「みんなはブラジルだ、スペインだと言うけど、僕はアメリカに注目しているんだ」
そう話すのは、私の古い友人で、サッカーのデータ分析の専門家である庄司悟さんだ。
アメリカは昨年6月に南アフリカで行われたFIFAコンフェデレーションズカップで準優勝。準決勝でスペインを2-0で破り、決勝のブラジル戦では2点を先行した。
ワールドカップの北中米カリブ海地域予選を首位で突破し、現在FIFAランキング14位。ワールドカップではC組でイングランド、スロベニア、アルジェリアと対戦する。02年大会ではベスト8。狙いはベスト4だ。
コンフェデ杯のデータで庄司さんが何よりも注目したのは、アメリカ選手のスプリント(ダッシュ)の回数、とくにMF陣のスプリントの多さだった。従来の常識ではチームでスプリントが多いのはサイドバック。実際、コンフェデ杯の他チームのデータもその「常識」を裏付けている。
だがアメリカで最もスプリントが多いのは攻撃的MFのドノバンとデンプシーの2人だ。ボランチのクラークとブラッドリーもチームのなかで常に上位にはいっている。
アメリカのMF陣は攻撃面ではFWを追い越して前線に飛び出していくプレーを繰り返し、守備面ではボールをもつ相手を猛然と追い詰める。そしてこうしたプレーを90分間にわたってやり抜くことができる。
さらに庄司さんは、戦術面でもアメリカには他チームにない新しさがあると言う。ボールを奪ってからの攻撃への切り替えが非常に速い。特徴的なのははその攻撃の方向だ。相手ゴールにダイレクトに向かうのでもなく、逆サイドに展開するのでもない。その中間の角度に鋭く展開する。これによって、攻撃の二大要素である「広さ」と「深さ」を同時につくり出し、相手に安定した守備を組織しにくくさせるのだ。
アメリカの選手たちは、フィジカルの強さに加え、一人ひとりが果敢な決断力をもち、進んでリスクにチャレンジする。MFブラッドリーの父でもあるボブ・ブラッドリー監督は、選手たちの特徴を生かし切ったサッカーをつくり上げた。
ことし最初の合宿にはいった日本代表。岡田武史監督は「世界を驚かせ、ベスト4にはいる」と宣言しているが、アメリカもまったく同じ野心をもち、しかも実績と具体性を兼ね備えている。
ワールドカップ開幕まで、残り134日。
(2010年1月27日)
「ベネズエラとの親善試合は昨年の復習の機会にしたい。そして東アジア選手権の3試合では、(1年間で)われわれがどれだけステップアップできたか確認したい」
2月2日のベネズエラ戦(大分)を経て、6日から14日にかけて東京で開催される東アジア選手権で中国、香港、韓国と対戦する日本代表。「2月シリーズ」の4試合を、岡田武史監督はこのように位置付けている。
1月28日にオフ明けのトレーニングを開始した直後の4試合。だが昨年11月の香港戦を最後にチームを解散する際、岡田監督は選手たちに「宿題」を課している。調整不足という選手などいるはずがない。「ステップアップを確認」という言葉に、岡田監督の自信がうかがえて頼もしい。
だが私は、東アジア選手権の3試合は徹底的に勝負にこだわるべきだと考えている。
この大会は公式戦である。過去3回、日本はすべて2位で、優勝がまだない。そして今回はホームである。それだけではない。ワールドカップまでに勝負にこだわることができる機会は、この大会しかないからだ。
岡田監督は常に「チームコンセプト」を口にする。チームとしてやるべきサッカーを徹底することこそ、「ワールドカップ・ベスト4」への道だと語る。昨年の強化試合はそこに重点が置かれていた。勝つために全力を尽くすことは大前提だが、評価の基準は常に「コンセプトを実現できたか」だった。
だがワールドカップではコンセプトをベースにしながらも勝負にこだわらなければならない。「コンセプトを徹底し、見事なサッカーができた。だが負けた」でいいと考える選手などいない。「コンセプト」とは、勝利という結果を出す手段だからだ。
2003年12月に東京で行われた第1回東アジア選手権の最終日。試合開始早々に退場で1人減りながらも、日本代表は韓国を相手に猛攻を仕掛けた。だが日本が「攻勢」をとることができたのは、韓国が勝負にこだわったからでもあった。
それまでの2試合の総得点数で上回る韓国は、日本と引き分けなら優勝という立場だった。だから前年のワールドカップで4位というプライドなどかなぐり捨て、10人の相手の攻撃をはね返すことに集中した。そして「初代東アジアチャンピオン」の座を手にした。
「勝負にこだわる」ことから得られるもの、見えてくるものも、小さくはない。
(2010年1月20日)
皆さんこんにちは!
