はじめまして、大住兼正です。名字からお察しの通り、大住良之さんと僕とは親戚の間柄。叔父と甥の関係になります。
小さい頃から良之おじさんの記事を読んで育ち、いま僕はサッカーライター見習い中の身です。今回このサイトを開設するにあたって、おじさんとの対談をこのサイトで連載しないかというお誘いを頂きました。
おじさんが長い記者生活の中で体験してきた、サッカーにまつわるあれこれを聞き出し、読んでくださるみなさんに楽しんで頂く。そして僕自身も多くのことをこの対談で吸収していきたいと思います。
最近は僕と同じようにスポーツライターを志望する方がとても多く、どうやら人気の職業のひとつと言ってもいいと思いますが、かつておじさんが記者になった頃はどうだったのでしょうか?この連載のスタートに際して、おじさんがどのようにしてサッカーに興味を持ち、記者の道を選んだのか、当時の日本サッカーをとりまく様々なエピソードを交えて語ってくれました。当時を懐かしむ方、そんな時代があったのかと驚かれる方、いろんな方がいると思いますが、一人でも多くの方にこの連載を楽しんで頂ければうれしいです。

兼正(以下K)
こうして良之おじさんとサッカーの話をみっちりするのは、実ははじめてですよね。今日は僕みたいな若いサッカーファンにとっては貴重な話しがたくさん聞けると思うので、楽しみです。
良之(以下Y)
どうぞよろしくおねがいします。
K
では、さっそくですがサッカーに興味を持ったきっかけを聞かせてもらえますか。
Y
はじめてサッカーというものに触れたのは、小学生のとき。体育の授業でラインサッカーっていう競技があって、でも当時はサッカーという名前を知っている人はいてもどんな競技か知っている人は少なかった。だから先生たちの中には、サッカーは手を使ってはいけない競技なんだっていうイメージが先行している人が多くて、僕らは手を後ろに回した状態でのプレーを要求されてね。今じゃ考えられないけど。はっきり言って全然面白くなかった。けれど入学した中学校が、サッカーが校技みたいに非常に盛んなところでね。一年生の時にスポーツ大会があったんだけど、卓球とサッカーに参加したんだ。結局なにも出来なかったけど(笑)。でもその時、広い場所でサッカーをやったら「気持いいな」って思って。それがすべての始まりかな。
そこから本格的にサッカーに熱中するようになったのはどんなきっかけがあったんですか?
Y
1966年のワールドカップをテレビで見たことだね。当時、僕は中学校で校友会誌を作成する編集部に入っていて。そこで年に数回、会誌作りの活動をして残りの日々は遊び呆けていた。そんな学校生活がしばらく続くわけだけど、中学三年生になってくると、一般的には体も大きくなってくるよね。僕は大きくならなかったけど(笑)。その頃から実際にスポーツをやることにも興味を持つようになってきて。中高一貫教育の学校だったから、中学三年生の途中からでも部活に入ることが出来たのも今考えれば良かったかなって思う。それで、小学校のころは野球をやっていたから野球部にしようか、体育の授業でやったバレーが楽しかったからバレー部にしようかとか考えていた。ただ、サッカー部には友達が何人もいたからね。楽しそうだとも思っていたよ。そうこうしているうちに夏休みに入ってしまって。その年がちょうど1966年のイングランドワールドカップの年だったんだよ。
きっかけは1966年ワールドカップ・イングランド大会
K
今ではみんな当たり前のようにテレビでワールドカップを見ているけど、当時はワールドカップの中継ってされていたんですか?
