サッカーのムダ話

Talk11 知られざる80年代女子サッカー発展の立役者(女子サッカーとロンドン五輪 第2回)

女子サッカーについて、前回はサッカーマガジン在籍時の考えや初観戦の印象などを語ってもらいました。今回は、熱心に女子サッカーの取材をされていた千野圭一さんのことや、80年代女子サッカー界の状況について。


取り上げるのが難しかった女子サッカー

兼正(以下K) 
実際に観に行ったことで本格的に取材をしようとは思いましたか?

良之(以下Y) 
それはなかったな。記事にするほどの盛り上がりはなかったからね。全日本選手権(現・皇后杯全日本女子サッカー選手権)を観に行くぐらいだった。決勝戦は国立競技場で開催されていたんだけど、イチ・ニ・サン・シ......って数えられるくらいしか観客が入っていなかった。あのころから考えると、いまのフィーバーぶりは到底想像できなかったな。

K 
全日本選手権へは取材で?

Y 
そう。だけど「女子サッカーを盛り上げるためにドーンと取り上げよう」とかまではあまり考えてなかったな。それよりも、当時編集長だったから、記者席で「どうすればもっと部数を伸ばせるか」とか「いかに経費を削減するか」とか試合を観つつも頭の中ではそんなこと考えてたね。

K 
そのときの「サッカーマガジン」は月刊誌だったんですか?

Y 
77年から81年のはじめまでは隔週で出してたんだ。隔週にすることで、最新情報を欲している読者に提供する目論見もあったんだけど、ニュースばかりで内容が薄いし、相変わらず日本リーグも盛り上がらなくてね。

人気なかったんですね、日本リーグ......。

そんな状況だから、結局81年半ばに月刊誌に戻したんだよ。それで読物をたくさん入れるようにした。だからこそなんだけど、ページが増えて女子サッカーの情報も入れられるようになったんだよね。


黎明期の女子サッカー発展に貢献した千野圭一

K 
なるほど。それで千野さんが女子サッカーの記事を担当されていたんですね。

Y 
そうなんだ。一生懸命取材をしてたよ。後にベースボールマガジン社が菅平高原でサッカーの大会を開催するようになったとき、彼の独断で第1回から女子の大会も一緒に開催してたんだよ。

本当に熱心だったんですね。

しばらくして女子の大会は中止になったんだけど、菅平の大会がうまくまわるようになると、80年代の後半には男子とは別に女子の大会だけを開催するようになった。80年代って全国的な女子チームが交流できる場がなかったから、関係者から非常に喜ばれていたのを覚えているよ。だから僕なんかよりずっと、彼のほうが女子サッカー普及の貢献者だよ。

K 
菅平の大会以外で、千野さんが女子サッカーのための大会を開催したりとかはあったんですか?

いや、なかったと思うな。ただ、編集長のときはとくに力を入れていたようだね。女子サッカーを取り上げれば売上げが上がるって時代じゃなかったから、おそらく一生懸命プレーしている子たちを応援しなきゃ、って気持ちで力を入れていたんだと思うけどね。

K 
当時の女子チームって、日本にどれくらいあったんですか?

Y 
79年に女子チームの登録がはじまったんだ。最初は52チーム、919人。

K 
それに比べるといまの数字って凄いですよね。

Y 
ただ、せっかくこれだけ盛り上がったんだから、登録数ももっと伸びなきゃいけないけどね。

(次回に続く)

Talk11 000503菅平女子サッカー大会cut_small.jpg
菅平女子サッカー大会(2000年5月撮影)


<大住良之より>
 「サッカーマガジン」の編集長を1982年に私から引き継ぎ、1998年まで16年間にわたって務めた千野圭一さんが、2012年10月31日に亡くなられました。58歳という若さでの逝去に、残された93歳のお母様をお慰めする手立てもありませんでした。東京新聞の「サッカーの話をしよう」のコラムでは、11月7日付けで彼への追悼記事を書きました。この「ムダ話」とともに、その記事をお読みいただけると幸いです。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
サッカーのムダ話について 大住良之の甥、大住兼正(サッカーライター見習い中)と繰り広げるエンドレス・サッカートーク!取材の裏話や記事にならなかったコボレ話など、ここでしか読めない貴重な内容満載の対話連載です。

企画、構成 : 大住兼正

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