前回の話しでは奥寺康彦を擁し神奈川県で最強の座をほしいままにしていた相模工業大学付属高校や、帰化選手が多く活躍していた日本リーグについて話してくれました。今回は自身のサッカー人生の"転機"となったサッカースクールでのアルバイト経験や、「サッカーマガジン」入社までの経緯を語ってもらいました。
人生の転機となった東京サッカースクール
兼正(以下K)
そういえば大学時代にサッカーを教えていたって聞いたんですけど、どんなサッカースクールで教えていたんですか?
良之(以下Y)
東京サッカースクールというところでアルバイトをやっていたよ。本部は進学教室を経営している会社だったんだけど、お金が余ってたらしくて、大学生のアルバイトを雇って子供たちにサッカーを教えてたんだ。そこで大学二年生の時から卒業するまで働いてたね。面白かったよ。
K
教えるって大変だけれど面白いですよね。
Y
そうなんだよ、面白いし、それまではただサッカーを好きでやってきたから、自分が考えることってそう多くはなかった。でも教える立場になってから、子供たちにとって「何が大事なのか」って真剣に考えるようになったんだ。
K
大変なこともあったんじゃないんですか?

Y
本部の管理職の人とぶつかったことがあってね。こっちからしたら「なんでそんなこと言われなきゃいけないんだ」っていう感じのこと。でも相手は責める訳だよね。それで「もうやってられるか」って、気持ちが離れそうになったけど、その時考えたんだ。大学を卒業してどんな会社に就職しても、こういう理不尽なことを要求したりする上司もいるに違いない、そこで辞めてしまったらおしまいじゃないか。仕事をするなら、自分が本当にやりたいことをやろうってね。大学三年の時だったかな。相手は覚えていないと思うけど、僕にとっては人生で非常に大きな出来事だった。サッカーで生きていこうって決めた時だったからね。
K
今考えるとそれが人生のターニングポイントだったんですね。
Y
何でもいいから少なくともサッカーの仕事には就こうと考えた。一生出来るかどうかはわからなかったけれどね。
K
確か大学は法学部でしたよね。
Y
そう、弁護士になろうと思っていたからね。だから一年生の時は一生懸命そのための勉強をしてた。でも勉強の仕方が悪かったのか、さっぱりわからない。テストとかはわかるんだけど実生活での経験がないから、いまいちピンと来なくて。法律って子供がやる学問じゃないって悟った。それで就職を考えるようになった。当時は売り手市場で、大学三年の頃は企業からPRの冊子が山ほど来たんだよ。
K
今の世の中の状況を考えるとうらやましい限り。僕も就職難だったから。
Y
そうだよね。それでね、おじいちゃん(良之の父)が企業からきた冊子を取っておくわけ。封筒だけで天井まで届いたよ(笑)。そんな世の中だったから、大変申し訳ないんだけど、大学二年生からあまり勉強をしなかった。一橋大学卒業って書いてあるけど、ゼミの教授からは「お前なんて大学に置いといても仕方ないから卒業させてやる」って言われてたよ(笑)。でも大学時代に何やっていたかってって聞かれたら「サッカースクールでサッカー教えてました」っていう他ないんだけどね。実際に指導するのは週一回だったけど、それまでの週6日、本部に通いつめて次の指導の準備だとか、夏の企画の検討だとか、安い給料で社員以上に働いていたよ。それがあったから働くってことに関して大きな自信を得ることができた。合宿ひとつに関しても、今まで誰もやらなかったことをやってみたりして、それが好評で徐々に認められていったり。本当に面白くて楽しかったから、卒業するまですっと続けてた。
K
家族の反対とかはなかったの?
Y
大学三年生が終わろうとしていた1月に履歴書を「サッカー・マガジン」編集部に渡しに行ったあとに話したね。神田駅からいきなり「サッカー・マガジン」の裏表紙に書いてある電話番号に電話して、「サッカー・マガジンの池田恒雄さんお願いします」って。本当に何も知らなかったんだよね。池田恒雄さんというのは、ベースボール・マガジン社の創始者で、当時の社長なんだ。でもサッカー・マガジンの裏表紙には「編集兼発行人・池田恒雄」となっていたから、編集長だと思いこんでいたんだ。
K
相手はびっくりしなかったんですか?
