Talk2 サッカー部へ入部、あこがれの選手は?

皆さんこんにちは!
前回のインタビューで、オールドサッカーファンの中には因縁の対決として記憶に残っている方もいるであろう、1966年ワールドカップ決勝「イングランドVS西ドイツ戦を見たことがサッカーに本格的にのめり込むきっかけだった」と語ってくれた良之おじさん。今回は、その後すぐに入部を決意したサッカー部での出来事や、当時憧れていたサッカープレーヤー、そして日本サッカー界が発展への道を歩みだす第一歩となった試合について語っていもらいました。


兼正(以下K)
世界のサッカーシーンにとっても(とりわけイングランドとドイツの間では現在でも論争がおこる)重要な一戦となった試合を見て入部を決意したわけだけど、イングランド大会を見るまでは特にサッカー部に入るとかは考えていた訳じゃなかったんですか?

良之(以下Y)
本当になんでもよかった。ただ放課後「だら~」って過ごすことに飽き飽きしてた頃だったから、とにかく体を動かせる部活に入りたかった。

K
小学校のときにやってた野球は選択肢にはなかった?

Y
うちの野球部の雰囲気があまり好きじゃなかったから(笑)。その時ね、たまたま僕の隣に座ってたやつも同じような状況だった。ブラスバンド部だったけどね、そいつは。いっしょに野球部に入ろうって誘われたんだけど、夏休み明けに僕が「サッカー部に入ったよ」って言ったら、そいつも入って。

K
じゃあ今まで入っていた編集部は辞めてサッカー部に?

Y
いや、掛け持ちでやってたね。時間だけはたっぷりある部活だったから(笑)。

K
サッカー部ではポジションはどこでプレーしていたんですか?

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Y
入った時は、周りはずっとサッカーやってるやつばかりだった。だから中学三年だけど一年生の練習に混ざってやってた。ポジションなんてなかったよ。それである程度基礎が身についてようやく三年の練習に加わったんだ。ポジションはフォワード。ただし、フォワードって言っても格好いい点を決めるタイプじゃなくて、こす~い点をとるタイプ(笑)。

K
泥臭いってこと?

Y
ちがうちがう、こす~い点取り屋(笑)。


憧れのプレーヤーはジミー・グリーブス

K
ぼくは学生時代、アーセナルに所属していたオランダ代表のデニス・ベルカンプにあこがれていたんだけど、良之おじさんの憧れてたプレーヤーって誰でした? 

Y
ジミー・グリーブスって知ってる? その頃ね、「三菱ダイヤモンド・サッカー」っていう海外のサッカーを紹介するTV番組をやってたんだ。だからトットナム、アーセナル、マンチェスター・ユナイテッドとかの情報は手に入れることができた。ジミー・グリーブスはトットナムの選手で、そんなに大きくないんだけど、ゴール前でこちょこちょってやって点を取ってた。

K
その選手に憧れていた?

Y
憧れてたとまではいかないけれど、強いてあげるとすればね。

K
おじさんは背番号は何番を付けていたんですか?

Y
背番号は8番をつけたかったんだけど、当時の学校のサッカー部って個人でユニフォームを持っているわけじゃなくて、部で十一枚持つシステムだった。ちなみにキーパーは自分で用意したユニフォーム。だから番号で言うと二番から十二番まで。だから一人目の交代はいいんだけど、それ以上交代するとなるとその場で脱いで渡してた。汗の染みこんだベチョベチョのやつを(笑)。

K
うわ~、ビブスでさえ人から受け取ると異様な臭いがしたりするのに(笑)。そういった面を考えると今の中学や高校のサッカー部は恵まれてますね。サッカー部のレベルはどうでした?

Y
神奈川県の中では強かった方かな。と言っても、神奈川県でサッカーがあまり盛んでない頃の話だけれど。他校には高校から始めた人たちも結構多かったし、昔からの通例で「サッカー部=不良の溜まり場」みたいなところもあった。僕の高校は週に二回しか部活動がなかったんだ。だからフィジカル的には弱いけれど、小さい頃からやっている奴が大半だったから、技術的にはしっかりしたモノを持っているチームだった。僕の五年上の代は全国大会に出ていたから。当時は単独校の大会だった国体の予選にも勝ったんだけど、学校が「他の生徒が勉強しているときに、部活動をするなんて許さない」って言って出場を許可してくれなかった。
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K
すごい時代(笑)。今では考えられない理由ですね。

Y 
それはそれでひとつの考え方だと思うけどね。ただ社会的に見れば、サッカーの認知度など非常に低い時期だった。でも64年の東京オリンピックで日本がアルゼンチンに勝つという快挙があって、少しずつ状況が変わってきていた。それまではサッカー=球蹴りのイメージだったんだけど、そのころからサッカーという競技が一般に認知されはじめたんだよね。

→(続きは次回)

