サッカーの話をしよう

No24 都並敏史の最終予選

 いよいよ最終予選だ。ワールドカップ。その舞台に立つことは、サッカー選手にとってどれほどの価値があるのだろうか。
 ワールドカップ予選というと、どうしてもあのときのことを思い出さずにはいられない。あのチームも、日本のサッカーファンが誇るに足るものだった。

 1985年、森孝慈監督が率いる日本代表は、北朝鮮、香港らを下し、韓国との最終決戦を迎えていた。このチームは、日本のサッカーがどのような方向に進むべきかをはっきりと示してくれるものだった。
 木村和司や水沼貴史の技術とアイデアに富んだ攻撃プレー、原博実の高度なヘディング。中盤にはすばらしい読みをもった宮内聡。DFには、加藤久、松木安太郎、そして都並敏史が並んでいた。そう、24歳の都並がいた。
 だが、私はそこにいることはできなかった。仕事で前日に成田を発たねばばならなかったからだ。
 そこで、私は都並に手紙を書いた。

 「9年半前のことを覚えているだろうか。1976年3月21日、モントリオール五輪予選の対韓国戦が行われたときのことだ」
 「日本は釜本、永井が活躍し、最高の試合だった。しかしそれでも負けた。0−2というスコア以上に、韓国との間につけられてしまった力の差に、私はうちひしがれていた」
 「取材を終え、国立競技場を出ると、隣の公園で数人の中学生がミニゲームをしていた。気分転換をしようと、友人とともに入れてもらって驚いた。彼らの何人かは、日本人とは思えないひらめきとテクニックをもっていたからだ」
 「こいつらが大人になるころには、きっと韓国に勝てるようになるよ。私は友人とそう話し、大いに勇気づけられたのだ」
 「そう、それが君や戸塚哲也くんだった。明日、ワールドカップ出場をかけた韓国との決戦にそのふたりが出場するなんて、誰が信じてくれるだろうか!」

 ブエノスアイレスに着いて東京に電話を入れた私がどんなに失望したか、理解してもらえるだろうか。だが、それから8年もたったことし、「こんどこそは」という試合がカタールで行われることになった。
 オフト監督のつくった日本代表は、森監督のチームと同様、国民の大きな誇りだ。強いだけでなく、攻守にバランスのとれたエキサイティングなサッカーを見せてくれている。
 Jリーグチームでさえ、昨年からことしにかけてオフトの戦術を取り入れようとしている。中学や高校にも、ただ「がんばる」だけの選手でなく、ラモスやカズ(三浦知良)、そして福田正博といったイマジネーションあふれる選手を育てたいと考えるコーチがたくさんいる。
 だが、スポーツである以上、オフトは勝って自分のサッカーの正しさを証明しなければならない。森孝慈はそれができなかったために、歴史から正当な評価さえ受けていない。
 そのチームのひとつのカギが都並の左サイドでの攻守だとしたら、なんというめぐり合わせだろうか。

 そうした責任感を、都並はハッスルプレーに変えて表現してきた。左足がどんな状態だろうと、「この1戦が大事」となったら、その足でセンタリングも猛烈なタックルもいとわない。
 1976年以来、彼はずっとそのことを、日本代表のユニホームを着て世界の舞台に出ることを考え続けてきた。あのとき14歳の少年だった都並も、いまは32歳となった。
 そう、都並にとって、これはまさに「最終予選」なのだ。

(1993年10月12日=火)
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