No.796 ディエゴ・フォルラン 無私のスーパースター

 スペクタクルなゴールを決めると、彼は両手を大きく広げ、チームメートのところに駆け寄った。その姿に、新しいスーパースター像が象徴されていた。
 ワールドカップ2010南アフリカ大会の「ゴールデンボール賞(大会MVP)」に輝いたのは、ウルグアイのFWディエゴ・フォルラン(31)だった。7試合で5得点を挙げ、ウルグアイを40年ぶりのベスト4に導いた。
 1979年5月19日生まれ。ウルグアイ代表DFとして2回のワールドカップに出場した経験をもつパブロを父にもつサラブレッドだった。少年時代にはいろいろな競技に興味をもち、テニスでも将来を嘱望される存在だった。だが12歳のときに姉アレハンドラが交通事故で半身不随となったことで、姉のためにサッカーひとすじで生きようと決意する。
 18歳でプロ入りし、99年にはナイジェリアで行われたU-20ワールドカップの準決勝で日本と対戦し、1-2で敗れている。02年にイングランドのマンチェスター・ユナイテッドに移籍、大きな期待を集めたがうまくいかず、04年にスペインのビジャレアルに移って持ち前の得点力を発揮できるようになる。
 今回のワールドカップでは、「スーパースター」と期待された何人もの選手が力を発揮できず、早々と敗退していった。そのなかで異彩を放ったのがフォルランだった。
 ドリブル突破、強い意志を感じるパス...。彼のプレーは卓越していた。そのうえ、決定的なゴールを挙げ続けた。だが何より印象的だったのは、彼がそうした自己の能力をすべてチームの勝利のために使っていたことだった。得点後の表情には「スター」にありがちな自己陶酔などかけらもなかった。すべてのゴール、すべてのプレーは、チームの勝利と、祖国のファンのためのものだった。
 「ゴールデンボール賞は正直うれしい。でもそれはウルグアイが好成績を残した成果であることを忘れてはいけないと思う。これはウルグアイのサッカー全体がもらったもうひとつの賞なんだ」
 「出場機会が少なかった、あるいはまったくなかった仲間たちのことも忘れてはいけない。彼らはまちがいなくチームのバックボーンだった。この賞は彼らのものでもある」
 今大会、フォルランのプレーはいつも美しかった。それは、12歳のときから彼のサッカー観を貫く「無私の精神」から生まれたものであることを、大会後の彼のコメントを読みながら理解した。
 
(2010年7月28日)

No.795 サークルディフェンス

 「サークルディフェンス」の発見者は、サッカー分析家の庄司悟さんである。
 昨年6月、FIFAコンフェデレーションズカップのアメリカの試合の映像を分析していた庄司さんは、守備時の選手たちが通常の考え方とは違うポジションの取り方をしているように感じた。DF、MF、FWの「3ライン」で守備組織を構成するのではなく、チーム全体で「サークル(円)」を形づくっていたのだ。
 8人で直径40メートルほどの円をつくる。その中央に2人のMFが位置する。こうすると選手間の距離が約15メートルで均等になる。円の外では相手にパスを回させるが、内側にはいってこようとすると包み込むようにボールを奪う。
 守備だけが目的ではない。ボールを奪うと、前へではなく、左右両外、45度に向かって攻撃の軸をつくり、その方向にカウンターアタックをかける。守備時に円形にポジションを取っているから、攻撃への移行は非常にスムーズだ。
 実はそのときには庄司さんの説明に納得できたわけではなかったのだが、今回のワールドカップでサークルの威力を見せつけられた。準々決勝、アルゼンチン戦のドイツだ。庄司さんによると、ドイツは昨年10月のロシア戦からこの新戦術を取り入れたという。
 天才メッシを中心とした破壊的な攻撃力で優勝候補の一角だったアルゼンチンを、ドイツはまるで子供扱いするように4-0で撃破した。アルゼンチンはドイツのつくるサークルに翻弄(ほんろう)された。メッシが単独でサークルの内側にはいろうとしても、たちまち囲まれてからめ取られた。そしてそこから繰り出されるドイツのカウンターを止めるすべがなかった。
 そのドイツが逆に子供扱いされたスペインとの準決勝はさらに衝撃的だった。ドイツは相手に外側でボールを回させ、「パス地獄」で自滅させようとした。だがシャビを中心としたスペインのパスワークは自在にドイツのサークルの内側にはいった。気がつくと、対応に追われたドイツのサークルは無残なほどに形が崩れていた。
 ようやくボールを奪回してカウンターに出ようとしても、円形ができていないから軸がなく、パスの出し所を探しているあいだにスペインに奪い返される―。それが準決勝のドイツの真実だった。
 最新のチーム戦術とそれを崩したスペインの技術。サッカーの奥深さを堪能させたワールドカップだった。


