今週土曜日、UAE最北部のラスアルハイマで「AFC U-19選手権」が開幕する。
1993年以降生まれの選手によるアジア選手権。だがより重要なのは、来年トルコで開催されるU-20ワールドカップのアジア最終予選を兼ね、上位4チームにその出場権が与えられることだ。
オリンピック(23歳以下)、U-17とともに男子の年代別の世界大会のひとつを構成するU-20。今月欧州遠征した日本代表23人のうち半数以上に当たる12人が、過去にこの大会出場の経験をもっている。「日本代表の登竜門」と呼んでもいいだろう。しかし日本は過去2大会(09年と11年)、いずれもアジア予選の準々決勝で韓国に敗れ、「世界への道」を阻まれている。
「経験の上でもブラジルが上だった」
今月ブラジルに0-4で敗れた日本代表のザッケローニ監督は、日本に必要なのは強豪との対戦経験であることを強調した。
その経験は、ユース時代からの積み重ねが重要だ。ところが「極東」という日本の地理的条件が大きな障壁となる。日常的に欧州や南米の強豪と対戦することは不可能。そして親善試合ではなく勝負をかけた公式大会での対戦機会となると、さらに難しい。
U-20ワールドカップ出場は、その貴重な機会と言える。95年から7大会連続してこの舞台に立ってきたことが、現在の日本代表の重要なベースになっている。09年以来2大会連続の「予選落ち」は、将来を考えると大きな懸念材料だ。
今回U-19日本代表を率いるのは吉田靖監督(52)。内田篤人や香川真司を中心に07年U-20ワールドカップでベスト16に進出した経験を「3大会連続予選落ち」阻止に注ぐ。
チームは10月22日から26日まで新潟県の十日町市で合宿、練習試合を2つこなして27日にUAEに向かった。
この合宿中にエースのFW久保裕也(京都)が急激に調子を上げ、期待を膨らませた。中盤には大島陵太(川崎)、熊谷アンドリュー(横浜)というJリーグで実績をもつ頼もしい選手が並び、守備の中央では、2年前の大会で涙を流したキャプテンの遠藤航(湘南)が雪辱を誓う。
1次リーグの相手は、イラン(3日)、クウェート(5日)、そしてホスト国UAE(7日)。「3チームとも非常に手ごわい」(吉田監督)が、「チーム全員で世界大会への切符を勝ち取る」(遠藤)と、選手たち自身が責任感にあふれているのが頼もしい。
(2012年10月31日)
プロ野球・福岡ソフトバンク・ホークスの小久保裕紀選手が、チームメートと相手の北海道日本ハムファイターズの選手たちに胴上げされたシーンは、とても感動的だった。
先週金曜日、札幌ドームで行われたパリーグのクライマックスシリーズ第4戦でファイターズが勝ち、日本シリーズ進出を決めた。それはホークスのシーズン終了も意味していた。今季限りで引退を発表していた小久保選手にとっては、現役最後の試合となった。
試合後、表彰式が終わり、ファイターズの選手たちがレフト側の外野席前に整列してあいさつをする。ホークスの選手たちもライト側に並ぶ。ところがあいさつを終わったファイターズの選手たちがいっせいにライト側に走り始めたのだ。
何事かと思った先に小久保選手がいた。たちまちファイターズの選手たちに囲まれ、握手攻めにあう小久保選手。やがてチームメートも集まり、両チームの選手たちの手によって小久保選手の体は6回も宙に舞った。
スタンドを埋めた満員の観衆の多くは当然のことながらファイターズ・ファン。だが盛大な拍手とともに「コクボ! コクボ!」のコールを繰り返した。小久保選手は帽子を取って高く挙げ、何回もおじぎをして感謝の気持ちを表した。
ニュースでこの様子を見ながら、Jリーグも学ばないといけないと思った。サポーターの盛り上げが大きな役割を果たしているJリーグ。しかし無差別に相手チームを「敵視」することが役割と勘違いしているサポーターが少なくない。相手チームの選手は全員ブーイングの対象だ。
ブーイングに値する選手、ブーイングすべき選手もいるかもしれない。その一方で拍手で迎えたくなる選手、拍手すべき状況もあるはずだ。そう感じているサポーターも少なくないだろう。しかし相手チームの選手に拍手する雰囲気は、いまのJリーグにはない。そこには、「リスペクト」のかけらもない。