Y
そりゃあびっくりするよ。「どういうご用件でしょうか」って聞かれたから、そこで「サッカー・マガジンに入りたいんですけど」って言ったの。
K
話は聞いてもらえたんですか?
Y
電話交換手の女性がとっても親切な人で、サッカー・マガジンの編集長につないでくれた。「話を聞いてください」って言うと会ってくれて近くの喫茶店で話をした。そうしたら開口いちばん「こんな会社やめとけ」って言われた(笑)。給料安いし、会社更生法にその時入っていたからね。「でもやりたいんです」って言って履歴書渡して帰ってきたら一カ月くらい経って、編集部から「社長が会いたいと言っているから来い」と連絡があって池田恒雄さんに会いに行くことに。でも関係のない話ばっかり。「お前だったら将来銀行の頭取にでもなれるだろ」って、ガハハと笑って。それで就職内定だったんだよ。
→(次回に続く)
年が明けたと思ったら、早くもJリーグのクラブがトレーニングを開始した。J1、J2計37クラブの先頭を切って、浦和レッズが11日に始動したのだ。
18シーズン目のJリーグ。ギラヴァンツ(旧ニューウェーブ)北九州を加え、J1が18、J2が19、計37クラブとなった。旧日本サッカーリーグ以来27シーズンも日本のトップリーグの地位を守ってきたジェフ千葉が、柏レイソル、大分トリニータとともにJ2に降格、代わってベガルタ仙台、セレッソ大阪、そして湘南ベルマーレがJ1に昇格する。
J1、J2など全公式戦を合わせて入場者総数年間1100万人(イレブンミリオン)を目指すJリーグ。昨年は962万3584人を記録したが、「看板」のJ1の入場者は1試合平均1万9127人。前年より、わずか(152人)ながら減少した。
世界をリードするヨーロッパのサッカーリーグは、テレビ放映権料の高騰で収入を伸ばし、世界中からスター選手を集めることに成功した。だがJリーグの放映権料はヨーロッパの一流クラスと比較すると10~20分の1程度にすぎない。長引く不況でスポンサー収入の伸びも見込めず、どのクラブも厳しい経営が続いている。
この状況で大事なのは「仲間」を増やすこと。サッカーファン、クラブのサポーターを増やし、一人でも多くスタジアムに足を運んでもらうことだ。満員のすばらしい雰囲気のなかで試合をしていれば、やがて経済が上向いたときスポンサーも放映権収入もついてくるはずだ。J1では過去にない1試合2万人以上を実現することが今季の目標だ。
ではどんなことをしたら観客が増えるのだろうか。ひとつのヒントを昨年南アフリカで見た。「フットボールフライデー」。金曜日には何でもいいからサッカーのユニホームを身に着けるという運動だ。職場が、学校が、そして街角がカラフルなユニホームであふれ、ワールドカップの話題が盛り上がり、関心も増しているという。
たとえば浦和で、ホームゲーム前日に、翌日スタジアムに行かない人もどこかに赤いものを身に着けるという運動はどうだろうか。Jリーグ新加入の北九州なら、当然黄色(ギラヴァンツのクラブカラー)だ。
うまく広まれば町の人びとの心をつなぎ、ウキウキするような空気が生まれるだろう。そしてそれは、必ず観客数増にも結び付く。
(2010年1月13日)
明けましておめでとうございます!本年も「サッカーのムダ話」をよろしくお願いいたします。
前回、入部したサッカー部での出来事や、64年東京オリンピック、対アルゼンチン戦で日本が逆転勝利をおさめ、日本サッカー界の歴史的一歩を踏み出したことについて話してもらいましたが、今回は「東洋のコンピューター」と呼ばれたあの人との対戦や、チームのスタイルが明確で楽しめた日本リーグについて語ってくれました。
奥寺康彦と相模大学付属高校黄金期
兼正(以下K)
東京オリンピック後にサッカーの認知度が高まったことは、神奈川県の高校に何か変化をもたらしたんですか?