「サッカーの造形」を更新しました

「サッカーのムダ話」連載がスタートしました

No.773 ワールドカップの父 村田忠男さんを悼む

 90年代に日本サッカー協会専務理事、副会長、アジアサッカー連盟副会長などを歴任された村田忠男さんが、先週金曜日、肺がんのため永眠された。77歳という若さだった。
 日本のサッカーファンにとって「ワールドカップの父」とも言うべき人だった。
 2002大会の招致を目指して日本サッカー協会が招致活動を始めたのは1990年のことだったが、そのけん引車役が村田さんだった。だが当時の協会は「ワールドカップ開催など夢のまた夢。日本代表が出場することが先決」という空気が支配的だった。
 Jリーグ誕生前、日本のサッカーはまだマイナーの地位を抜け出ていなかった。村田さんは持ち前の笑顔で周囲を説き続け、ついには政界・財界をまき込んだ「招致委員会」の設立にこぎつけた。
 そして精力的な招致活動が始まる。村田さんの功績は、南米サッカー連盟の厚い信頼を得たことだった。81年に始まったトヨタカップを通じてできたつながりを生かし、南米連盟の人びとと強いきずなをつくった。
 南米連盟あるいはその役員たちに「利益」をもたらしたわけではない。村田さんの飾らない人柄と、相手のことを心底から気遣う親切が、南米の人びとの心をつかんだのだ。最終的に日本単独開催はならなかったが、南米連盟の強力な支援なくしてワールドカップ日本開催はなかった。日本の人びとが地元でワールドカップを楽しむことができたのは、村田さんの豊かな人間性のおかげだった。
 その2002年大会の36年も前、村田さんは日本にひと粒の小さな種をまいた。英国のBBC放送との交渉をまとめ、66年ワールドカップ・イングランド大会の決勝戦のフィルムを日本に持ち帰ったのだ。そのフィルムは、7月30日の決勝戦のわずか8日後、66年の8月7日(日)の午後4時半からTBSで放送された。日本で初めてのワールドカップ放映だったはずだ。
 その後、その放送を見たという人に私は出会ったことがない。急に決まった番組で、視聴率など微々たるものだったのだろう。だが当時中学3年生だった私は、まったくの偶然で、イングランドが延長の末西ドイツを降した試合を見た。そして雷に打たれたような衝撃を受け、夏休みが終わるのを待ちかねるようにサッカー部に入部届けを出した。
 ひとりの人間の努力が社会に与える影響の大きさを思わずにはいられない。合掌。


no773_09_12_16用1995年6月村田忠男さん(撮影今井恭司)_2.jpg
1995年6月村田忠男さん(右)と著者 (撮影今井恭司)
 
(2009年12月16日)

No.772 ワールドカップ組分け決まる

 「同じ組の他の3チームは、そろって、最も弱いのは日本と考えているだろう」
 来年のワールドカップ1次リーグでの日本の対戦相手が決まった。アフリカの雄カメルーン、優勝候補の一角オランダ、そしてヨーロッパ予選で最大のセンセーションとなったデンマーク。世界のメディアは、冒頭のコメントのように、日本が決勝トーナメントに進出する可能性はほとんどないと、手厳しい。
 日本国内でも「難しい組にはいった」という論評が少なくない。だがそんなことは抽選の結果を待つまでもなく明らかだった。
 アジアの他の国とは同じ組にならないことは最初から決まっていた。抽選の手順が決まった時点でオセアニアおよび北中米カリブ海地区のチームとも当たらないことになった。トップシードの1チーム、ヨーロッパから1チーム、そしてアフリカあるいは南米から1チームという組では、どんな抽選結果でも世界の目から見れば「最下位候補は日本」となるのは当然だ。
 オランダでは、抽選の最後の段階でくじが引かれた「ヨーロッパ枠」からポルトガルがはいらなくてよかったとの声が高いらしい。しかし日本にとってはデンマークもポルトガルも大差はない。なにしろデンマークは、予選でポルトガルに1勝1分けと勝ち越しているのだ。
 対戦チームについての情報収集は重要だ。しかし「勝てるかどうか」という予想など何の意味もない。動かしようのない世界の評価を覆すために、日本代表が最大限の力を発揮できるよう、最大限の支援をしていくほかはないのだ。
 現在の日本代表には明確な長所がある。中盤の正確なパスワークだ。世界に知られているのは中村俊輔だけだが、遠藤保仁、長谷部誠、中村憲剛ら、彼に劣らない力の持ち主がそろっている。日本がパスを回し始めたら、どんな強豪でもボールの奪回に苦労するはずだ。しかし世界はその真の力を認識していない。それが日本の大きなアドバンテージだ。
 今後積み上げなければならないこともある。だが長所を勝利に結び付けるために最も重要なのはコンディショニングだ。初戦、6月14日のカメルーン戦で、フィジカル、メンタルの両面においていかにいい状態にもっていけるか、それが重要な課題となる。
 自らの位置を明確に認識し、相手を恐れずに最大の武器を生かし切る―。日本のワールドカップの戦いは、非常にシンプルだ。
 
(2009年12月9日)