「サッカーのムダ話」を更新しました

Talk7 ベースボールマガジン入社で開けた夢舞台への切符

皆さん、更新滞っていて大変失礼しました! これからまた定期的に更新していきますので引き続きよろしくお願いします! ということで前回は両親にベースボールマガジン入社のためにした説得の様子まで話してもらいました。今回は引き続きその様子と、ベースボールマガジン入社前に考えた就職先の候補やワールドカップを見に行く難しさについて伺いました。

はじめて出した本の感想は「読みやすかった」

兼正(以下K) 
おばあちゃん(良之の母)はどういう反応をしたんですか? 僕のイメージだと、絶対に反対しそうですが......。

良之(以下Y)
その通り。当時の常識では、良い大学に入って良い会社に就職し、勤め上げる終身雇用の考え方。最もそれが人生をハッピーに過ごせる方法だと誰しもが思っていたし、そのために一生懸命息子を育てたっていうのに、突然わけのわからない出版社に入って「サッカーの本を作るんだ!」って言いだして。「仕事と趣味は一緒ではないでしょ」って嘆き悲しんでいたよ(苦笑)。

K 
それはベースボールマガジン入社後も続いたんですか?

Y
直接言われはしなかったけど、どこかで愚痴っていたかもしれないね。面と向かって言っても入社してしまったものは仕方がないし。でもね、だいぶ後になってなんだけどフリーで仕事をしていけるようになってはじめて出した『サッカーへの招待』(岩波新書)。これを買って読んでくれたらしく、会った時に「とても読みやすかった」って言ってくれたよ。

K
嬉しかったんじゃないですか。

Y
まあ、「読みやすかった」が褒め言葉かどうかはわからないけど(笑)。でも良いことには違いないからね。

K
そのあたりまで引きずっていたんですかね、おばあちゃん。

Y
そうかもしれないね。

K
いつまでも引きずりそうな性格ですもんね。

Y
ここで家族の会話をしても仕方ないだろ(笑)。でも思い返せば約20年かかったことになるのか......。ただ、母親の期待していた道とは違う方向へ進んだにしては、そうたいした年月じゃないのかもね。

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一度は考えた指導者への道

K
すこし話が戻りますが、ベースボールマガジンへ入社する前、指導者になる道は考えませんでしたか?

Y
それはね、考えたよ。サッカーで食べていくって考えた時のひとつの選択肢が高校のサッカー部の監督だった。でもそう思った時には、時すでに遅し。大学で教職課程を取っていなかったんだよね。先生なんて自分には向いていないって思っていたから。もし教職課程を取っていたら政治経済の先生とかになっていたかもしれないな。

K
高校サッカーの監督以外の選択肢はどうですか。

Y
そのほかの選択肢で思いついたのはサッカー協会。でもワールドカップに行くっていう希望を叶えられるとすれば「サッカーマガジン」編集部だって思ったんだよ。

K
わざわざ出版社に入社しなければいけないほどワールドカップを生で見るのは難しかったんですか?

Y
海外に行くことですらひとつの夢として成り立つ時代だったからね。はじめて行ったワールドカップが1974年の西ドイツ大会。この時はお金関係が大変だった。日本経済がまだ海外からそれほど信用されていないから外貨持ち出し制限があったんだ。一人当たり500ドルだったかな? それだけしか持っていけなかったんだ。ほかにもいろいろと費用がかかってね。

K
本当に大変だったんですね。

Y
そうなんだよ。当時、テレビのクイズ番組で一番良い商品が「"夢のハワイ旅行"に行けるチケット」なんて具合だからさ。ところが僕の一つ下の後藤健生さんは74年の時、大学生だったんだけど西ドイツまで見に行ったんだよ。

K
大学生で行くなんて、これまでのお話を聞いている限りよっぽどのことじゃないと行けないですよね。どうして行けたんですか?

Y
それはね、彼がクイズ王だったから。いろいろなクイズ番組に出て、賞金100万円を獲得したんだよ。それで行けたって言っていたよ。

K
えー(笑)。

Y
そうでもしないと行けないから(笑)。今みたいに気軽に海外に行ける時代じゃなかったからね。だから「サッカーマガジン」編集部に入ってなんとかしてワールドカップに行こうって思ったんだよ。

→(続きは次回)

