英語では「ヨーヨークラブ」と表現する。
「ヨーヨーを楽しむクラブ」ではない。昇格と降格を繰り返し、1部と2部を行ったり来たりする不安定なクラブのことだ。ドイツやスペインでは「エレベーターチーム」と呼ぶらしい。
イングランドのウェストブロミッジ・アルビオンは、今世紀だけでプレミアからの降格3回と昇格4回を経験し、典型的な「ヨーヨークラブ」と言われている。だが世界には上がある。キプロスのアリス・リマソルだ。
1997年から10年連続で降格と昇格を繰り返すという、他の追随を許さない「世界記録」を樹立。07年にようやく1部残留を果たしたが、翌08年からまた5年連続して腰の落ち着かない期間を過ごし、今季は2部でプレーしている。
93年にスタートしたJリーグに2部(J2)が誕生したのが99年。過去に1シーズンでもJ1でプレーした経験をもつクラブの数は28になるが、そのうちJ2でのプレー経験がないのは98年に消滅した横浜フリューゲルスを含めても7クラブにすぎない。
日本の「ヨーヨークラブ」は京都サンガだ。96年にJリーグに加盟、2001年にJ2に降格したものの1年でJ1に復帰した。04年の2回目の降格のときには再昇格に2年かかったが、1年でJ2に逆戻りし、また1年でJ1にUターン。そして11年に4回目のJ2降格を迎えた。降格4回、昇格3回。ウェストブロミッジに負けない「堂々たるヨーヨークラブ」だ。
その京都が4回目の昇格に向けて奮闘している。今月中旬には4連敗で6位に後退していたが、その後の連勝で自動昇格圏の2位に勝ち点2差に迫る3位まで持ち直してきた。
今季のJ2は、1位と2位は自動昇格だが、残る1つの座を目指して3位から6位までの4チームが「プレーオフ」を戦う新方式。2位湘南ベルマーレに8勝ち点差をつけている首位ヴァンフォーレ甲府は自動昇格(3回目のJ1昇格)が有力になったが、2位以下はまだまだ予断を許さない状況だ。
1部と2部を行き来するクラブのサポーターには、安定したクラブにはない醍醐味(だいごみ)があるに違いない。単なる順位争いを超え、大げさに言えば「生か死か」のスリルを豊富に体験できるからだ。降格は誰にとっても大きな失望に違いない。だが昇格はクラブの勲章のようなもの。勲章の数は誇りにしていい。
(2012年9月26日)
前回はサッカーで食べていくために一度は考えた指導者への道について語ってもらいました。今回はベースボールマガジン入社後、ワールドカップを取材に行くためにしたことや、初めてのワールドカップ取材について聞きました。
夢が叶った78年アルゼンチンワールドカップ
兼正(以下K)
「ワールドカップへ行きたい」という気持ちが強く、そして取材に行ける可能性が高かったため「サッカーマガジン」を選んだわけですが、入社したから絶対に行けるというわけではないですよね? そのあたりはどうクリアしたんですか。
良之(以下Y)
とにかくいろんな人にアピールしたよ。仕事もそうだけど、ちょっとした雑談の時なんかに「78年のワールドカップは......」って話題に出した。そうすると、自然と編集部の中でも「78年大住の番かな」っていう雰囲気になったんだ。
K
そういった強い気持ちが78年ワールドカップ現地取材を実現させたわけですが、実際に取材をしていちばん印象に残った試合はなんでしたか?
Y
やっぱり決勝のアルゼンチン対オランダかな。ただ、試合そのものも印象に残っているんだけど、それ以上にアルゼンチンのサポーターが作る会場の雰囲気がとっても強烈な印象だった。終わったあと、街中の道路という道路を車が埋め、クラクションを鳴らしながら狂喜乱舞する熱気も含めて、とにかくそれが強烈なイメージとして頭のなかに残っている。歴史的にみると、あの78年ワールドカップの評価ってそんなに高くないんだよね。クライフも本大会は結局出場しなかったし、いわゆるスーパースター不在の大会だった。でも、観客の作る雰囲気は凄かったね。
K
78年はケンペスが活躍した大会でしたよね。決勝戦ももちろん会場で取材されたと思いますが、なにか大変だったこととかはありましたか。
Y
心配がいくつもあった。そのひとつが日程だった。決勝の取材をしていたのが、「サッカーマガジン」のチーフだった僕とカメラマン4人。そのほかに読売新聞の牛木素吉郎さんや、共同通信社の奈良原武士さん(故人)らを含めた10人の団体で帰国用飛行機のチケットを取っていた。旅行会社が苦労してようやく確保してくれたのが、ブエノスアイレス→モンテビデオ→サンパウロ→ニューヨーク→アラスカ経由の日本といった航路だった。もちろん変更は不可。この大会までワールドカップではPK戦がなく、決勝戦が延長引き分けの場合には再試合という制度だったから、もうそれだけは止めてくれと思っていたよ(笑)。
K
もし再試合になっていたらどうしていましたか?