小久保選手に対するリスペクトの思いを素直に表現したファイターズの選手たちと札幌ドームのファンは、本当に素敵だった。Jリーグのサポーターも、もっと成熟しなければならないと思った。
小久保選手の引退セレモニーは、10日以上前にホーム最終戦で行われていた。しかしホームタウンから1400キロも離れた札幌での胴上げと心からの拍手は、小久保選手にとって何よりの贈り物だっただろう。
(2012年10月27日)
「若者と緑と橋と教会の町」
きのう日本代表がブラジルと対戦したポーランド南西部のブロツワフは、自分たちの町をこう表現している。
人口は約65万人。しかし市内に5つの大学があり、8万人もの学生が生活している。町はチェコに水源を発するオーデル川が複雑な中州を形勢する土地に位置し、市内に200を超す橋があるという。そして緑あふれる町のどこにいても、どこかの教会の尖塔(せんとう)を見ることができる。
だがそれだけではない。ブラツワフはサッカーの町でもある。
今夏開催された欧州選手権(EURO)の会場のひとつに選ばれ、3試合が行われた。そしてポーランド随一のパワーを誇るサポーターを擁する「シロンスク・ブロツワフ」のホームでもある。
65年の歴史をもつシロンスクは、昨季、実に35年ぶり2回目のリーグ優勝を飾った。5月4日のリーグ最終日、アウェーのクラクフ戦。勝たなければ優勝はないシロンスクだったが、後半9分にスロベニア人MFエルスナーが決めた1点を守り1-0の勝利。スタンドの3分の1を埋めた「緑のサポーター」の喜びが爆発した。
「その夜、ブロツワフ中心部の旧市場広場には何万人もの人が集まり、明け方までお祭りが続いたよ」
ブロツワフでサッカーのサイトを運営するプシェメクさんは、思い起こしながら幸福そうな表情を浮かべる。
今季、シロンスクは7節を終わって4勝1分け2敗で4位。だがその4勝は、すべてホームで挙げたものだ。
日本対ブラジル戦で使われたスタジアムはEUROのために昨年完成したもので、収容4万2771人。市民の誇りでもある。シロンスクは8000人収容の自前のスタジアムをもっているが、昨年来ここを舞台に戦うようになり、最近の平均観客は2万人を超す。
ブロツワフを中心とするシロンスク地方はドイツやチェコとの国境に近く、チェコ、オーストリア、プロシャ、そしてドイツと次々と支配者が変わってきた。第二次大戦後にはソ連によってドイツ領からポーランド領に編入され、住民を強制的にドイツに追い出してウクライナから入植させたという壮絶な歴史ももっている。
だが現在のブロツワフは、ポーランド経済を担う中心都市のひとつとして、水と緑の豊かな、落ち着いたたたずまいを見せている。
代表を追いながら、またひとつ「お気に入りの町」を見つけた。
(2012年10月17日)
前回は念願のワールドカップ初取材について語ってもらいました。今回も引き続きワールドカップ初取材について、そして70年代後半の日本のサッカー熱について伺いました。
消えた航空貨物
兼正(以下K)
78年ワールドカップの当時、海外からの原稿送りはどうしていたんですか?
良之(以下Y)
原稿や写真を送るのは航空貨物。確認するのはすべて国際電話だった。メールもファクスもなかったからね。もしすぐ送らなければいけない記事があったら、国際電話をかけて口述筆記してもらうしかなかった。国際電話といっても、あのころは、アルゼンチンから日本にかけるには、国際電話局に申し込んで、回線が空くまで3時間も4時間も待たなければならなかった。電話代も高かったから、経費も大変だったよ。
K
原稿を1本送るにしても大変ですね。
Y
それがさ、大会が始まってから騒動が起きたんだ。必要なものを用意して航空貨物に載せたら、東京から「原稿が届かない」って恐ろしい連絡が......。大変な騒ぎになって、確認したらロサンゼルスの空港で3日間ぐらい置き去りにされていた。出すときに乗り継ぎの便もすべて指定していたにも関わらずにね。とにかく方々手を尽くしてなんとかなったんだけど、いまみたいにメールにデータを添付して、「はい終わり」じゃなかったから苦労したよ。
K
航空貨物を送る際の封筒の中身はどんなものが入っていたんですか?
