サッカーのムダ話

Talk9 想像以上の苦労を強いられた海外取材

前回は念願のワールドカップ初取材について語ってもらいました。今回も引き続きワールドカップ初取材について、そして70年代後半の日本のサッカー熱について伺いました。


消えた航空貨物

兼正(以下K) 
78年ワールドカップの当時、海外からの原稿送りはどうしていたんですか?

良之(以下Y) 
原稿や写真を送るのは航空貨物。確認するのはすべて国際電話だった。メールもファクスもなかったからね。もしすぐ送らなければいけない記事があったら、国際電話をかけて口述筆記してもらうしかなかった。国際電話といっても、あのころは、アルゼンチンから日本にかけるには、国際電話局に申し込んで、回線が空くまで3時間も4時間も待たなければならなかった。電話代も高かったから、経費も大変だったよ。

K 
原稿を1本送るにしても大変ですね。

Y 
それがさ、大会が始まってから騒動が起きたんだ。必要なものを用意して航空貨物に載せたら、東京から「原稿が届かない」って恐ろしい連絡が......。大変な騒ぎになって、確認したらロサンゼルスの空港で3日間ぐらい置き去りにされていた。出すときに乗り継ぎの便もすべて指定していたにも関わらずにね。とにかく方々手を尽くしてなんとかなったんだけど、いまみたいにメールにデータを添付して、「はい終わり」じゃなかったから苦労したよ。

K 
航空貨物を送る際の封筒の中身はどんなものが入っていたんですか?

Y 
まずは原稿。これは自分が書くのもあるし、人からもらった原稿に赤字を入れたものもあった。もちろん小見出しを入れ、タイトルもリードもつけて。それからセレクトした写真。そして写真や原稿をこんなふうに使ってほしいとデザイナーに指示するラフも一緒に。それらを見開きごとにワンセットでひとつの袋に入れ、何10ページか分をひとつの荷物にして毎日のように送っていたよ。

K 
なるほど。いまでは考えられないような手間がかかっていたんですね。

Y 
本誌のほかに大会の別冊も制作していたからね。計400ページ近くをその方法でやり取りしていたんだ。写真の現像も現地のラボを探して持ち込み、翌日に受け取りに行くという方式だった。それから現地の雑誌社や通信社とも契約していて、毎日たずねてはネガから写真を選んで紙焼きしてもらって翌日受け取りに行っていた。それを全部ほとんどひとりでやらなければいけなかったからね。いまもブエノスアイレスの地理はよく覚えている(笑)。決勝戦の後、スタジアムからの道路が大渋滞で動かないなか、ひとつの通信社に写真を選びに行かなければならなかった。メディア用のバスで都心まで近づいたけれど、どうしても動かなくなったので、運転手に頼んで途中で降ろしてもらい、歩いて行った。ところがその通信社の担当スタッフが戻ってきたのは、僕が着いてから1時間後。「どうやってここまで来たんだ?」と聞くから「どこどこで降ろしてもらって、そこから歩いてきた」と話したら、「お前は俺たちよりブエノスアイレスを知っている」と感心されたよ(笑)。

K 
ブエノスアイレス以外での開催試合はどうしていたんですか?

Y 
カメラマンを送るだけで、他の都市の試合はテレビで見るだけだったね。大会中はずっといま話したような状況だったからブエノスアイレスを離れるわけにはいかず、ロサリオで行われたブラジル対アルゼンチンの試合を見に行きたくても無理だった。

K 
寝る暇はあったんですか?

Y 
毎日2時間くらいかな。睡眠不足で開催期間中、半分夢遊病のような状態だった。だから決勝で再試合になった日には、そりゃ困っちゃうよ(笑)。


気持ちを奮い立たせた「イレブン」の存在

K 
なんだか海外取材が怖くなってきました(笑)。

Y 
いまはもうそういう心配はないから、気にしなくて平気だよ(笑)。ただ、そんな状況でも、"やんなきゃいけない"って気持ちを奮い立たせたのが同じサッカー専門の月刊誌『イレブン』(日本スポーツ出版社)の存在だった。『イレブン」にだけには負けたくないっていう気持ちがあった。

K 
ライバル視していたんですね。

Y 
狭い市場だからね。『イレブン」の増刊号よりいい本を作りたい、の一心だったよ。

K 
その頃の日本国内のサッカー人気はどうでしたか?

Y 
日本リーグの観客数を調べたらわかると思うけど、どん底の時代だった。ただ、それまで関西で行われてきた高校サッカーが77年正月の大会から首都圏にやってきた。日本テレビが強引にもってきたんだけど。そうしたら高校サッカーの人気の凄いこと。最初の大会で、帝京(東京)、浦和南(埼玉)、静岡学園(静岡)という個性的な3チームが優勝を争い、国立競技場がほぼ満員になった。日本リーグや天皇杯はもちろん、日本代表の試合でもありえなかったことだった。

K 
その人気は日本リーグに波及したんですか?

Y 
日本リーグよりも大学サッカーに波及したと思うよ。当時の選手たちは先を見据えて高校卒より大学卒を選ぶ時代だったから。まだ関西で開催されていたころの高校サッカーのアイドルだった西野(朗/現・神戸監督)なんかもそうだった。彼は浦和西高から早稲田に進学したんだけど、関東大学リーグの試合が行われる西が丘サッカー場に女性ファンがたくさんつめかけてえらいことになってね。それまではがらがらだったのに...。黄色い声援が飛び交うし、西野がけがしたときには白いハンカチで涙をふいていた女性がたくさんいたよ(笑)。


以上、良之おじさんがどのようにしてサッカーと出会い、記者の道に進んだのか、当時の国内外のサッカー事情も交えてのお話しでした。78年ワールドカップのことや、当時のサッカーメディアのことなど、個人的に興味深いトピックがいろいろあったので、機会があればもっと詳しい話を聞きたいと思います。
次回からはまた別のテーマでお届けしようと思います。
どうぞお楽しみに!

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
サッカーのムダ話について 大住良之の甥、大住兼正(サッカーライター見習い中)と繰り広げるエンドレス・サッカートーク!取材の裏話や記事にならなかったコボレ話など、ここでしか読めない貴重な内容満載の対話連載です。

企画、構成 : 大住兼正

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