Y
そもそも再試合になった時のことなんて、考えてもいなかったんだよ(笑)。でも牛木さんに「大住君、このチケットは変更がきかないものだよね。もし再試合になったらどうする?」って指摘されて。それまで考えになかったことだから、どうしようか思案していたら、牛木さんが「俺はもし再試合になったら、その試合を見ずに帰るのは嫌だ」と言いだして(笑)。牛木さんはもともと海外経験が豊富な方だったから「再試合になったら俺がこの10人分のチケット、なんとかするから」って。牛木さんならなんとかしてくれるかもしれないとは思っていたけど、10人の帰国便については、僕が責任ある立場だったし、予約を確保するのさえ難しいチケットだったからね。もうどっちが勝ってもいいから勝敗が決まってくれって心から祈ってたよ(笑)。
K
取材も気が気じゃないですね(笑)
Y
そんなことを思っていたからかどうかわからないけど、試合は延長戦までもつれこんだでしょ。「あと30分で点が入らなかったら、いよいよ大変なことになる」って心臓がバクバク。そしたらケンペスがゴールを決めてくれて。「ヨッシャー! 帰れる!!」って叫んだよ(笑)。
ケンペスを引き寄せたエースカメラマン
K
大変な思いをされていたんですね(笑)。
Y
いや、実はそれだけじゃなかったんだ。決勝戦で割り当てられたピッチに入れるカメラマンは全世界で90人ほど。そのうち日本の割り当てがわずか2人。
K
少ないですね。
Y
そうなんだよ。日本からは「サッカーマガジン」が4人、「イレブン」や「朝日カメラ」からも来ていた。会社数にするとカメラマンは10社くらいから派遣されていたんだ。それまでであれば、経験もあり、国際的にも有名だった「サッカーマガジン」のカメラマンが主催者側から指名されるのが普通だったんだけど、この時はなぜか「日本人同士で勝手に決めてくれ」と言われて。それでみんなで開いた会議の結果、抽選会をすることになったんだ。でもさ、現場は抽選で仕方ないかって気持ちになれるんだけど、その雰囲気がわからない東京にいる編集長が「そんなバカなことあるか! 写真なかったらどうやって本を作るんだ!!」ってカンカンに怒っちゃって。
K
大変なことになりましたね。
Y
カメラマンたちは今ある枠ふたつをどうやって増やそうか考えた。会議で相談した結果、2枚のうちの1枚を前・後半で分けることで計3枠にしようと。その上で抽選した結果、「サッカーマガジン」が確保できたのは、前半だけの枠だった。前半の写真しか撮れない訳だからね。当時は編集者だったから誌面構成をどうしようか考えたもんだよ。とくに表紙ね。
K
表紙用の写真は結局どうしたんですか?
Y
決勝の舞台はリバープレートスタジアム。陸上トラック併設型スタジアムなんだけど、当日になってメイン側のスタンド前、両ペナルティーエリアの横あたりにカメラマン用の仮設スタンドが増設され、その仮設スタンドにはいるチケットを1枚手に入れることができたんだ。当時のサッカーマガジンの「エース」は、ヨーロッパで8年間も取材経験のあった富越正秀さん。当然「ゴール裏」と言うと思ったんだけど、彼はそこは別のカメラマンに譲って、「自分は仮設スタンドにはいる」と言うんだ。前半だけのゴール裏に陣取ったのは松本正さん。この人もヨーロッパで何年も写真を撮っており、非常に優秀な人だった。しかし試合が始まると、松本さんがカメラを構えているのはアルゼンチンのゴール。試合はアルゼンチンが攻勢で、オランダはなかなか攻め込めなかったから、いいシーンが訪れない。やきもきしていると、前半37分。アルゼンチンが攻め込んでケンペスがゴールを決めたんだ。そうしたら、ケンペスは両手を広げ、まさに富越さんのほうに向かって叫びながら疾走してきたんだ。
K
そうだったんですか。
Y
すごいと思ったよ、富越さんは。ケンペスが富越さんに向かって走ってくるんだよ。「これでだいじょうぶ」と直感したね。得点よりもそれに興奮したよ。もちろん、すばらしい写真だった。
K
しびれるようなお話ですね。
Y
本当にそうだよね。中島光明さんというカメラマンは、国内取材が中心の人で、ヨーロッパでの経験はなかったけれど、この人も凄かった。決勝戦の朝、ゴール裏の2階席にはいる入場券をどこからか調達してきたんだ。何を撮るのかと思ったら、アルゼンチン名物の「紙吹雪」を、それを投げるサポーターの真ん中にはいって撮った。ある意味でこの大会を象徴するすばらしい1枚になったんだ。まあ、いま振り返っても本当にいろいろなことが起きた大会だったし、そういった意味ではこれまで取材してきたワールドカップのなかでもいちばん印象深い大会だね。
→(続きは次回)