Y
そう、それがね、だれも信じないんだけどやってたんだ。未だにそんな番組なんてやってなかったって言う人も多いけど。でも実際やってたの。決勝戦だけだったけど。確かTBSだったかな? 衛星生中継じゃないよ。試合の8日後に、空輸されてきたフィルムを放映したんだ。
K
66年のイングランド大会といえば、サッカー発祥の地であるイングランドが初優勝した大会でしたよね。ペレやボビー・ムーア、エウゼビオ、ベッケンバウアー、それにヤシンとかバンクスなど、今では記録映像でしか見ることの出来ない偉大な選手たちが活躍したすごい大会ですよね。
そう。「7月30日、ワールドカップ決勝。イングランドVS西ドイツ戦」。僕はもう夏休みに入っていて、家でなにをするわけでもなくプラっとしていたの。それでたまたまテレビをつけたらその試合の放送をやっていて。結果は新聞で読んで知っていたんだけれど。それは読売新聞の一番下の1段10行くらいの小さな記事で、イングランドが西ドイツに勝ったってことが書かれていた。でもスコアまでは覚えていなかったからね。試合は西ドイツがハーラーのゴールで先制するけど、すかさずイングランドもハーストのゴールで追いつく。さらにイングランドがピータースのゴールで追加点をあげ、西ドイツを逆転。そのまま終盤を迎えるわけ。このままイングランドが勝つんだろうなと思っていたら、終了直前に西ドイツのウェーバーの値千金のゴールで追いついて、延長戦に突入するわけ。当時、外国のサッカーを見る機会なんて全くなかったから、ほんとにその時が初めてだよ。日本リーグは何度か見ていたけど、全然違う体験だった。もう何もかもが想像がつかないくらい違う。今のプレミアリーグをテレビで見ていても「すごい!」と思う場面がたくさんあるけれど、あの頃はグラウンド、スタジアム、そして観客にいたるまで全てが全く別世界のものみたいだった。そして見ている試合は終了間際にゴールが入り、延長戦に突入するドラマチックな展開でしょ。結局イングランドが延長戦で二点とって初優勝を飾るんだけど、もう僕はそれどころじゃない。「うわっ、これはおもしろいな」って思ったんだよ。それで夏休みが終わったときにはサッカー部に入部届けを出しに行ってた。
K
うん、情報が本当に少ない時代にそんな試合を見ちゃったら、間違いなく僕も入部届けの準備にとりかかっていたんじゃないかな(笑)。
→(続きは次回)
11月14日(土)に予定されている日本代表と南アフリカ代表の親善試合会場は、二転三転の末、ヨハネスブルグ南郊の「ランドスタジアム」(3万人収容)で開催されることになったようだ。
当初はダーバンで対戦する予定だった。来年のワールドカップに向け建設した7万人のスタジアムの「こけら落とし」という晴れやかな位置づけだった。だが工事が間に合わず会場が変更された。
会場だけではない。南アフリカ代表も10月にサンタナ監督を解任し、昨年途中まで指揮をとっていた同じブラジル人のパレイラ監督が復帰したばかり。6月以来11戦して2勝1分け8敗という不振が解任の原因だった。
だがこうしたことで「来年のワールドカップは大丈夫か」と不安視するのは早計だ。南アフリカの人びとは立派な大会にしようと心待ちにし、「バファナ・バファナ(少年たち)」と呼ぶ代表チームにも大きな信頼を寄せているからだ。
南アフリカのサッカーの始まりは1860年代。ケープタウンの英国人たちがプレーしたのがアフリカ大陸最初のサッカーの試合と言われる。1892年には早くも協会(FASA)が設立された。
だがそれは白人だけの組織。厳しい人種差別の時代、非白人はスタジアムにはいることさえ許されなかった。1958年、協会は国際サッカー連盟への加盟を認められたがアフリカ諸国からの高まる反人種差別運動に押され、61年には資格停止、そして76年には正式に除名となる。
アパルトヘイト(人種隔離)が終結した91年、新たな協会(SAFA)が設立され、人種にかかわらずサッカーを楽しめるようになった。南アフリカ代表は96年に地元で開催されたアフリカ選手権で優勝を飾り、国民を歓喜の渦に巻き込んだ。
サッカーのほかラグビーやクリケットの人気が高い南アフリカだが、国民の7割を占める黒人が主にプレーするのはサッカー。それだけにワールドカップは人種間の壁を壊す役割を期待されている。
「地球上の人びとを結びつけるものがひとつだけあるとしたら、それはサッカーだ」
04年に10年ワールドカップの南アフリカ開催が決まったとき、招致委員会のジョーダン会長はこう語った。
派手に飾りつけたヘルメット姿のサポーター。耳を覆いたくなる「ブブゼラ(応援ホーン)」。カラフルで騒がしい南アフリカのサッカーが、日本代表を待っている。
(2009年11月4日)