サッカーのムダ話

Talk4 大学時代〜サッカーマガジン入社

皆さんこんにちは!
前回の話しでは奥寺康彦を擁し神奈川県で最強の座をほしいままにしていた相模工業大学付属高校や、帰化選手が多く活躍していた日本リーグについて話してくれました。今回は自身のサッカー人生の"転機"となったサッカースクールでのアルバイト経験や、「サッカーマガジン」入社までの経緯を語ってもらいました。

人生の転機となった東京サッカースクール

兼正(以下K)
そういえば大学時代にサッカーを教えていたって聞いたんですけど、どんなサッカースクールで教えていたんですか?

良之(以下Y)
東京サッカースクールというところでアルバイトをやっていたよ。本部は進学教室を経営している会社だったんだけど、お金が余ってたらしくて、大学生のアルバイトを雇って子供たちにサッカーを教えてたんだ。そこで大学二年生の時から卒業するまで働いてたね。面白かったよ。

K
教えるって大変だけれど面白いですよね。

Y
そうなんだよ、面白いし、それまではただサッカーを好きでやってきたから、自分が考えることってそう多くはなかった。でも教える立場になってから、子供たちにとって「何が大事なのか」って真剣に考えるようになったんだ。

K
大変なこともあったんじゃないんですか?


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Y
本部の管理職の人とぶつかったことがあってね。こっちからしたら「なんでそんなこと言われなきゃいけないんだ」っていう感じのこと。でも相手は責める訳だよね。それで「もうやってられるか」って、気持ちが離れそうになったけど、その時考えたんだ。大学を卒業してどんな会社に就職しても、こういう理不尽なことを要求したりする上司もいるに違いない、そこで辞めてしまったらおしまいじゃないか。仕事をするなら、自分が本当にやりたいことをやろうってね。大学三年の時だったかな。相手は覚えていないと思うけど、僕にとっては人生で非常に大きな出来事だった。サッカーで生きていこうって決めた時だったからね。

K
今考えるとそれが人生のターニングポイントだったんですね。

Y
何でもいいから少なくともサッカーの仕事には就こうと考えた。一生出来るかどうかはわからなかったけれどね。

K
確か大学は法学部でしたよね。

Y
そう、弁護士になろうと思っていたからね。だから一年生の時は一生懸命そのための勉強をしてた。でも勉強の仕方が悪かったのか、さっぱりわからない。テストとかはわかるんだけど実生活での経験がないから、いまいちピンと来なくて。法律って子供がやる学問じゃないって悟った。それで就職を考えるようになった。当時は売り手市場で、大学三年の頃は企業からPRの冊子が山ほど来たんだよ。

K
今の世の中の状況を考えるとうらやましい限り。僕も就職難だったから。

Y
そうだよね。それでね、おじいちゃん(良之の父)が企業からきた冊子を取っておくわけ。封筒だけで天井まで届いたよ(笑)。そんな世の中だったから、大変申し訳ないんだけど、大学二年生からあまり勉強をしなかった。一橋大学卒業って書いてあるけど、ゼミの教授からは「お前なんて大学に置いといても仕方ないから卒業させてやる」って言われてたよ(笑)。でも大学時代に何やっていたかってって聞かれたら「サッカースクールでサッカー教えてました」っていう他ないんだけどね。実際に指導するのは週一回だったけど、それまでの週6日、本部に通いつめて次の指導の準備だとか、夏の企画の検討だとか、安い給料で社員以上に働いていたよ。それがあったから働くってことに関して大きな自信を得ることができた。合宿ひとつに関しても、今まで誰もやらなかったことをやってみたりして、それが好評で徐々に認められていったり。本当に面白くて楽しかったから、卒業するまですっと続けてた。

K
家族の反対とかはなかったの?

Y
大学三年生が終わろうとしていた1月に履歴書を「サッカー・マガジン」編集部に渡しに行ったあとに話したね。神田駅からいきなり「サッカー・マガジン」の裏表紙に書いてある電話番号に電話して、「サッカー・マガジンの池田恒雄さんお願いします」って。本当に何も知らなかったんだよね。池田恒雄さんというのは、ベースボール・マガジン社の創始者で、当時の社長なんだ。でもサッカー・マガジンの裏表紙には「編集兼発行人・池田恒雄」となっていたから、編集長だと思いこんでいたんだ。

K
相手はびっくりしなかったんですか?

Y
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そりゃあびっくりするよ。「どういうご用件でしょうか」って聞かれたから、そこで「サッカー・マガジンに入りたいんですけど」って言ったの。

K
話は聞いてもらえたんですか?

Y
電話交換手の女性がとっても親切な人で、サッカー・マガジンの編集長につないでくれた。「話を聞いてください」って言うと会ってくれて近くの喫茶店で話をした。そうしたら開口いちばん「こんな会社やめとけ」って言われた(笑)。給料安いし、会社更生法にその時入っていたからね。「でもやりたいんです」って言って履歴書渡して帰ってきたら一カ月くらい経って、編集部から「社長が会いたいと言っているから来い」と連絡があって池田恒雄さんに会いに行くことに。でも関係のない話ばっかり。「お前だったら将来銀行の頭取にでもなれるだろ」って、ガハハと笑って。それで就職内定だったんだよ。
→(次回に続く)

Talk3 高校サッカー部のころ

明けましておめでとうございます!本年も「サッカーのムダ話」をよろしくお願いいたします。
前回、入部したサッカー部での出来事や、64年東京オリンピック、対アルゼンチン戦で日本が逆転勝利をおさめ、日本サッカー界の歴史的一歩を踏み出したことについて話してもらいましたが、今回は「東洋のコンピューター」と呼ばれたあの人との対戦や、チームのスタイルが明確で楽しめた日本リーグについて語ってくれました。

奥寺康彦と相模大学付属高校黄金期

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兼正(以下K)
東京オリンピック後にサッカーの認知度が高まったことは、神奈川県の高校に何か変化をもたらしたんですか?