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アルゼンチンに完勝したドイツ(黒ユニホーム)のサークルディフェンス

(2010年7月21日)

No.794 ワールドカップ成功を支えた南ア国民

 「10点満点で9点」
 決勝戦翌日の記者会見で、国際サッカー連盟(FIFA)のジェゼフ・ブラッター会長はワールドカップ2010南アフリカ大会の成功を称賛した。
 大会前にこれほど懸念をもたれたワールドカップはかつてなかった。犯罪率の高さ、伝染病、そして不十分なインフラ...。大会まで1年を切った09年にも、「プランB(代替地開催)」のうわさが絶えなかった。
 だが始まってみると過去に記憶がないほど喜びにあふれた大会となった。大会を安全に、そしてできる限り快適にするために南アフリカ政府と地元組織委員会が払った努力は並大抵のものでなかっただろう。しかし何にもまして大会を盛り上げたのは、5000万国民がこぞって「ホスト」の意識をもち、同時に、自らも心から大会を楽しんだことではなかっただろうか。
 「ワールドカップを楽しんでいますか。この国はどうですか」
 飛行機で隣に座った人から、小さな買い物をした店の人から、そして道ですれ違っただけの人びとからまで、毎日何回もこう聞かれた。そして私が日本人だとわかると、「あの試合は本当に不運だったね」と、パラグアイ戦のことに触れ、本田や遠藤の名前を出して「次の大会ではもっと上に行けるよ」と慰めてくれた。
 ただひとつ残念だったのは、地元の人びとが「バファナ・バファナ(少年たち)」と呼んで熱愛する南アフリカ代表が早々と敗退したことだった。開催国が1次リーグを突破できなかったのは史上初めて。前回準優勝のフランスに2-1で勝ちながら決勝トーナメント進出を逃したことは、人びとを深く落胆させた。
 だがここからがこの国の人びとの「サッカー愛」の見せどころだった。「バファナ・バファナ」のシャツが売れ続ける一方、人びとはそれぞれ次に応援するチームを決め、そのサポーターとなった。
 スタジアムも街もよりカラフルになり、世界中からやってきたサポーターと南アフリカ人の「にわかサポーター」の交流で笑顔が広がり、楽しい雰囲気でいっぱいになった。
 国籍も肌の色も関係ない。応援するチームのシャツを着て歌い、声援を送り、ジョークを飛ばし合い、ブブゼラを吹く。まさにユートピアだった。
 「人びとの、人びとによる、人びとのための祭典」―。ワールドカップの本質を、これほど強く感じた大会はなかった。
 
(2010年7月14日)

Talk6 ひとひとりの人生をも変える祭典、ワールドカップ

皆さんこんにちは。前回、オイルショックによって内定取り消しの危機に陥った一部始終を語ってもらいましたが、今回はサッカースクールの経験がその後の人生にどう影響したか、そして、「サッカーマガジン」志望の理由について語ってもらいました。
 
サッカースクールで培った編集業務
 
兼正(以下K)
その時々で紆余曲折はあっても、ここまでは順調にキャリアを積み重ねていっている印象を受けるんですが......。

良之(以下Y)
人には中学1年生で編集部に入り、中学3年生でサッカー部に入部、大学卒業と同時に「サッカーマガジン」編集部に入社――なんて計画的な人生なんだろうって言っているけど、実際はそんなこと全くないんだよね。

K
それはどうしてですか?