良之(以下Y)
そうだね。スポーツに力を入れていた学校には、いい選手が集まるようになった。神奈川県だと、なんと言っても相模工業大学付属高校。僕の年代の各中学のエースがごっそり集まってすごいチームを形成してた。あの奥寺康彦もいた。神奈川県の高校はそれまで全国に行っても上の方まで進むのが難しかったんだけど、その年代は確かベスト8までいったんじゃなかったかな。とにかく圧倒的に強かったよ。
K
相模工業大学付属高校はものすごい練習量で有名だったって聞いたことがあるけど。
Y
そりゃそうだろな。うちみたいな週二回の部活動じゃやっぱりだめだよ(笑)。ちなみに高校サッカーで一番メインとなる二年の時のインターハイの初戦の相手。
K
え!? 1回戦でいきなりそんな強豪校と。
Y
そうなんだよ。だからこっちはもう守るしかないって感じだった。でも、始まってすぐに相手の左からのコーナーキック。バーンって大きめのボールが上がって、僕らはみんな裏に抜けるなって思っていたんだよ。そうしたら中央で奥寺がドカーンって来て。ジャンプを見たら、二階ぐらいの高さからすごいヘディングシュート打つわけ。それで先制されてしまった。
K
もう漫画みたいな世界(笑)。
Y
怪物だったよ。彼はね、中学から高校にかけて体がグンと急激にでかくなった。だから存在感も抜群で。
K
奥寺さんって当時どのポジションでプレーしてたんですか?
Y
センターフォワードだった。すごかったよ、とにかく。
K
県内で他で強い高校はありましたか? 今だと、桐蔭学園とかが強豪として有名ですけど。
Y
桐蔭は今ほどじゃないけど、当時ベスト8に入るぐらいの力はつけていたね。まあ、でもやっぱり相模工業大学付属高校が図抜けた強さだったってことは強烈に覚えているよ。

さまざまなプレイスタイルを楽しめた日本リーグ
K
おじさんの高校時代って「三菱ダイヤモンド・サッカー」の他に、世界のサッカー情報を仕入れる手段ってなんだったんですか? 僕の高校時代はテレビだと深夜にフジテレビでやっていた「セリエAダイジェスト」。ジョン・カビラさんと青島アナウンサーの実況が面白くて強烈に印象に残ってます。特に青島さんが、当時インテルに所属していたヴィエリの実況をするときなんか最高だった。彼がボールを持つと、ただ「ウォー、ウォー」って吠えまくるの(笑)。一見言葉だけだと意味が伝わらないんだけど、彼のいかつい風貌とガツガツしたプレースタイルがあまりにもマッチしていて深夜なのにゲラゲラ笑ってました(笑)。あとは、雑誌だと「サッカーマガジン」や「サッカーダイジェスト」。ちょっと格好つけてるやつはナンバーとか読んでましたね。
Y
僕の頃はサッカー関連の情報を伝える媒体自体が少なかったからね。でも「サッカーマガジン」はあった。少し経ってから「イレブン」が創刊されたんだけど。「三菱ダイヤモンド・サッカー」が始まったのが高校二年の時。それで一年間はずっとイングランドサッカー漬け。それ以外の国のサッカーってほとんど見ることが出来なかったから。「サッカーマガジン」にのる海外情報もほとんどイングランドだったね。
K
好きなチームってありました?
Y
高校のころは、特別好きなチームってなかったかな。でも日本リーグのヤンマーのことは気になって見てたね。1967年に釜本が入って、そのあとすぐネルソン吉村が入団した。ヤンマーのプレースタイルってとっても画期的だったんだよね。当時は東洋工業サッカー部が「第三の動き」っていう呼び名がつけられるほど、人が動くサッカーで強かった時代。それに対抗するのはヨーロッパスタイルの三菱重工業サッカー部。監督はブンデスリーガに短期間選手を預けて強化を図ったことでも有名な二宮寛。そこに鬼武健二監督のヤンマーがブラジルスタイルで食い込んできたわけ。ネルソン吉村に続いてカルロス・エステベスやジョージ小林をブラジルから呼んで、個人技はめちゃくちゃうまかったよ。日本人も個人技のうまいやつを揃えてた。今と比べてチームごとのスタイルの違いがとてもはっきりしていて、非常に面白かったね。
K
実際に見に行ったりとかは?
Y
高校時代はあまり行けなかった。横浜の三ツ沢には何回か行ったことはあったけれど。大学に入ったら、毎週のように見に行っていたよ。東京に住んでいたから、行こうと思えばいつでも見に行くことが出来た。お客さんも全然いなかったから、前売りも買う必要がなかった。スタジアムに行けば入れたからね。
→(次回に続く)