No.907 J2を活性化する昇格プレーオフ

 11月11日のJ2(Jリーグ2部)最終節はまさに激動の一日。この日の試合結果により、なんと2位から6位の5チームもの順位が入れ替わるという激しさだったのだ。
 町田ゼルビアに3-0で勝った湘南ベルマーレが、アビスパ福岡と0-0で引き分けた京都サンガを抜いて2位に上がり、J1への昇格が決まった。3位となった京都は「J1昇格プレーオフ」に出場することになった。
 J1からの降格は3チーム。昨年まではJ2の3位までが自動的に昇格していたが、ことしから自動昇格は上位2チームだけ。残るひとつの座は3~6位の4チームによる勝ち抜き方式の「昇格プレーオフ」で争われる。
 その「準決勝」は18日、3位京都対6位大分トリニータと4位横浜FC対5位ジェフ千葉。上位チームのホームで行われる1戦制だ。そして「決勝」は23日、舞台は東京の国立競技場。準決勝、決勝とも同点の場合には延長戦はなく、上位チームの勝ちとなる。
 こうした3~6位の昇格プレーオフは89年にイングランドで始められ、05年からイタリアが追随するなど、欧州で徐々に広がり始めている。Jリーグもそれにならった形だ。
 3月から11月まで42試合も戦って最終的に得た「3位」という成績が即昇格には結びつかなかった京都は、無念に違いない。しかし私は、このプレーオフにはそれほど不公平さを感じない。
 2位の座をめぐって、そして6位までにはいることを目指して争われたJ2の今季終盤の熱気は、3位チームの嘆きを補って余りあるものだった。これまであまり注目されず、ともすれば女子のなでしこリーグよりメディアの扱いが小さかったJ2というプロリーグに、新しい生命力を与えたようにさえ感じるのだ。
 プレミアリーグ昇格の最後の1枠を争ったことしのイングランドのプレーオフは、ウェストハム対ブラックプール。ウェストハムは2位と勝ち点差わずか2で、4位には10勝ち点差と大きく水を空けていたが、ルールを受け入れてプレーオフに出場、決勝では後半42分に勝ち越し点を挙げて昇格を勝ち取った。
 このプレーオフ決勝はロンドンのウェンブリースタジアムで開催され、毎年約8万人の観客を集めるという。シーズンの終わりを飾るFAカップ決勝と並ぶ5月のビッグゲームとなっているのだ。
 日本のプレーオフもそんな試合に成長できるだろうか。
 
(2012年11月14日)

「サッカーの話をしよう」2009年分をアップしました

No.906  女子サッカー発展を支えた千野圭一さん

 1982年から98年まで「週刊サッカーマガジン」(ベースボールマガジン社)の編集長を務めた千野圭一さんが、10月31日深夜に亡くなられた。
 1954年生まれ。58年間の生涯は短すぎる。だが日本のサッカーに多くのタネをまき、その成長を確認できた16年間の編集長生活は、本当に充実したものだっただろう。なかでも女子サッカーの発展は、彼の報道の立場からの支援を抜きに考えることはできない。
 彼の前任者は、まだよちよち歩きの女子サッカーを専門誌に取り上げる必要性を認めなかった。しかし千野さんはひとり「女子サッカーのページ」をつくることを主張して譲らなかった。
 興味本位ではない。サッカーに対する女子選手たちの真摯(しんし)な姿勢に打たれ、心から応援しようと思ったのだ。「女子」としてではなく、「サッカー選手」、「サッカーチーム」として扱った。
 81年、女子日本代表が誕生した年に東京で行われたイタリア戦に出場した大原智子さんは、試合直後に千野さんからこう言われた。
 「大原さん、これはサッカーじゃなかったね。相手のケツばかり追い掛けているようじゃだめだよ」
 0-9で大敗し、号泣している選手に、追い打ちをかけるような言葉。「正直、きつかった」と大原さん。
 しかしなぜか冷静になれた。そのとおりだと思った。
 かなり後になって、千野さんの言葉が、フェアに、そして偏見なく、ただのサッカーとして自分たちの試合を見て評価してくれた、本物の愛情であったことが理解できたという。女子サッカーに対する千野さんのスタンスは、その後もまったく変わらなかった。
 長い間、女子サッカーは報道の対象にすらならなかった。しかし千野さんは女子の動向を伝え、指導者や選手たちを支援し続けた。
 菅平高原で「サッカーマガジン杯」の大会が始まったときにも、強引に女子部門を入れた。ことし第25回を迎え、いまや80を超すチームが参加するこの大会が女子サッカーの普及と発展に果たした役割は小さくない。
 その千野さんを心から喜ばせたのは、昨夏の女子ワールドカップ優勝だった。04年以来相次ぐ大病に襲われ、自宅療養を余儀なくされていた千野さんだったが、深夜の中継を熱心に見ていたという。
 日本の女子サッカーが今日の姿を迎えた陰に、千野さんの大きなサポートがあったことを感謝して、追悼の言葉としたい。
 
(2012年11月7日)