No.856 ナビスコ杯よ、光になれ

 今週土曜日、Jリーグヤマザキナビスコカップの決勝戦が東京で開催される。
 浦和レッズ対鹿島アントラーズ。国立競技場が真っ赤に染まる。
 Jリーグは91年11月1日に法人設立、翌92年、最初の公式戦として開催したのがナビスコ杯だった。以来95年を除き毎年開催されてきたから、ことしで20年目、第19回ということになる。
 だが今回の決勝はこれまでとはまったく意味あいが違う。
 2万人に近い死者と行方不明者を出し、いまなお多くの人を苦しめている東日本大震災。Jリーグは開幕直後に中断、このナビスコ杯も大会形式の大幅変更を余儀なくされた。
 予選リーグは中止され、1回戦から完全ノックアウト方式の大会となった。総試合数は予定(55試合)の半数弱。大会自体が「被害者」なのだ。
 だがそれでも、J1在籍の全18クラブが参加して26試合を戦い、今週土曜に決勝戦を迎えることになった。
 浦和はJリーグでは不調に陥り、J1残留争いにもがいている。先週、監督交代もあった。だがナビスコ杯では1回戦から計6試合を戦い抜き、全試合で2点ずつ取ってきた。MF原口元気、山田直輝らユース出身選手が中心となって「新しい浦和」をつくる第一歩がこの決勝戦だ。
 対する鹿島は百戦錬磨。準々決勝、準決勝とも延長の後半に決勝点を挙げるという伝統の勝負強さを示した。MF小笠原満男を中心とした経験豊富な選手たちがFW大迫勇也やMF柴崎岳といった急成長の若手を支え、シーズン後半に充実度を増してきた。
 浦和と鹿島の決勝対決は8年ぶり3回目。過去は1勝1敗だ。
 だが今回の決勝戦はこれまでとはまったく違うものにしなければならない。同じものであってはならない。
 震災後、日本人の表情を最も明るくさせたのは、なでしこジャパンの女子ワールドカップ優勝だった。優勝したという事実以上に、あきらめることなく戦い続けた彼女たちの姿が人々の胸を打った。ナビスコ杯決勝にも、同じような力がないわけがない。
 この「特別な年」、2011年のナビスコ杯決勝の舞台に立つのは、Jリーグでもほんのひと握りの選手にすぎない。その誇りと、何よりも責任感を、全身全霊をかけたフェアなプレーで表現してほしい。そして国立競技場から発せられるまばゆいばかりの光で、日本中の人々の瞳を輝かせてほしいのだ。
 
(2011年10月26日)

No.855 ルールブックを読もう

 ひとりで1試合に3枚のレッドカードを受けた選手がいる。
 スコットランド・リーグのアバディーンに所属していたFWディーン・ウィンダス。1997年11月、ダンディー・ユナイテッドとのアウェーゲームでのことだった。
 キックオフから1分もしないうちに彼はスチュアート・ドゥーガル主審からイエローカードを示された。そして前半22分に2枚目を出され、自動的にレッドカード(退場処分)となってしまった。
 収まらないウィンダスがくってかかる。あまりの暴言に、主審は2枚目のレッドカードを示す。そして彼が腹立ち紛れにコーナーフラッグを抜き取って地面に叩きつけると、世にも珍しい3枚目が出されたのだ。
 当然のことながらウィンダスには厳罰が下され、6試合の出場停止処分となった。
 今日ではこんなことは起こらない。01年のルール改正で「競技者または交代要員あるいは交代した競技者にのみレッドまたはイエローカードを示す」と明記され、すでに退場になった選手にはカードは出されないからだ。
 毎年2月か3月に改正点が決められ、7月1日付けで発効するサッカーのルール改正。それを受けて、日本サッカー協会は毎年夏から秋ごろまでに新年度のルールブックを発行する。正式名称は「サッカー競技規則」だ。
 あまり知られていないが、日本は世界一の審判大国。登録審判員はおよそ20万人にも上る。毎年、その全員に配布されているから、ルールブックは「隠れたベストセラー」だ。
 だがその一方で、サッカー選手や指導者、報道関係者など「専門家」と呼ばれる人びとの多くがルールブックを読んでいないという驚くべき現実がある。読むどころか、最新版を持ってさえいない人が圧倒的だ。
 現在のルールブックは、ルール本体だけでなく、ルールの正確な解釈や細かな事象に審判がどう対処すべきかなどが書かれており、とても興味深い。さらに日本語版だけの付録として、主審と副審の合図(カラー写真)や今年度のルール改正とそれに対する日本協会からの解説など、盛りだくさんの内容だ。
 講談社が一般向けに販売しており、最新の2011/12年版は税込みで1575円。書店でもネットでも購入できる。
 専門家あるいは熱心なファンなら、年にいちどは新版を購入し、じっくりと読んでみるべきではないだろうか。別に宣伝を頼まれたわけではないが...。
 
(2011年10月19日)

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