良之(以下Y)
そうだね。スポーツに力を入れていた学校には、いい選手が集まるようになった。神奈川県だと、なんと言っても相模工業大学付属高校。僕の年代の各中学のエースがごっそり集まってすごいチームを形成してた。あの奥寺康彦もいた。神奈川県の高校はそれまで全国に行っても上の方まで進むのが難しかったんだけど、その年代は確かベスト8までいったんじゃなかったかな。とにかく圧倒的に強かったよ。

K
相模工業大学付属高校はものすごい練習量で有名だったって聞いたことがあるけど。

Y
そりゃそうだろな。うちみたいな週二回の部活動じゃやっぱりだめだよ(笑)。ちなみに高校サッカーで一番メインとなる二年の時のインターハイの初戦の相手。

K
え!? 1回戦でいきなりそんな強豪校と。

Y
そうなんだよ。だからこっちはもう守るしかないって感じだった。でも、始まってすぐに相手の左からのコーナーキック。バーンって大きめのボールが上がって、僕らはみんな裏に抜けるなって思っていたんだよ。そうしたら中央で奥寺がドカーンって来て。ジャンプを見たら、二階ぐらいの高さからすごいヘディングシュート打つわけ。それで先制されてしまった。

K
もう漫画みたいな世界(笑)。

Y
怪物だったよ。彼はね、中学から高校にかけて体がグンと急激にでかくなった。だから存在感も抜群で。

K
奥寺さんって当時どのポジションでプレーしてたんですか?

Y
センターフォワードだった。すごかったよ、とにかく。

K
県内で他で強い高校はありましたか? 今だと、桐蔭学園とかが強豪として有名ですけど。

Y
桐蔭は今ほどじゃないけど、当時ベスト8に入るぐらいの力はつけていたね。まあ、でもやっぱり相模工業大学付属高校が図抜けた強さだったってことは強烈に覚えているよ。


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さまざまなプレイスタイルを楽しめた日本リーグ

K
おじさんの高校時代って「三菱ダイヤモンド・サッカー」の他に、世界のサッカー情報を仕入れる手段ってなんだったんですか? 僕の高校時代はテレビだと深夜にフジテレビでやっていた「セリエAダイジェスト」。ジョン・カビラさんと青島アナウンサーの実況が面白くて強烈に印象に残ってます。特に青島さんが、当時インテルに所属していたヴィエリの実況をするときなんか最高だった。彼がボールを持つと、ただ「ウォー、ウォー」って吠えまくるの(笑)。一見言葉だけだと意味が伝わらないんだけど、彼のいかつい風貌とガツガツしたプレースタイルがあまりにもマッチしていて深夜なのにゲラゲラ笑ってました(笑)。あとは、雑誌だと「サッカーマガジン」や「サッカーダイジェスト」。ちょっと格好つけてるやつはナンバーとか読んでましたね。

Y
僕の頃はサッカー関連の情報を伝える媒体自体が少なかったからね。でも「サッカーマガジン」はあった。少し経ってから「イレブン」が創刊されたんだけど。「三菱ダイヤモンド・サッカー」が始まったのが高校二年の時。それで一年間はずっとイングランドサッカー漬け。それ以外の国のサッカーってほとんど見ることが出来なかったから。「サッカーマガジン」にのる海外情報もほとんどイングランドだったね。

K
好きなチームってありました?

Y
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高校のころは、特別好きなチームってなかったかな。でも日本リーグのヤンマーのことは気になって見てたね。1967年に釜本が入って、そのあとすぐネルソン吉村が入団した。ヤンマーのプレースタイルってとっても画期的だったんだよね。当時は東洋工業サッカー部が「第三の動き」っていう呼び名がつけられるほど、人が動くサッカーで強かった時代。それに対抗するのはヨーロッパスタイルの三菱重工業サッカー部。監督はブンデスリーガに短期間選手を預けて強化を図ったことでも有名な二宮寛。そこに鬼武健二監督のヤンマーがブラジルスタイルで食い込んできたわけ。ネルソン吉村に続いてカルロス・エステベスやジョージ小林をブラジルから呼んで、個人技はめちゃくちゃうまかったよ。日本人も個人技のうまいやつを揃えてた。今と比べてチームごとのスタイルの違いがとてもはっきりしていて、非常に面白かったね。

K
実際に見に行ったりとかは?

Y
高校時代はあまり行けなかった。横浜の三ツ沢には何回か行ったことはあったけれど。大学に入ったら、毎週のように見に行っていたよ。東京に住んでいたから、行こうと思えばいつでも見に行くことが出来た。お客さんも全然いなかったから、前売りも買う必要がなかった。スタジアムに行けば入れたからね。



→(次回に続く)

サッカーのムダ話について 大住良之の甥、大住兼正(サッカーライター見習い中)と繰り広げるエンドレス・サッカートーク!取材の裏話や記事にならなかったコボレ話など、ここでしか読めない貴重な内容満載の対話連載です。

企画、構成 : 大住兼正

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