旧都だ。1965年3月3日生まれの彼は、14歳で地元のクラブ「ラドニツキ」にはいり、83年、18歳でプロ1部リーグ、ユーゴのユース代表、オリンピック代表、そしてフル代表に次つぎとデビューした。
 人びとはたちまちのうちに彼のプレーに魅了され、「ピクシー(妖精)」というニックネームをつけた。86年夏に名門レッドスターに移籍。だが不思議なことに移籍金は支払われず、代わりにレッドスターは4基の質素な照明灯をラドニツキに贈ったという。「世界のサッカー史上でも例を見ない格安な買い物」といわれている。

 レッドスターではすぐにキャプテンとなり、ユーゴ代表での輝かしい活躍とともに全ヨーロッパが注目する存在となる。90年ワールドカップのスペイン戦で見せた2つのゴールは、彼の天才性を世界に証明するものだった。
 だが、その直後に移籍したマルセイユでは、まったく力を発揮できなかった。91年5月にマルセイユはヨーロッパカップ決勝に進出しPK戦で敗退。ストイコビッチは延長の後半に短時間プレーしただけ。しかも相手が古巣のレッドスターとあって、プライドは著しく傷つけられた。
 翌シーズンはイタリア・セリエAのベローナでプレーしたが定着できず、1年でマルセイユに戻った。だが結局は、年間に10数試合出場する程度だった。ヒザの負傷とともに、強すぎる個性、感情をコントロールできない短気さが、西ヨーロッパで力を発揮できない理由だった。

 94年夏にグランパスに移籍した後も、出場停止を繰り返し、「これで終わりか」と思わせた。しかしことし、ストイコビッチは見事によみがえった。天才性をフルに発揮し、人びとに喜びをもたらす選手として最高の称賛を受けたのだ。
 ことし6月、ペレ(ブラジル)はテレビインタビューに答えてこう語った。
 「現在の世界の名手?バッジオ(イタリア)、ロマリオ(ブラジル)、それからストイコビッチだね」

 来年は秋からヨーロッパのワールドカップ予選が始まる。ユーゴ代表の主将ストイコビッチは、毎月いちど祖国のために帰国しなければならなくなるだろう。それは仕方のないことだ。ストイコビッチはグランパスとJリーグだけでなく、ユーゴスラビアと世界のサッカーにとっても「宝」であるからだ。
 1996年、日本サッカーはこのストイコビッチのプレーで明ける。

(1995年12月26日)
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