Y
まずは原稿。これは自分が書くのもあるし、人からもらった原稿に赤字を入れたものもあった。もちろん小見出しを入れ、タイトルもリードもつけて。それからセレクトした写真。そして写真や原稿をこんなふうに使ってほしいとデザイナーに指示するラフも一緒に。それらを見開きごとにワンセットでひとつの袋に入れ、何10ページか分をひとつの荷物にして毎日のように送っていたよ。
K
なるほど。いまでは考えられないような手間がかかっていたんですね。
Y
本誌のほかに大会の別冊も制作していたからね。計400ページ近くをその方法でやり取りしていたんだ。写真の現像も現地のラボを探して持ち込み、翌日に受け取りに行くという方式だった。それから現地の雑誌社や通信社とも契約していて、毎日たずねてはネガから写真を選んで紙焼きしてもらって翌日受け取りに行っていた。それを全部ほとんどひとりでやらなければいけなかったからね。いまもブエノスアイレスの地理はよく覚えている(笑)。決勝戦の後、スタジアムからの道路が大渋滞で動かないなか、ひとつの通信社に写真を選びに行かなければならなかった。メディア用のバスで都心まで近づいたけれど、どうしても動かなくなったので、運転手に頼んで途中で降ろしてもらい、歩いて行った。ところがその通信社の担当スタッフが戻ってきたのは、僕が着いてから1時間後。「どうやってここまで来たんだ?」と聞くから「どこどこで降ろしてもらって、そこから歩いてきた」と話したら、「お前は俺たちよりブエノスアイレスを知っている」と感心されたよ(笑)。
K
ブエノスアイレス以外での開催試合はどうしていたんですか?
Y
カメラマンを送るだけで、他の都市の試合はテレビで見るだけだったね。大会中はずっといま話したような状況だったからブエノスアイレスを離れるわけにはいかず、ロサリオで行われたブラジル対アルゼンチンの試合を見に行きたくても無理だった。
K
寝る暇はあったんですか?
Y
毎日2時間くらいかな。睡眠不足で開催期間中、半分夢遊病のような状態だった。だから決勝で再試合になった日には、そりゃ困っちゃうよ(笑)。
気持ちを奮い立たせた「イレブン」の存在
K
なんだか海外取材が怖くなってきました(笑)。
Y
いまはもうそういう心配はないから、気にしなくて平気だよ(笑)。ただ、そんな状況でも、"やんなきゃいけない"って気持ちを奮い立たせたのが同じサッカー専門の月刊誌『イレブン』(日本スポーツ出版社)の存在だった。『イレブン」にだけには負けたくないっていう気持ちがあった。
K
ライバル視していたんですね。
Y
狭い市場だからね。『イレブン」の増刊号よりいい本を作りたい、の一心だったよ。
K
その頃の日本国内のサッカー人気はどうでしたか?
Y
日本リーグの観客数を調べたらわかると思うけど、どん底の時代だった。ただ、それまで関西で行われてきた高校サッカーが77年正月の大会から首都圏にやってきた。日本テレビが強引にもってきたんだけど。そうしたら高校サッカーの人気の凄いこと。最初の大会で、帝京(東京)、浦和南(埼玉)、静岡学園(静岡)という個性的な3チームが優勝を争い、国立競技場がほぼ満員になった。日本リーグや天皇杯はもちろん、日本代表の試合でもありえなかったことだった。
K
その人気は日本リーグに波及したんですか?
Y
日本リーグよりも大学サッカーに波及したと思うよ。当時の選手たちは先を見据えて高校卒より大学卒を選ぶ時代だったから。まだ関西で開催されていたころの高校サッカーのアイドルだった西野(朗/現・神戸監督)なんかもそうだった。彼は浦和西高から早稲田に進学したんだけど、関東大学リーグの試合が行われる西が丘サッカー場に女性ファンがたくさんつめかけてえらいことになってね。それまではがらがらだったのに...。黄色い声援が飛び交うし、西野がけがしたときには白いハンカチで涙をふいていた女性がたくさんいたよ(笑)。
以上、良之おじさんがどのようにしてサッカーと出会い、記者の道に進んだのか、当時の国内外のサッカー事情も交えてのお話しでした。78年ワールドカップのことや、当時のサッカーメディアのことなど、個人的に興味深いトピックがいろいろあったので、機会があればもっと詳しい話を聞きたいと思います。
次回からはまた別のテーマでお届けしようと思います。
どうぞお楽しみに!