「まるで外国で暮らしているようだった」
88年夏、イングランドの強豪リバプールの伝説的な得点王イアン・ラッシュが語ったと伝えられる言葉だ。
彼は前年夏に巨額でイタリアの名門ユベントスに移籍。しかしイタリア生活やセリエAのサッカーに適応できず、わずか1シーズンで戻ってきた。その直後の言葉だったから笑いを誘った。以来、ラッシュの名前は、外国のリーグに適応する難しさの象徴として語られるようになった。
だが、このところ欧州のリーグに移籍していきなり活躍を見せる頼もしい日本人選手が目立っている。その最新の例が、ドイツ・ブンデスリーガのニュルンベルクに移籍した清武弘嗣(22)だ。
開幕から3試合連続で先発出場。ビッグスターなど皆無のニュルンベルクだが、2勝1分けと好調だ。その中心に清武がいる。
第3節、アウェーのボルシアMG戦では、FKとCKから2点をアシストし、最後には圧倒的な個人技で決勝点まで決めた。
2-2で迎えた後半10分。ペナルティーエリア正面で清武がボールを受ける。目の前には大柄な相手DFが2人。そのひとりをひらりとかわし、崩れそうになった体勢を立て直すと追走してきた相手も外し、目の前にDFを置いたまま右足を振り抜く。ボールはDFの股間(こかん)を抜け、相手GKがあぜんとするなか左隅に決まった。
「すでに清武は完全にチームメートに受け入れられている」と語るのは、ドイツで30年以上にわたって活動し、現在はサッカーのデータ分析の専門家である庄司悟さん。
「ニュルンベルクはどの試合もボール支配は35%程度。走力とがんばりのチーム。そこに技術の高い清武がはいり、彼にボールを渡せば『いなし』をつくって良いパスが戻ってくることで周囲の選手の走力が生きるようになった。清武にとっても、自分自身の特徴や能力を生かしてくれる最良のチームにはいったのではないか」と庄司さんは説明する。
先の日本代表のイラク戦でも香川真司不在を忘れさせる活躍を見せた清武。今後の活躍が本当に楽しみだ。
ところで冒頭の言葉は、ラッシュ自身が語ったものではなく、チームメートの創作らしい。それが有名になってしまったのは、「外国暮らしの悪夢」をあまりに見事に表現していたからに違いない。
困難なことをさらりとやってのけている日本選手たち。本当に頼もしく感じる。
(2012年9月19日)
暑さはまだまだ続きそうだが、「サッカーの夏」はようやくひと段落ついた気がする。
ことしは6月上旬にワールドカップのアジア最終予選が始まり、重なるように欧州選手権(ウクライナとポーランド)が開幕した。そして7月1日の決勝が終わると、すぐに五輪モードだった。
なでしこジャパンとU-23日本代表の活躍で沸いたロンドン五輪のサッカーは8月11日に終了したが、19日には女子U-20ワールドカップが日本で開幕、9月8日に決勝を終えると、11日にはワールドカップ予選の前半戦のヤマ場イラク戦...。夢のように試合が続いていた感がある。
さて秋はJリーグの季節。気がつくと残りは10節。ラストスパートにかかる時期だ。
ところがここまできても、今季のJリーグは大混戦模様だ。
首位仙台から勝ち点で10差以内になんと10チームがひしめいている。例年なら4、5チームというところ。異常と言っていい。
ずっと首位を保ってきた仙台に、7月にはいって広島が追いつき、一気に差を広げたかに見えたが、8月下旬に失速、仙台が首位を奪い返した。そうこうしているうちに3位浦和がじわじわと差をつめてきた。
だがその下には、好調の磐田、J2から昇格1年目で驚異の躍進を見せている鳥栖、実力派選手をそろえた名古屋、若手が引っ張る清水、爆発的な得点力をもつ柏、スピード攻撃のFC東京、さらには滅多に負けない横浜の7チームが、勝ち点3差のなかにひしめいている。どのチームも、3連勝すれば一挙に優勝争いに加わることができる。
一方、J1残留争いも混沌(こんとん)としている。「降格圏」16位の新潟(17位大宮も同勝ち点)から10勝ち点差以内に11位の神戸まではいっているのだ。
「Jリーグは世界で最も難しいリーグ」。外国人監督たちの一致した意見だ。上位と下位の差が非常に小さく、多くのチームに優勝のチャンスと降格の危険性がある。実際、こんなリーグは世界のどこにもない。
極端に言えば、今季のJリーグは18チームのうち上位10チームが「優勝争い」、残りの8チームが「残留争い」のなか、ラストスパートの時期を迎える。サポーターならずとも居ても立ってもいられない状況なのだ。
「Jリーグの秋」。今週末から10月上旬まの4節は、そのいわば「準々決勝」だ。どこも、ここで脱落するわけにはいかない。
(2012年9月12日)