Y
サッカースクールのアルバイトをしていたときに、「会員に配布する広報新聞を作りたい」って言い出した社員の人がいて、やってくれないかって頼まれたんだ。それからひと月に1冊、会員に配る会報誌を作り始めたんだよ。

K
お願いされた時、少し時間をもらって考えてみようとは思わなかったんですか?

Y
いや、それがすごく簡単に引き受けちゃった。中学のときに会報誌を作っていた経験があったから大丈夫だろうって。でも甘かったね。文章ひとつとっても、中学のときに作っていた会報誌は「原稿用紙3~4枚くらいで記事書こうか」って具合だったから、文字量、さらに行数まで指定されるものなんて経験がなかったんだよ。だからもう大変。会員5~600人に配るから、それなりにしっかりとしたものを求められたからさ。実際作っていた会報誌の一面には「今年の秋期大会では~」なんてサッカースクールに関する情報をもってきて、裏面には「ペレがこんなこと言いました」的な話を写真と一緒に掲載してた。写真はサッカー雑誌の切り抜きを使ったりして。今なら著作権法違反だよね(笑)。

K
おじさん一人で作っていたんですか?

Y
そう、ひとりで作っていた。最初のうちはすごく大変だったよ。よく徹夜もしていたし。大学3年の秋くらいからはじめたから、「サッカーマガジン」のアルバイトをしながら作っていたね。凝った作りにしていたから人に原稿を発注していたよ。

K
赤字を入れたりはしていたんですか?

Y
やってたよ。他人が書く文章ってこんなに癖があるものなのかって、嫌というほどわかった(笑)。でもその経験が後の人生で一番役に立っていると思うよ。
 

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「サッカーマガジン」志望の理由
 
K
「サッカーマガジン」を志望したのはなぜですか?

Y
ワールドカップに行くチャンスが一番ありそうだったからだよ。66年のイングランド大会を見て、次が70年のメキシコ大会。テレビ報道はなかったから、試合の結果が知りたくて、夕刊の英字新聞を一ヶ月間購読して、そこで「ブラジルが勝った!」とか一喜一憂してた。そうしたら、たまたま「三菱ダイヤモンド・サッカー」がその大会のビデオを入手し、放送し始めて僕もそれを見たんだ。映像がカラーだったっていうこともあると思うけど、それぞれの国が違ったスタイルで試合に挑み、白熱した試合を繰り広げるわけ。とにかく凄かった。それでなんとかワールドカップに行けないかなって思い始めた。行けそうなのはどこかなって考えたら「サッカーマガジン」かサッカー協会のどちらかだったんだよ。

K
当時、サッカー専門誌は「サッカーマガジン」ひとつだけだったんですか?

Y
小さいのはいくつかあったと思う。「イレブン」ていう選択肢もあったけど、間違えだらけだったからちょっとなって思って辞めたような気がする(笑)。それもあって「サッカーマガジン」にしたんだよ。大学卒業してすぐのワールドカップは74年西ドイツ大会。自分の中では大学卒業してすぐの新人に行くチャンスはないだろうって思って、その次の78年のアルゼンチン大会に賭けてた。行ければ会社辞めてもいいと思っていたくらいにね(笑)。

K
ワールドカップはおじさんの人生を変えたんですね。

Y
でも父親と母親の前で話をしたときは大変だったよ。まさかワールドカップへ行きたいから「サッカーマガジン」に就職したいなんて言えないから、サッカースクールで指導したことを引き合いにして、サッカーは子供たちが成長するのにすごくいいスポーツで、子供の教育が伴ったこんなすばらしい競技を広めることは、ひいては日本の社会をよくすることに繋がるんだっていったんだ。だから、ただ好きだからその道に進もうと考えているわけじゃないってことを切々と語ったよ(笑)。

K
理解は得られたんですか?

Y
父親が背中を押してくれたんだ。「がんばりなさい」って。えらいよね、お父さんは。こんな邪まな考えが根底にあったのに(笑)。
 
 
→(次回に続く)